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第15話 朝焼けのメニューと、最初の客
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その朝、空はまだ茜色を帯びていた。
夜の残り香のような冷気が路地に漂っていて、街はゆっくりと眠りから目覚めかけていた。
喫茶クローバーの扉に鍵を差し込みながら、店主である初枝はふと、空を見上げる。
「今日も、雨は降らないようね……でも、こんな朝なら、それでもいいかしら」
古びた扉が軋みを上げて開く。
店の中はまだ、誰の気配もない。けれど、昨日の香りがほんのり残っていて、それだけで人の気配を思い出させた。
朝の日差しが差し込む前の数分間だけ、店の中は“夢の中”のような色になる。
淡い青と、紅が混ざる、静かで柔らかな時間。
初枝はゆっくりと店内を歩き、カーテンを半分だけ開けた。
「さて、今日の朝焼けに合うメニューは……」
カウンターの奥で、コーヒー豆を挽く。
その音が、まるで朝の鐘のように響いた。
店を開けるのはいつも昼前から――けれど今日は、なぜか早く目が覚めてしまった。
雨は降らないけれど、誰かが来るような予感がしていたのだ。
それは、まるで“最初の客”が決まっているかのような確信だった。
コーヒーが淹れ終わり、試しに一口。
苦みと香りが、朝の空気に溶けていく。
そのとき、扉のベルが鳴った。
カラン。
初枝は驚いて顔を上げる。
こんな朝早く、誰が――
「……すみません、まだ開店前ですか?」
現れたのは、若い青年だった。
スーツ姿のまま、肩にはうっすら朝露。どこか遠慮がちで、けれど深く疲れているような表情。
「ええと……今日、初めてこの前を通って……。まだ開いていなかったんですが、灯りが見えて」
初枝は、にこりと微笑んだ。
「ようこそ、喫茶クローバーへ。少し早いですが、準備はできていますよ」
「……ありがとうございます」
青年はほっとしたように息をつき、カウンターに腰を下ろす。
その仕草は、どこか不器用で、でも誠実さが滲んでいた。
「今朝は冷えますね。温かいコーヒーと……トーストをお出ししましょうか。少し、手をかけた朝焼けトーストです」
「朝焼け、ですか?」
「はい。トマトとチーズを重ねて、目玉焼きをのせて。朝の空の色をイメージしてるんです」
「……なんだか、いいですね。お願いします」
コーヒーの香りが立ちのぼる中で、初枝は静かに厨房へと入った。
パンを焼き、トマトをスライスし、卵を落とす。
ほんの少しの手間が、誰かの“朝”を整えていくようだった。
やがて皿に乗ったトーストが、青年の前に置かれる。
「どうぞ。今日が、いい一日になりますように」
「……いただきます」
一口、トーストをかじると、青年は少し目を見開いた。
「……なんだか、泣きそうです」
「それは、あなたが少しがんばりすぎている証拠ですね」
青年は笑った。少し、はにかんだように。
「最近、朝が来るのが怖くて。夜が終わると、また戦わなきゃって思ってしまって。そんな気持ちで歩いていたら、たまたまこの店を見つけて……」
その言葉を聞いて、初枝は静かにうなずいた。
「偶然なんかじゃありませんよ。あなたが、“自分を許せる場所”を、探していたのだと思います」
「……そんな場所、本当にあるんでしょうか」
「ありますよ。ちゃんと、ここに」
青年はトーストを最後の一口まで噛みしめた。
食べ終えた皿を見つめるその目に、少しだけ光が戻っていた。
「朝焼けのトースト、って、こんなに優しい味なんですね」
「ええ。新しい一日が始まる前に、“大丈夫だよ”って伝える味です」
カップの中のコーヒーは、もう残りわずかだった。
外の空は、すっかり朝になっていた。
青年は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。……また来てもいいですか?」
「ええ、どうぞ。雨の日でも、晴れの日でも。
でも、できればまた、朝焼けの時間に」
「はい。次の朝も、ここで迎えられたらいいなって思いました」
ベルの音が、再び鳴る。
初枝は扉の向こうへ去っていく青年の背を見送りながら、そっと独り言のようにつぶやいた。
「今日の“最初の客”は、ずいぶんと優しい人だったわね」
陽は高くなり、街はふつうの朝を迎えはじめていた。
けれどクローバーの店内には、今も静かに朝焼けの余韻が漂っていた。
◾️あとがき
第15話「朝焼けのメニューと、最初の客」では、“朝のはじまり”がもつ希望と不安、そのどちらも受け止める場所としてのクローバーを描きました。
喫茶クローバーは雨の日だけではなく、時にはこんな“偶然の朝”にも扉を開いてくれます。
何気ない一皿が、誰かの一日をやさしく包むこと――それがこのお店の魔法です。
◾️応援のお願い
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この作品を気に入っていただけましたら、「お気に入り登録」や「感想」「レビュー」での応援をお願いいたします。
