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第28話:パンを焼く手、恋を守る手
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翌朝、店はいつものように香ばしい匂いに包まれていた。
航は夜明けとともに厨房に入り、生地をこねはじめた。
その指先には、どこかいつもより慎重な力がこもっていた。
「……今日は、クロエの好きな甘さにしよう」
ぽつりと呟く声は小さく、それでもはっきりと嬉しそうだった。
厨房の奥ではナリアがハーブを刻んでいた。
細かく包丁を動かしながら、その緑の香りに顔を近づける。
「……いい香り」
それは少しだけ、自分の気持ちを落ち着けてくれる魔法のようだった。
航が奥に来て、静かに声をかける。
「今日のスープ、ナリアに任せていい?」
「はい。きっと美味しくします」
それだけのやりとりだったが、ナリアは心の中でそっと胸を撫で下ろした。
――選ばれなくても、こうして隣にいられる。
それが今の彼女にとっては、何より大切なことだった。
表ではリーネが開店準備をしていた。
扉を開け放ち、通りの掃除をする。
この町の冷たい空気はいつも澄んでいて、気持ちが落ち込む朝でも、どこかシャキッとさせてくれる。
そこへ航が顔を出した。
「リーネ、今日はありがとう」
「なにが?」
「昨日……ちゃんと話聞いてくれて。それから、俺を責めなかった」
リーネはほうきを持ったまま、くすっと笑った。
「責める理由なんてないよ。私があなたを好きだったのは、あなたが不器用で優しいからだもの」
「……それでも、痛い思いをさせた」
「平気よ。それに……私まだ諦めたわけじゃないしね」
リーネの笑顔は強がりに見えなかった。
それが航にとって、どこかほっとする理由だった。
昼過ぎ、店は賑わっていた。
クロエは接客をしながら、時折航の方をちらりと見た。
客に笑顔を見せながらも、その視線だけはどこか甘やかで、航は何度も胸をくすぐられた。
会計を終えたクロエが小さく口を開く。
「私、今日の夜また話したいことあるから」
「うん。厨房で待ってる」
それだけで、クロエの耳まで赤く染まった。
その夜、店が閉まったころ。
厨房にはパンを焼いた後の香りがまだ漂っていた。
クロエは店の灯りを消し終えてから、そっと厨房へ入ってきた。
「ごめん、待たせた?」
「いや。ずっとここにいたから」
航はクロエを迎え、二人で小さなテーブルに座った。
「……私さ、いまでも怖いんだよ」
「なにが?」
「また泣いちゃうんじゃないかって。選ばれて嬉しくて、でも不安で、きっとまた泣いちゃう」
「泣いていいよ。何度だって」
「……それ言うとほんとに泣くから」
クロエは目を伏せ、指先をテーブルに置いていた航の手にそっと触れた。
「今日も……名前呼んで?」
「クロエ」
「……もう一回」
「クロエ」
クロエは小さく息をつき、それから航の手をぎゅっと握った。
「ありがとう。選んでくれて」
「選んだからには、守りたい。クロエの笑い顔も、泣き顔も」
「じゃあ……私が泣いても、ちゃんと好きでいてくれる?」
「もちろん」
クロエは少しだけ瞳を潤ませ、それからテーブルの上に身を乗り出して、航の肩に頭を預けた。
「……これから先も、ずっとあんたに泣かされるんだろうな」
「それでもいいなら」
「いいよ。……ずっと一緒にいて」
厨房の窓の外では、月がゆっくりと登っていた。
パンを焼く手は、恋を守る手。
これからも、そうやって繋がっていくのだと航は思った。
航は夜明けとともに厨房に入り、生地をこねはじめた。
その指先には、どこかいつもより慎重な力がこもっていた。
「……今日は、クロエの好きな甘さにしよう」
ぽつりと呟く声は小さく、それでもはっきりと嬉しそうだった。
厨房の奥ではナリアがハーブを刻んでいた。
細かく包丁を動かしながら、その緑の香りに顔を近づける。
「……いい香り」
それは少しだけ、自分の気持ちを落ち着けてくれる魔法のようだった。
航が奥に来て、静かに声をかける。
「今日のスープ、ナリアに任せていい?」
「はい。きっと美味しくします」
それだけのやりとりだったが、ナリアは心の中でそっと胸を撫で下ろした。
――選ばれなくても、こうして隣にいられる。
それが今の彼女にとっては、何より大切なことだった。
表ではリーネが開店準備をしていた。
扉を開け放ち、通りの掃除をする。
この町の冷たい空気はいつも澄んでいて、気持ちが落ち込む朝でも、どこかシャキッとさせてくれる。
そこへ航が顔を出した。
「リーネ、今日はありがとう」
「なにが?」
「昨日……ちゃんと話聞いてくれて。それから、俺を責めなかった」
リーネはほうきを持ったまま、くすっと笑った。
「責める理由なんてないよ。私があなたを好きだったのは、あなたが不器用で優しいからだもの」
「……それでも、痛い思いをさせた」
「平気よ。それに……私まだ諦めたわけじゃないしね」
リーネの笑顔は強がりに見えなかった。
それが航にとって、どこかほっとする理由だった。
昼過ぎ、店は賑わっていた。
クロエは接客をしながら、時折航の方をちらりと見た。
客に笑顔を見せながらも、その視線だけはどこか甘やかで、航は何度も胸をくすぐられた。
会計を終えたクロエが小さく口を開く。
「私、今日の夜また話したいことあるから」
「うん。厨房で待ってる」
それだけで、クロエの耳まで赤く染まった。
その夜、店が閉まったころ。
厨房にはパンを焼いた後の香りがまだ漂っていた。
クロエは店の灯りを消し終えてから、そっと厨房へ入ってきた。
「ごめん、待たせた?」
「いや。ずっとここにいたから」
航はクロエを迎え、二人で小さなテーブルに座った。
「……私さ、いまでも怖いんだよ」
「なにが?」
「また泣いちゃうんじゃないかって。選ばれて嬉しくて、でも不安で、きっとまた泣いちゃう」
「泣いていいよ。何度だって」
「……それ言うとほんとに泣くから」
クロエは目を伏せ、指先をテーブルに置いていた航の手にそっと触れた。
「今日も……名前呼んで?」
「クロエ」
「……もう一回」
「クロエ」
クロエは小さく息をつき、それから航の手をぎゅっと握った。
「ありがとう。選んでくれて」
「選んだからには、守りたい。クロエの笑い顔も、泣き顔も」
「じゃあ……私が泣いても、ちゃんと好きでいてくれる?」
「もちろん」
クロエは少しだけ瞳を潤ませ、それからテーブルの上に身を乗り出して、航の肩に頭を預けた。
「……これから先も、ずっとあんたに泣かされるんだろうな」
「それでもいいなら」
「いいよ。……ずっと一緒にいて」
厨房の窓の外では、月がゆっくりと登っていた。
パンを焼く手は、恋を守る手。
これからも、そうやって繋がっていくのだと航は思った。
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