『初恋令嬢は鈍感すぎて、王太子・騎士団長・学園貴公子の胃を壊す』

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新章・王宮編

第73話:その涙を誇りに変えて、愛しさを隠さずに

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 国境都市に滞在して三日目。

 視察のために訪れたこの街は、王都よりも素朴で粗削りな印象を受ける。
 それでも市場には人が集い、小さな笑顔があちこちに咲いていた。

(殿下と共に歩んできた改革が、こうして人々の暮らしに届いている)

 それは何よりの誇りだった。

 それなのに――

(どうして胸の奥はこんなに痛むのだろう)

 ゼフィリアは胸に手を置き、そっと目を閉じる。

(私はまだ、あの人を愛したままだから)

 その痛みは、選んだ未来を裏切るものではなかった。
 むしろ選んだからこそ痛むのだと、ようやく思えるようになっていた。

     ◇ ◇ ◇

 「ゼフィリア」

 控え室で書類に目を通していたゼフィリアを、静かに呼ぶ声があった。

 顔を上げると、そこにはエリオンが立っていた。

「殿下……」

「忙しいか?」

「いえ、もう少しで終わります」

「なら、少し散歩に付き合ってくれるか」

 驚いて目を見張った。

 この巡幸の間、エリオンは誰よりも多くの人に会い、誰よりも多くの報告を受け続けていた。
 だからこうして自分から時間を作るなど、滅多にないことだった。

「喜んで」

     ◇ ◇ ◇

 二人は街の外れにある小さな丘に立った。

 そこからは国境都市全体が見下ろせ、遠くにうっすらと山脈が連なっているのが分かった。

「ここまで来ると、王都とはまるで別の国のようだな」

 エリオンが小さく呟く。

「でも、殿下が進めてこられた政策は、確かにここまで届いています。
 私、今日の市場で感じました。人々が少しずつ笑えるようになっているって」

「……君がそう言ってくれると、少し救われる」

 エリオンはそっとゼフィリアの手を取った。

「ゼフィリア。君が隣にいてくれて、本当に良かった。
 私だけでは、この国の未来をここまで描けなかった」

「そんなこと……殿下がいたから、私はこうして前を向けたのです」

 そう言って笑ったが、視界がぼやけた。

 涙が溢れる寸前だった。

(どうしてだろう。殿下にこんなにも感謝して、誇らしいはずなのに)

 胸が痛む。

 その痛みの理由を、もう自分で分かっていた。

(私はこの人を選んで進むと決めた。
 でも、アレクシス様を愛したままだから……それが痛い)

     ◇ ◇ ◇

 「泣くのか?」

 不意にエリオンが低く言った。

「殿下……」

「泣いていい。泣きたいときは泣け。
 君がその涙を隠さずにいてくれるなら、私は君をもっと誇りに思える」

 その言葉に堪えきれず、ぽろりと涙が零れた。

「殿下……私……私……」

「分かっている」

 エリオンはそっとゼフィリアを抱き寄せた。

「君が抱えているものを全部知っているわけではない。
 でも、それを隠さずにいてくれるなら、それが私にとって一番の救いだ」

 涙が止まらなかった。

(この人はなんて優しいのだろう。
 私が誰かを愛しながらこの未来を選んだことさえ、こうして抱きしめてくれる)

     ◇ ◇ ◇

 夜。

 邸の回廊を歩いていると、見慣れた黒い影があった。

「……アレクシス様」

「泣いた顔をしている」

「……見ないでください」

「嫌だ」

 そう言って、不意に手首を掴まれた。

 次の瞬間には壁際に引き寄せられ、その胸に抱き込まれていた。

「殿下に泣かされたか」

「違います……殿下は、優しすぎるんです」

「そうか」

 硬い胸当てに額を押しつけながら、ゼフィリアは小さく続けた。

「私、殿下に全部分かっていると言われました。
 泣いていいと言われて、それが嬉しくて……でも、同じくらい苦しかった」

「お前は弱いからな」

「はい……弱いです。
 だから、アレクシス様がいてくれないと駄目なんです」

「分かってる」

 低く短く答え、強く抱き締められた。

 それだけで、また涙が零れた。

     ◇ ◇ ◇

(この涙を私はもう誤魔化さない)

 痛みを隠さない。

 愛しさを隠さない。

 その上で、誇りを選んで進む。

(それが私の生き方。殿下と国の未来を選びながら、あなたを愛し続ける)

 その矛盾も痛みも全部、自分の真実だった。

 だから胸に刻んだ。

(私はこれからも泣いて、また立ち上がる。
 その涙を誇りに変えて、誰かを愛しながら生きていく――それが私)
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