『初恋令嬢は鈍感すぎて、王太子・騎士団長・学園貴公子の胃を壊す』

コテット

文字の大きさ
48 / 96
新章・王宮編

第48話:影の狭間、血塗れの微笑

しおりを挟む
 夜が深く落ちる頃。リューデル邸の窓辺には、蝋燭の淡い炎だけが灯っていた。

 ゼフィリアは机に向かい、監査官が持ち帰った署名文書と同型の書類を何度も照合していた。
 いかなる不自然も見つからない。だが、相手が仕掛けるのは“不自然さ”ではなく“疑念”だ。
 その真綿のような罠は、証拠の有無ではなく周囲の空気を先に支配してしまう。

「……それが彼らの狙い」

 口にすると、不思議なほど冷静に思えた。
 追い詰められる恐怖はあった。だがそれ以上に、怒りに近い感情が胸を満たしていた。

(この程度の策で、私を止められると――そう思われていることが、悔しい)

 ふと、戸口に気配を感じた。

「ゼフィリア」

 アレクシスがいつもの黒の軍装姿で立っていた。
 剣帯に手をかけたまま、しかしその眼差しは剣よりもずっと温かかった。

「こんな夜更けまで……」

「疑念に飲まれるくらいなら、真実を自分の目で見極めたいのです」

「……そうか。だが、もう休め。少しでも気を抜けば、明日お前の足元をすくおうとする奴は多い」

「分かっています。けれど、私は――」

 言葉を探す前に、アレクシスが不意に歩み寄った。

 その腕がゼフィリアの肩を抱き寄せる。
 温度は熱く、鼓動は静かに重なった。

「なら、今はせめて俺に抱かれろ。思考でも理屈でもなく、俺がここにいることだけを感じろ」

「……」

 ゼフィリアは抵抗しなかった。
 いや、できなかったのかもしれない。
 力を抜けば、この焔のような温もりにすべてを預けられる気がした。

「お前が疑念に負けるなど、俺は信じていない。だが――
 お前がその刃で自分を傷つけることだけは、決して許さない」

 その声は低く、熱を孕んでいた。

     ◇ ◇ ◇

 翌日。

 監査局からの第一報が届いた。

「不正署名の件は、“確証には至らず調査継続”とされました」

 王宮から派遣された報告使は淡々と伝えたが、その言葉に隠れた真意は一つ。

 ――疑いは晴れたわけではない。

(やはり……彼らは私をこのまま“灰色”に留めるつもり)

