『初恋令嬢は鈍感すぎて、王太子・騎士団長・学園貴公子の胃を壊す』

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新章・王宮編

第93話:そして、選ばれた誓いは胸の奥で灯り続ける

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 王都の朝は静かに始まる。

 早朝の陽射しは、まだ眠たげな石畳を淡く照らし、整然と並ぶ衛兵たちの金属製の装備に小さな反射を宿していた。
 衛兵たちは今日も変わらぬ交替式を終え、淡々と任地へ向かっていく。

 その様子を、王宮の南塔からゼフィリアは静かに見つめていた。

 薄手のショールを羽織り、手には熱い紅茶の入ったカップ。

 それでも頬を撫でる春の朝風はまだ冷たく、ふとした瞬間に胸の奥に残る痛みがよみがえってくる。

(あの日、あの瞬間、私は選んだ――)

 王太子エリオンの隣に立つこと。
 アレクシスを愛したまま、その愛を胸に閉じ込めて、未来へ進むこと。

 その選択を、今でも何度も心の中で繰り返す。

(私が選んだのは、彼を傷つけてでも殿下の隣を選ぶということだった)

 後悔していない。だが、決して忘れない。

 あの時アレクシスが自分に言った最後の言葉も、
 彼の目の奥に宿った強さも、寂しさも、優しさも――全部。

 そして、何よりも。
 自分自身が、彼をどれほど深く、そして真摯に愛していたかを。

(この痛みを、私は決して手放さない)

 それは、彼への誠実さであり、もう一人の彼――エリオンへの忠誠の証でもある。

「ゼフィリア?」

 その声に、彼女はゆっくり振り向いた。

 白の軍装に身を包んだエリオンが、書類を数枚持ったまま立っていた。
 朝陽に照らされたその姿は、確かに未来を背負う者の光を纏っていた。

「おはようございます、殿下」

「こんな朝早くに、外で一人とは。寒くはなかったか?」

「……少しだけ」

「少しでも冷えていたなら、それは良くないな」

 そう言って彼は自分の外套を外し、ゼフィリアの肩に優しく掛けた。

「あなたに風邪など引かれては、宮廷が回らなくなってしまう」

「それは言いすぎです」

「言いすぎではない。君がいなければ、私はただの独りよがりな王子でしかないからね」

 彼の目が真っ直ぐにゼフィリアを見ていた。

「……私は、殿下の未来を選びました。
 痛みを抱えたままであっても、それが正しいと思ったから」

「私はそれを、何度でも受け入れる。君がその痛みを抱えてもなお、私と共に歩むことを望んでくれるなら――」

「望んでいます。これまでも、これからも、ずっと」

 静かに言い切る彼女の瞳に、一切の揺らぎはなかった。

 それを見て、エリオンもまた穏やかに微笑んだ。

「ならば、私たちはもう迷わない」

     ◇ ◇ ◇

 午前の執務室では、いつものように膨大な書類が机の上に並んでいた。

 しかし今日はゼフィリアも、エリオンも、不思議なほどに疲れた素振りを見せなかった。

 二人の間に流れるのは、互いを信じた上での確かな空気。

 誰かのために生きる覚悟をした者同士が、静かに歩調を合わせて歩くときの、それだ。

 ゼフィリアは淡々と書類に目を通し、必要な指示を淡々と口にする。

 時折、エリオンと小さな意見の交換を交わす。

 それだけのやりとりで、いま王宮の心臓が脈動しているのがわかった。

(この国が、ちゃんと前に進んでいる)

 それは確信だった。

 血のように痛む過去も、幾度も流した涙も、そのすべてが今のこの力に変わっている。

(私は弱い。泣き虫で、ずっと不器用なまま)

 でも、その弱さがあったからこそ、アレクシスと真剣に向き合い、エリオンの未来を選ぶことができた。

(弱さが、私を強くしてくれた)

     ◇ ◇ ◇

 夜。

 リューデル邸の庭園には夜風が吹いていた。

 季節の変わり目は、風の匂いにも少しずつ夏の気配が混じり始めていた。

 ゼフィリアは、静かに白い花々の間を歩いていた。

 そこは、彼女が何度も泣き崩れた場所だった。

 殿下を選んだことに、アレクシス様を愛したままの自分に、許せず苦しんだあの夜たち。

 それでも、歩き続けた場所。

 歩いて、泣いて、選んだ――すべてを肯定した場所。

「……もう、泣きませんよ」

 そう小さく呟くと、背後から音もなく近づく足音があった。

「そうか。だが、泣き虫は泣き虫のままだ」

 その声に、ゼフィリアは振り向かずとも誰かを理解した。

「……アレクシス様」

「今日もまた、ここで一人かと思ってな」

「ええ。どうしても、この場所に立ちたくなってしまうのです」

 アレクシスは並ぶように立ち、庭の花を見下ろした。

「殿下の未来を、しっかりと歩いているな」

「……はい。少しずつですが、確かに歩けていると実感しています」

「そうか。それなら、もう心配いらないな」

「……アレクシス様」

「お前は、もう大丈夫だ。
 たとえこれからも痛みが残っても、ちゃんと自分でそれを抱えて歩ける」

 ゼフィリアは振り向き、彼を見つめる。

 月明かりの下、彼の瞳には優しさと誇りと――そして、少しの哀しみがあった。

「私は……ずっとアレクシス様を、愛しています」

「ああ、知っている。お前のその痛みの中に、ちゃんと俺がいる。
 それで、十分だ」

 彼女は唇を噛んだ。

 その痛みすらも、今では自分にとって大切な一部だと分かっていた。

「ありがとう。……本当に、ありがとうございました」

 アレクシスは微笑んだ。心から、穏やかな笑みだった。

 それが別れを意味するものだとしても、ゼフィリアはもう目を逸らさなかった。

(この人を、私は一生、心の奥で愛し続ける)

 そして、エリオンの未来をその手で選び続ける。

(それが私の誓い)

 その誓いは、どんな嵐の夜にも、胸の奥で灯り続ける小さな光だった。
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