『初恋令嬢は鈍感すぎて、王太子・騎士団長・学園貴公子の胃を壊す』

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新章・王宮編

第65話:優しさの棘、その手を取る勇気

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 春祭りの日が王都に近づいていた。

 街は連日賑わい、通りには露店の準備が並び始めている。
 民たちは誰もが小さな花を胸に挿し、街角で踊る楽士の音に合わせて楽しそうに歩いていた。

 リューデル邸の窓から見える光景は、ゼフィリアの胸に少しずつ現実感を与えていた。

(あれだけ遠いと思っていた未来が、いつの間にかこうして目の前にある)

 選んだ道を歩いている実感があった。

 それは確かに誇らしく、けれどどこか小さく怖くもあった。

     ◇ ◇ ◇

 王宮の執務室。

 ゼフィリアはエリオンの隣で、新しい議案の進行状況を確認していた。

 監査局からの資料をテーブルに並べ、細かい数字を追いながら報告をまとめる。

「……これで次の地方都市への再建融資は、予定通りの期日までに割り振りが終わります」

「君がいてくれるから、この改革は進んでいる。
 本当に感謝しているよ、ゼフィリア」

「……殿下」

 エリオンは微かに目を細め、ゼフィリアを真っ直ぐに見つめた。

「私はずっと思っていた。
 王族という立場に生まれなければ、君と肩を並べてこの未来を選ぶことなどできなかったかもしれないと」

「殿下は……立派なお方です。血統など関係なく、この国を誰より考えておられる」

「そう言ってくれるのは君だけだよ」

 その声音はどこか寂しげで、けれど微かに嬉しそうだった。

     ◇ ◇ ◇

 執務が終わった夜。

 王宮からの帰り道、ゼフィリアは馬車の中で小さく胸を押さえていた。

(私は殿下を選んだ。国を選んだ。
 それは間違いじゃない)

 けれどその選択を正しいと思えば思うほど、胸の奥にある棘が疼いた。

(アレクシス様……)

 あの夜、全てを伝えてから少し時間が経った。

 けれど彼は変わらなかった。
 相変わらず冷静で、誰よりも厳しく、そして誰よりも自分を気遣ってくれる。

 その優しさが痛かった。

(あの人の優しさは、鋭い棘みたい。
 私の心にずっと刺さったまま抜けない)

 それでも――抜けなくていいと思った。

 抜けてしまったら、自分が何のために痛んでいるのか分からなくなる。

(この痛みを抱えたまま、私は殿下の隣に立つ)

 その矛盾をどうしても捨てられなかった。

     ◇ ◇ ◇

 数日後。

 リューデル邸の庭園で、ゼフィリアは散りかけのクロッカスを摘んでいた。

「そんな花、もう枯れるだけだ」

 声に振り返ると、そこにはアレクシスがいた。

「……アレクシス様」

「どうしてもそれを持っていたいのか」

「はい。枯れてしまっても、私には大切な花ですから」

 その答えに、アレクシスはわずかに目を細めた。

「お前らしいな」

 そう言って、そっと手を伸ばしゼフィリアの髪に触れる。

「最近、泣かなくなったな」

「泣くほど弱くはなくなりました」

「それは違う」

 不意に真剣な声で言われ、ゼフィリアは目を見張る。

「お前はずっと弱い。
 だから泣かないんじゃない。泣きたいのに泣けないんだ」

「アレクシス様……」

「それでも殿下の隣を選ぶと決めたんだろう?」

「はい」

「……なら、それでいい」

 けれど、わずかに震える声音に、ゼフィリアの胸が痛んだ。

(どうしてこの人は、いつも私より苦しそうにするの)

 思わずそっとその手を取る。

 冷たい指先を、ぎゅっと握った。

「私は……いつかまた泣いてしまうかもしれません」

「泣け。泣きたくなったら、また俺の前で泣け」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。

「その時は必ず、俺が全部受け止める」

 堪えていた涙が、滲んでしまった。

     ◇ ◇ ◇

 夜。

 寝台の上で、ゼフィリアはそっと胸に手を置く。

(私はまだ――この手を取る勇気が欲しい)

 未来を選ぶ勇気ならもう持っている。
 国のために、殿下のために、自分のために歩く覚悟ならできている。

 けれど。

(あなたを愛していると、もう一度ちゃんと伝える勇気が欲しい)

 それがいつになるのかは分からない。

 でもこの胸の棘は確かにまだここにある。

(この棘ごと、私はきっと生きていく)

 そっと瞳を閉じ、小さく微笑んだ。

 涙が一筋、こぼれ落ちて夜に消えた。
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