 完全な白にもしない。かといって黒とも決めつけない。
 それが一番厄介だった。疑念はそのまま周囲の選択を鈍らせる。

 ゼフィリアはわずかに唇を引き結んだ。

     ◇ ◇ ◇

 その夜、白百合の宴での流言の主がデュバル家の第三子――クラウスであったことが判明した。

 使用人の密告により、屋敷の書庫に紛れ込んでいた偽の署名文を差し入れたのが彼の配下だったのだ。

「……私が何をしたというのです」

 控えの間で向かい合うゼフィリアに、クラウスは苦々しげに言った。

「貴女が何をしたかではない。何を“しそうか”だ。
 リューデル家のような弱小家門が、王妃の座を望むなど――」

「それを決めるのは貴方ではありません」

「だが、我々は代々この国の基盤を支えてきた。
 血統と信用こそが国家の礎だ。それを壊されては困るのだ!」

 声を荒らげるクラウスに、ゼフィリアは一歩だけ前へ出た。

「クラウス様。貴方が守ろうとするのは、国家ですか?それとも自分の既得権ですか?」

「……!」

「貴方が恐れているのは、私ではありません。“変わるかもしれない未来”です。
 それなら、私は――なおさらその未来を掴みに行きます」

 瞳を伏せることなく言い切ったその瞬間、クラウスの顔が引きつった。

「……いつかその誇りが、血に塗れる日が来るぞ」

 吐き捨てるように言い、彼は立ち去った。

     ◇ ◇ ◇

 夜。

 ゼフィリアはアレクシスに促されるまま、屋敷裏の厩舎近くまで散歩に出た。

 月がやけに赤く、夜気が薄く焦げるような匂いを含んでいた。

「焔のようですね」

「……ああ。お前にはまだ見せたくなかった光だ」

「どういう意味です?」

 問うと、アレクシスは無言で腰の剣に手を置いた。

 その刹那、闇の中からいくつもの影が飛び出した。

「ゼフィリア、下がれ!」

 冷たく鋭い声。次の瞬間、剣が闇を裂いた。

 閃いた刃がひとりの襲撃者の首筋を斬り裂く。血の飛沫が地面を汚し、死に絶えた男が呻くように倒れ込んだ。

「……っ!」

「目を閉じるな!こいつらはお前を攫うつもりなどない――殺す気で来ている!」

 ゼフィリアは息を詰め、それでも目を逸らさなかった。
 アレクシスの背が、闇の中で焔のように揺れ、迫る影を次々に薙ぎ倒していく。

「この場で決着をつける。どこまでも舐められては困るからな」

 その声音には、普段の落ち着いた皮肉すらない。

 本気の殺気。
 焔のような騎士が、ゼフィリアを護るためだけに剣を振るう、その光景は血と鉄の匂いを纏って凄絶だった。

     ◇ ◇ ◇

 短い乱戦が終わると、地面には数名の刺客が倒れていた。

 死んだ者、生きているが戦意を失った者。
 そのどちらにも、ゼフィリアは冷たい視線を向けた。

「なぜ……なぜそこまでして私を」

 生き残りの一人が苦しげに笑った。

「この国には……お前のような“穢れ”は要らねぇのさ……」

 次の瞬間、アレクシスが剣を振り下ろす音が響いた。

 血飛沫だけが白百合のように散った。

     ◇ ◇ ◇

 屋敷に戻る途中、ゼフィリアは黙っていた。

 言葉が出ない。血の匂いが鼻腔から離れない。

 そんな彼女の肩に、アレクシスはそっと手を置いた。

「恐れるな。お前が自分で血を流したわけじゃない」

「……でも、そのために誰かが」

「違う。俺は俺の意志で剣を振った。お前のせいじゃない」

「……」

「ゼフィリア」

 その声に、ようやくゼフィリアは顔を上げた。

「これが“王妃になる道”だ。
 光だけで進めると思うな。影は必ず付きまとう。だが、俺はその影すら斬り払う。
 お前が選ぶ未来のために――この血も、剣も捧げる」

 夜の風が吹き抜ける。

 その中で、ゼフィリアは小さく頷いた。

 どんなに血で穢れようとも、この誓いだけは紅く燃えていた。
 そしてそれは、彼女にとって何より確かな“未来への微笑”だった。







しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

黒騎士団の娼婦

イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。 異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。 頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。 煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。 誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。 「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」 ※本作はAIとの共同制作作品です。 ※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。

【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない

朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。

枯れ専モブ令嬢のはずが…どうしてこうなった!

宵森みなと
恋愛
気づけば異世界。しかもモブ美少女な伯爵令嬢に転生していたわたくし。 静かに余生——いえ、学園生活を送る予定でしたのに、魔法暴発事件で隠していた全属性持ちがバレてしまい、なぜか王子に目をつけられ、魔法師団から訓練指導、さらには騎士団長にも出会ってしまうという急展開。 ……団長様方、どうしてそんなに推せるお顔をしていらっしゃるのですか? 枯れ専なわたくしの理性がもちません——と思いつつ、学園生活を謳歌しつつ魔法の訓練や騎士団での治療の手助けと 忙しい日々。残念ながらお子様には興味がありませんとヒロイン(自称)の取り巻きへの塩対応に、怒らせると意外に強烈パンチの言葉を話すモブ令嬢(自称) これは、恋と使命のはざまで悩む“ちんまり美少女令嬢”が、騎士団と王都を巻き込みながら心を育てていく、 ――枯れ専ヒロインのほんわか異世界成長ラブファンタジーです。

白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話

鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。 彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。 干渉しない。触れない。期待しない。 それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに―― 静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。 越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。 壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。 これは、激情ではなく、 確かな意思で育つ夫婦の物語。

おばさんは、ひっそり暮らしたい

波間柏
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。 たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。 さて、生きるには働かなければならない。 「仕方がない、ご飯屋にするか」 栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。 「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」 意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。 騎士サイド追加しました。2023/05/23 番外編を不定期ですが始めました。

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

処理中です...