『さよならを教えてくれた、あの町のパン屋さん』

コテット

文字の大きさ
9 / 10

第9話 さよならは焼きあがる匂いと共に

しおりを挟む


 その日の朝も、パン屋にはいつもの香りが満ちていた。

 けれど、どこかが少しだけ違っていた。
 気配というよりも、空気の密度。光の角度。言葉にならない、何かが――変わっていた。

「……ごめんね、直人さん」

 千代子さんが、ぽつりとつぶやいたのは、午前の仕込みがすべて終わった頃だった。

 彼女はテーブルに小さな紙袋をそっと置いた。

「この町の、山の向こうにね。あたしの妹が住んでるの。……その子に、ちょっと世話になることにしたわ」

「……え?」

「もう、腰もだし。診療所の先生にも、そろそろゆっくりしたらって言われてね」

 言葉がうまく出てこなかった。

「いつから……?」

「明日よ。朝一番のバスで。……もう、決めてたの。ずっと前から。でも、直人さんにはちゃんと“今”伝えたくて」

 そう言って、少しだけ目を伏せた。

「本当はね、もっと早くパン屋を閉めるつもりだった。でも、あんたが来てくれて、変わったの。もうちょっとだけ、焼こうかしらって思えたのよ。……楽しかったわ」

 静かな言葉が、胸に刺さる。

「それじゃ……もう、ここは……」

「ねえ、直人さん。もしよかったら、ここを――続けてくれない?」

 その言葉に、僕は顔を上げた。

「……え?」

「この家も、パン窯も、全部。手伝ってくれてた期間で、もう十分よ。あんたなら、大丈夫」

「でも、そんな……」

「ねえ。誰かが、あたしの焼き方を覚えてくれた。それだけで、もう十分なのよ。……おじいさんにも、そう言ってたの。『あなたがいなくなっても、パンの匂いが町に残れば、それでいい』って」

 ふっと笑って、千代子さんはトングを棚に戻した。

「だから、明日。お見送りはいらないわ。焼き立てのパンの匂いで、さよならして」

 その夜、眠れなかった。

 頭ではわかっていた。いつかこの日が来ると。
 でも、こんなに早いなんて。こんなに静かなんて。

 パンの仕込みをする手が、ほんの少しだけ震えた。

 けれど、それでも僕は、翌朝、店に立った。

 前の晩から仕込んでいた生地を、そっとオーブンに入れる。
 いつもの温度、いつもの時間。焼き上がりの音が鳴る頃――窓の外に、小さな影が見えた。

 バス停へ向かう千代子さんだった。

 振り返ることはなかった。

 でも、その後ろ姿が遠ざかっていく間、パン窯から甘い匂いが立ち上っていた。

 まるで「いってらっしゃい」の代わりみたいに。

 焼きあがったパンを、ひとつ手に取った。
 それは、くるみとバターの香ばしいパンだった。

 千代子さんが、最後まで「これが一番好き」と言っていたパンだ。

 それを店先に並べながら、思った。

 ここはもう、“あの人のパン屋”じゃない。
 けれど、“あの人が生きてきた場所”を、僕は引き継いだのだ。

 これからもパンは焼ける。匂いは残る。

 そのすべてに、“ありがとう”が詰まっている。

◆あとがき
今回も最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

第9話は、千代子さんとの“さよなら”を描いた回でした。
この作品のテーマでもある、「別れと再生」「手渡されていくもの」を丁寧に描けた回だと思っています。

声をかけずに去ること、背中だけを見送ること――そこに詰まった優しさと、静かな想い。
パンの匂いが、その代わりになる世界があったなら、それはとても素敵なことではないでしょうか。

次回はいよいよ最終話。主人公が新しい一歩を踏み出す場面を、丁寧に紡ぎます。

◆応援のお願い
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

もしこの物語が、あなたの心に少しでも残ったなら――
どうか、応援というかたちで届けていただけると嬉しいです。

📌いいね
📌お気に入り登録
📌フォロー

皆さまの想いが、この小さな物語を照らしてくれます。

次回、最終話も心を込めてお届けします。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

せんせいとおばさん

悠生ゆう
恋愛
創作百合 樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。 ※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

カオルとカオリ

廣瀬純七
青春
一つの体に男女の双子の魂が混在する高校生の中田薫と中田香織の意外と壮大な話です。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

処理中です...