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第10話 パン屋、はじめました
しおりを挟む最初の朝は、少し不安だった。
パン屋は静かで、窯の熱も、いつもより少しだけぬるいように感じた。
それでも、僕は窯に火を入れた。
千代子さんがいた時と、まったく同じ手順で。声はないけれど、匂いは残っていた。
発酵が終わった生地にそっと触れ、慎重に形を整える。
胡桃と蜂蜜を包んだ生地を、やさしく丸めてトレイに並べていく。
その手つきは、何百回も隣で見てきた。
あの人が残した“所作”は、もうこの手に、ちゃんと染みついていた。
窯の前に立つと、思わずつぶやいてしまう。
「……千代子さん。見てますか」
答えはない。でも、不思議と心は落ち着いていた。
やがて、焼き上がったパンがこんがりとした色合いを見せ始める。
ふわりと、窯から立ち上る湯気と香り。
パン屋の空気が、また生き返ったような気がした。
オープン初日。
のれんを出す手は、少しだけ震えていた。
だけど、扉の前に立った時、不思議と笑みがこぼれた。
まるで、心のどこかから「大丈夫だ」と聞こえた気がした。
扉を開けて最初に来たのは、小学生の兄妹だった。
「……あれ? おばあちゃんは?」
弟がそう尋ねると、僕は笑って答えた。
「おばあちゃんは、ちょっと遠くに行ってる。だから、今日は僕が焼いたパンです」
「うーん……じゃあ、食べてみてから決める!」
少女の方がそう言って、メロンパンをひとつ手に取った。
レジで受け取った時、「変な味だったら、また来る!」と、彼女は笑った。
そして、午後には、町の中学生たちがやってきた。
制服姿の花音もいた。彼女は、前より少し背筋が伸びていた。
「また戻って来たよ。……お母さんも、一緒に」
その言葉に胸が熱くなった。
花音は母親のそばに立ち、「ここのメロンパンは、町でいちばんおいしいんだよ」と言った。
母親は目を細め、紙袋を受け取っていた。
「昔、母が食べていた味を、娘がまた食べている。……パンって、すごいですね」
そんな言葉を聞いて、僕は心の奥で何かが報われた気がした。
日々は、ゆっくりと進んだ。
秋が深まり、冬の足音が聞こえはじめる頃には、常連の客たちが少しずつ戻ってきた。
「前より若返ったじゃないか、パン屋さん」
「なんだか柔らかい匂いになったわね。……あの人の味も、ちゃんと残ってる」
町の人たちは、覚えていてくれた。
誰ひとり、千代子さんの不在を悲しむ顔をしなかった。
それはきっと、彼女の「焼き方」が、ここに残っていたからだ。
時折、お客さんから「このパンは誰が考えたの?」と聞かれることがある。
僕は迷わず答える。
「おばあさんが、僕にくれたレシピです」
「でも、今はあんたのパンになってるね。……そういうもんよ、味って」
そう言われたとき、やっとほんの少しだけ、“自分のパン屋”だと胸を張れた気がした。
ある夜、店を閉めたあと。
裏庭に出て、薪窯の残り火を見つめていた。
空は晴れていて、星がいくつも瞬いていた。
「……千代子さん。僕、少しずつだけど、やれてます」
小さく、そうつぶやく。返事はない。だけど、風が優しかった。
ポケットの中には、千代子さんが残した紙のメモがあった。
それは、パンのレシピでもなく、経営のノウハウでもなかった。
ただ、一言だけが、そこに書かれていた。
「泣きたい時は、甘いものを食べなさいな。心の薬だから」
――きっと、これが、僕に託された一番の言葉だ。
その日、最後に焼いたのは、新しいメニューだった。
“蜂蜜とレモンのほろ苦パン”。
町の子どもたちに人気だったメロンパンに、少しだけ“別れの味”を足した。
レモンの皮をすりおろし、焼きあがる寸前に蜂蜜を塗ると、焼き色が美しく染まった。
窯から出して、そっと割ると、中からほんのりと湯気が立ち上る。
苦みと甘み。そのどちらもが、人生には必要なのだと思う。
――パン屋、はじめました。
扉の前に、手書きでそう書かれた小さな札がかかっている。
それは、誰にも見えないかもしれない。
けれど、町のどこかで誰かが泣きたくなった時、
ふと、ここを思い出してくれたなら、それだけでいい。
明日もまた、パンを焼こう。
さよならの匂いと、はじまりの香りを、毎朝、届けていくために。
◆あとがき(最終話)
最後までお読みいただき、心からありがとうございます。
この第10話『パン屋、はじめました』で、本作はひと区切りを迎えます。
別れを経験した人が、また誰かの居場所になる――。
この物語が描きたかったのは、そんな“静かな継承”でした。
特別な力も、派手な奇跡もありません。
けれど、パンの香りのように、やさしく心に残るものが、人の人生をつないでいくことがあると信じています。
お読みくださったあなたに、心からの感謝を込めて。
◆応援のお願い(完結記念)
『さよならを教えてくれた、あの町のパン屋さん』はこれで完結となります。
もし、この物語に“何か”を感じてくださったなら――
ぜひ最後に、応援の形を残していただけると幸いです。
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そのひとつひとつが、次の物語を紡ぐ力になります。
また別の“やさしい物語”でお会いできますように。
本当に、ありがとうございました。
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