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第34話:恋が少し、苦くなる日
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曇った朝だった。
いつもは陽の光が差し込む厨房にも、今日はわずかに陰りが漂っている。
航は無言で生地をこねていた。
昨日までの和やかな空気とは違い、どこかぎこちない静寂が漂っていた。
その理由は――ナリアの目を、クロエが避けていることだった。
前日の夜、ほんの些細なことがきっかけだった。
「航さん、明日の朝の仕込み、もう少し早く始めませんか? 焼き時間を少し伸ばしたいので」
「いいな、それ。私も早く来るよ」
ナリアの提案に、クロエがかぶせるようにそう言ったのだ。
けれどその言い方が少しだけ棘を含んでいて、ナリアは一瞬、微かにまばたきを止めた。
それに気づいたのは、航だけだった。
今日の厨房は、そんな余韻を引きずっていた。
クロエは無言のまま厨房の器具を整え、ナリアは必要な言葉しか発さなかった。
リーネはそんな二人の様子を見て、小さく溜息をついた。
「恋ってさ、甘くて香ばしいばっかじゃないよね。ときどき苦くなる。……焼きすぎたパンみたいに」
それは自嘲とも、慰めともつかない言葉だった。
開店すると、客はひっきりなしに訪れた。
厨房の空気が少し重くても、パンは焼かれ続けた。
それでも航の手はいつもより少し硬く、クロエの声はいつもより小さかった。
ナリアは変わらず丁寧に盛りつけを続けながら、ふと小さく呟いた。
「……私がいなくなったら、もっと空気は軽くなるのかな」
誰にも聞こえないほどのその声を、パン生地だけが受け止めた。
昼の賄いの時間、四人はいつものテーブルについた。
けれど会話は途切れがちで、パンをちぎる音だけが響いた。
リーネが水の入ったグラスを手にしながら、言った。
「喧嘩するくらい、ちゃんとぶつかればいいのに。ねえクロエ、ナリア」
二人は一瞬目を合わせたが、すぐに視線を外した。
リーネは続ける。
「黙って我慢してたら、パンだって膨らまないよ」
それでも、誰も何も言わなかった。
その夜、航は閉店後の厨房で、焼きすぎたバゲットを手にしていた。
「……今日のは、少し苦かったな」
クロエが静かに近づいてきた。
「ごめん……私、たぶんナリアに意地悪してた」
「気づいてた」
「そうだよね。……でもさ、怖くなったんだ。ナリアがあんたの隣にずっといたら、私はまた置いていかれるかもしれないって」
航はクロエの肩にそっと手を置いた。
「お前を選んだのは俺だ」
「……わかってる。でも、それでも怖いんだよ」
同じころ、ナリアはひとり裏庭のベンチに座っていた。
手にはまだ温かいパンがひとつ。
「……やっぱり私は、誰かの間にいるのが苦手なんだな」
独り言は夜に溶け、月明かりだけが彼女の表情を照らしていた。
恋は時に苦く、息苦しい。
それでも焼き立ての温度を持ち続けるには、言葉を交わし、手を伸ばし続けるしかない。
翌日、三人の関係に少しだけ変化が訪れることを、航はまだ知らなかった。
いつもは陽の光が差し込む厨房にも、今日はわずかに陰りが漂っている。
航は無言で生地をこねていた。
昨日までの和やかな空気とは違い、どこかぎこちない静寂が漂っていた。
その理由は――ナリアの目を、クロエが避けていることだった。
前日の夜、ほんの些細なことがきっかけだった。
「航さん、明日の朝の仕込み、もう少し早く始めませんか? 焼き時間を少し伸ばしたいので」
「いいな、それ。私も早く来るよ」
ナリアの提案に、クロエがかぶせるようにそう言ったのだ。
けれどその言い方が少しだけ棘を含んでいて、ナリアは一瞬、微かにまばたきを止めた。
それに気づいたのは、航だけだった。
今日の厨房は、そんな余韻を引きずっていた。
クロエは無言のまま厨房の器具を整え、ナリアは必要な言葉しか発さなかった。
リーネはそんな二人の様子を見て、小さく溜息をついた。
「恋ってさ、甘くて香ばしいばっかじゃないよね。ときどき苦くなる。……焼きすぎたパンみたいに」
それは自嘲とも、慰めともつかない言葉だった。
開店すると、客はひっきりなしに訪れた。
厨房の空気が少し重くても、パンは焼かれ続けた。
それでも航の手はいつもより少し硬く、クロエの声はいつもより小さかった。
ナリアは変わらず丁寧に盛りつけを続けながら、ふと小さく呟いた。
「……私がいなくなったら、もっと空気は軽くなるのかな」
誰にも聞こえないほどのその声を、パン生地だけが受け止めた。
昼の賄いの時間、四人はいつものテーブルについた。
けれど会話は途切れがちで、パンをちぎる音だけが響いた。
リーネが水の入ったグラスを手にしながら、言った。
「喧嘩するくらい、ちゃんとぶつかればいいのに。ねえクロエ、ナリア」
二人は一瞬目を合わせたが、すぐに視線を外した。
リーネは続ける。
「黙って我慢してたら、パンだって膨らまないよ」
それでも、誰も何も言わなかった。
その夜、航は閉店後の厨房で、焼きすぎたバゲットを手にしていた。
「……今日のは、少し苦かったな」
クロエが静かに近づいてきた。
「ごめん……私、たぶんナリアに意地悪してた」
「気づいてた」
「そうだよね。……でもさ、怖くなったんだ。ナリアがあんたの隣にずっといたら、私はまた置いていかれるかもしれないって」
航はクロエの肩にそっと手を置いた。
「お前を選んだのは俺だ」
「……わかってる。でも、それでも怖いんだよ」
同じころ、ナリアはひとり裏庭のベンチに座っていた。
手にはまだ温かいパンがひとつ。
「……やっぱり私は、誰かの間にいるのが苦手なんだな」
独り言は夜に溶け、月明かりだけが彼女の表情を照らしていた。
恋は時に苦く、息苦しい。
それでも焼き立ての温度を持ち続けるには、言葉を交わし、手を伸ばし続けるしかない。
翌日、三人の関係に少しだけ変化が訪れることを、航はまだ知らなかった。
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