『初恋令嬢は鈍感すぎて、王太子・騎士団長・学園貴公子の胃を壊す』

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新章・王宮編

第49話:光と影の接吻、夜明けの密誓

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 夜が明ける気配はまだ遠く、東の空はようやく群青を滲ませたばかりだった。

 ゼフィリアはリューデル邸の離れ、普段は使わない小さな書庫にいた。
 昨夜の血の匂いがまだ意識の底に残っている。その不快な幻臭を振り払うように、彼女は書面に視線を落としていた。

(次の提出期限まで、あと三日……)

 監査局の調査が続いているとはいえ、それは決定打にはならない。
 むしろ彼女の提出する提案が王太子の政治基盤を確立する礎になるからこそ、相手は必死で潰しに来る。

(これ以上誰かが血を流す前に、必ず完成させる)

 しかしそこへ、静かに扉が開いた。

「ゼフィリア」

 振り向かずとも分かる声。
 剣の音も足音も潜めた、騎士としての最高の静寂の歩み。それが、逆にこの場に相応しくなかった。

「アレクシス様……こんな朝早くに」

「寝ていないのはお前も同じだろう」

 返す言葉もなく、ゼフィリアは顔を伏せた。

 アレクシスはすぐ近くまで歩み寄ると、机に散らばる書類を一瞥し、ため息をついた。

「監査局の報告書か。……まだ気にしているのか」

「気にしないで済むものなら、どれほど良かったでしょう」

 ゼフィリアは静かに目を閉じる。

「私が王妃候補でなければ、こんなことにはならなかった。
 私がエリオン殿下のお側に立ちたいなどと望まなければ……」

「馬鹿を言うな」

 その言葉とともに、肩を掴まれた。

「お前が望まなければ、今度は別の誰かが標的になるだけだ。
 お前が立つことで救われるものがあり、逆にお前が立たなければ失われる未来もある」

「……そうでしょうか」

「そうだ。だからこそ俺は剣を抜く」

 ぎゅっと肩にかかる指の力が強まる。
 ゼフィリアは思わず顔を上げ、そこにいる男の真摯な瞳と目が合った。

「アレクシス様……」

「俺は、もう自分の心に嘘をつく気はない。
 お前を護るのは王命のためじゃない。お前が俺にとって――それだけの価値があるからだ」

「……」

 何かを言おうとして、ゼフィリアは言葉を失った。

 その隙をつくように、アレクシスは彼女を引き寄せ、抱きしめる。

「怖いなら、そう言え。俺の前では虚勢など張るな」

「怖い……です」

 絞り出す声は震えていた。
 ゼフィリアは自分がこんなに弱い声を持っていたのかと、初めて知った気がした。

「夜に飲まれるのが、怖いのです。
 私が選んだ道が、誰かを不幸にしてしまうのではないかと……」

「夜が怖いなら、夜が明けるまで俺が抱いてやる。
 誰かを不幸にするのが怖いなら、その未来を変えるまで俺が剣を振るう」

 その言葉に、涙が溢れた。

「アレクシス様……私は、どうしたら……」

「選べ。殿下の隣に立つ未来を。それとも――俺の隣に立つ未来を」

「それは……まだ、決められません」

「なら決めるな。今はそれでいい。だがな」

 そう言ってアレクシスは顔を寄せた。

 額が触れ、互いの呼吸が混ざる距離。

「お前がいつか誰を選ぶにしても――俺はその選択に抗う気でいる。
 お前が俺を選ばなくとも、お前を欲しがるのはやめない」

 静かな告白だった。
 なのに、ゼフィリアの胸は雷に撃たれたように鳴り響いた。

 不意にアレクシスの唇が彼女の額に触れた。
 それは口づけというにはあまりに慎重で、けれど酷く熱を持っていた。

「夜明けが来るまで、ずっとそばにいる。
 お前の選んだ未来に、この焔が届くその日まで――」

     ◇ ◇ ◇

 それから数刻が経ち、夜が白み始める頃。

 ゼフィリアは書庫の椅子に身を預け、ようやく安堵の息を吐いていた。

 机の脇には、再度精査し終えた提案書類が積み上がっている。
 血塗れの宴も、襲撃も、監査の陰謀も。
 それらすべてを踏まえた上で、それでもなお前を向くための書類だった。

(これで……ようやく)

 その時、背後から静かな足音。

「お疲れのようですね、ゼフィリア様」

「……ユリス様」

 王太子近衛補佐官、ユリス・エアフォルがそこにいた。

「殿下より命を預かっています。“ゼフィリア・リューデル嬢の提案は、必ずこの手で殿下に届けよ”と」

「……ありがとうございます」

「いえ、感謝など。私はただ命を全うするのみです」

 けれどその声は、いつかゼフィリアが耳にした時よりずっと柔らかかった。

「リューデル嬢。貴女の道は、私にはあまりに苛酷に思える。
 それでも貴女は歩むのでしょう?」

「はい」

 即答だった。

 ユリスはそれを見て、短く小さく笑った。

「では、その道の先で、殿下をどうか導いてください。
 ……あの方が貴女にだけ見せる顔を、私は少し妬ましく思うのです」

「ユリス様……?」

「お気になさらず。私ごときが抱く感情など、貴女には何の責任もない」

 そう言って、深々と一礼をして去っていった。

     ◇ ◇ ◇

 夜が完全に明ける直前、ゼフィリアは自室の窓辺に立っていた。

 冷たい空気が、けれどどこか優しく感じる。

(私が選ぶ未来は――誰かの望む形ではないかもしれない。それでも)

 彼女の背には焔の盾が在る。

 彼女の言葉を届ける騎士たちが在る。

 彼女の選択を信じてくれる王太子が在る。

 そして――そのどれとも違う、強く激しい感情を隠さずぶつけてくる騎士が、傍に居た。

(だから私は進める。何度だって、ここから)

 窓辺に手を置き、そっと目を閉じた。

 夜が明けた。
 それは恐怖が終わる合図ではなく、新しい試練が始まる合図。

 けれどゼフィリアの心にはもう、確かな熱があった。
 どんなに光と影が交差しようとも、その中心に立つための焔が。

 いつか必ず、この手で掴み取る。
 それは王妃の冠か、あるいは――もっと別の、かけがえのない何かか。

 それはまだ分からない。
 だからこそ、選ぶ権利だけは、決して誰にも奪わせはしない。
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