ひとつひとつの応援が、物語を続ける大きな力になります。
また、次の“朝”にお会いできますように。
夜の残り香のような冷気が路地に漂っていて、街はゆっくりと眠りから目覚めかけていた。
喫茶クローバーの扉に鍵を差し込みながら、店主である初枝はふと、空を見上げる。
「今日も、雨は降らないようね……でも、こんな朝なら、それでもいいかしら」
古びた扉が軋みを上げて開く。
店の中はまだ、誰の気配もない。けれど、昨日の香りがほんのり残っていて、それだけで人の気配を思い出させた。
朝の日差しが差し込む前の数分間だけ、店の中は“夢の中”のような色になる。
淡い青と、紅が混ざる、静かで柔らかな時間。
初枝はゆっくりと店内を歩き、カーテンを半分だけ開けた。
「さて、今日の朝焼けに合うメニューは……」
カウンターの奥で、コーヒー豆を挽く。
その音が、まるで朝の鐘のように響いた。
店を開けるのはいつも昼前から――けれど今日は、なぜか早く目が覚めてしまった。
雨は降らないけれど、誰かが来るような予感がしていたのだ。
それは、まるで“最初の客”が決まっているかのような確信だった。
コーヒーが淹れ終わり、試しに一口。
苦みと香りが、朝の空気に溶けていく。
そのとき、扉のベルが鳴った。
カラン。
初枝は驚いて顔を上げる。
こんな朝早く、誰が――
「……すみません、まだ開店前ですか?」
現れたのは、若い青年だった。
スーツ姿のまま、肩にはうっすら朝露。どこか遠慮がちで、けれど深く疲れているような表情。
「ええと……今日、初めてこの前を通って……。まだ開いていなかったんですが、灯りが見えて」
初枝は、にこりと微笑んだ。
「ようこそ、喫茶クローバーへ。少し早いですが、準備はできていますよ」
「……ありがとうございます」
青年はほっとしたように息をつき、カウンターに腰を下ろす。
その仕草は、どこか不器用で、でも誠実さが滲んでいた。
「今朝は冷えますね。温かいコーヒーと……トーストをお出ししましょうか。少し、手をかけた朝焼けトーストです」
「朝焼け、ですか?」
「はい。トマトとチーズを重ねて、目玉焼きをのせて。朝の空の色をイメージしてるんです」
「……なんだか、いいですね。お願いします」
コーヒーの香りが立ちのぼる中で、初枝は静かに厨房へと入った。
パンを焼き、トマトをスライスし、卵を落とす。
ほんの少しの手間が、誰かの“朝”を整えていくようだった。
やがて皿に乗ったトーストが、青年の前に置かれる。
「どうぞ。今日が、いい一日になりますように」
「……いただきます」
一口、トーストをかじると、青年は少し目を見開いた。
「……なんだか、泣きそうです」
「それは、あなたが少しがんばりすぎている証拠ですね」
青年は笑った。少し、はにかんだように。
「最近、朝が来るのが怖くて。夜が終わると、また戦わなきゃって思ってしまって。そんな気持ちで歩いていたら、たまたまこの店を見つけて……」
その言葉を聞いて、初枝は静かにうなずいた。
「偶然なんかじゃありませんよ。あなたが、“自分を許せる場所”を、探していたのだと思います」
「……そんな場所、本当にあるんでしょうか」
「ありますよ。ちゃんと、ここに」
青年はトーストを最後の一口まで噛みしめた。
食べ終えた皿を見つめるその目に、少しだけ光が戻っていた。
「朝焼けのトースト、って、こんなに優しい味なんですね」
「ええ。新しい一日が始まる前に、“大丈夫だよ”って伝える味です」
カップの中のコーヒーは、もう残りわずかだった。
外の空は、すっかり朝になっていた。
青年は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。……また来てもいいですか?」
「ええ、どうぞ。雨の日でも、晴れの日でも。
でも、できればまた、朝焼けの時間に」
「はい。次の朝も、ここで迎えられたらいいなって思いました」
ベルの音が、再び鳴る。
初枝は扉の向こうへ去っていく青年の背を見送りながら、そっと独り言のようにつぶやいた。
「今日の“最初の客”は、ずいぶんと優しい人だったわね」
陽は高くなり、街はふつうの朝を迎えはじめていた。
けれどクローバーの店内には、今も静かに朝焼けの余韻が漂っていた。
◾️あとがき
第15話「朝焼けのメニューと、最初の客」では、“朝のはじまり”がもつ希望と不安、そのどちらも受け止める場所としてのクローバーを描きました。
喫茶クローバーは雨の日だけではなく、時にはこんな“偶然の朝”にも扉を開いてくれます。
何気ない一皿が、誰かの一日をやさしく包むこと――それがこのお店の魔法です。
◾️応援のお願い
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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ひとつひとつの応援が、物語を続ける大きな力になります。
また、次の“朝”にお会いできますように。
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