学問のはじめ

片山洋一

文字の大きさ
5 / 9

第五話「却下照顧(きゃっかしょうこ)」

しおりを挟む

 
  却下照顧(きゃっかしょうこ)
   
   一

「何やったんや」
 格之助が語気を荒げるのも無理はない。
 ――無宿者になる、助けてくれ。
 一体どうして思々斎塾を追われる羽目になったのか。三平の口はあくまで重かったが、ただ黙っているわけにもいかずその経緯を語り始めた。

 中さだの配慮で三平は寄宿することを許された。
 ――歌道を学ぶため。
 相変わらず三平は言うが、ここは蘭学、とりわけ医を学ぶ場所である。
 歌道に興味はあっても本気でこの道に進む気持ちはどこか希薄であった。そもそも歌道で生きるのなら名を売らなければならない。だが足守を飛び出しただけの浅学な一青年に金を出す物好きがいるはずがなかった。歌道よりも実用的な蘭学の方が確実に飯を食っていける。こんな不純な動機で三平は学び始めたのである。
 かつて三平は藤田顕蔵に義眼や義足作りを教わった。だがそれだけで生きていけるほど大坂は甘くはない。そこで道頓堀の芝居小屋で人の呼び込みや、人の身体を揉んで必死になって食費を稼いでいったのである。
 塾では部屋と言うより、台所の隅を間借りしている。三平や塾生は食器や鍋にもなる鉄製のたらいを片手に坂本町付近を歩き回った。
 ――面倒見たって。
 さだが頼み込んだ大庭雪斎は親切な青年で、困惑しながらも三平に色々と教えてやった。 
 雪斎の出身は肥前佐賀である。佐賀は幕命により長崎を防衛している。そのためどうしても蘭学を修めなければならない。 学を怠れば禄を召し上げるといった苛烈な学制を布いた鍋島斉正(後の直正。号は閑叟)がまだ藩公でなかったが、それでも雪斎が秀才であることに違いはなかった。
「緒方君。もっと学ばんとあかんし、食うためには働かな」
 勤勉な雪斎は眉をしかめるほど、この頃の三平は実に不真面目であった。
 ――緒方君はどうしようもないです。
 幾度か雪斎が訴えたことがあったが、天游は決して罰しようとしない。
「大庭君には大庭君の学問がある。そんなに緒方君、緒方君と言わんでもエエよ」
 そう言って天游は笑うのだが、三平を任された以上そういうわけにはいかないと雪斎は詰め寄った。
「そんなに緒方君が気になるんやったら、仕方ない。これを貸してやろう」
 そう言って取り出したのは何と塾の秘蔵書『波留間和解(ハルマわげ)』、通称『江戸ハルマ』とも言う全二十冊の蘭和辞典であった。「波留間」とはフランス人フランソワ・ハルマのことで蘭仏辞典を編纂した人物である。それを和訳したのが『波留間和解』であった。
 当初、蘭和辞典は存在せず、『解体新書』も翻訳にあたって相当な苦労をした。そこで辞典の必要性を稲村三伯という人物が感じ、苦心の末完成させたのである。
「蘭学のいろはは蘭語を知ることや。ある御仁はあっという間に四万語を覚えられたちゅうぞ」
 四万語。この数字を聞いてすぐに三平は橋本宗吉の顔を思い浮かべた。
「そうやったなァ。緒方は曇斎(宗吉)先生のことを知っておったんやな」
 天游は大の師匠好きで、今まで教えを受けた人々のことになると目を輝かして語り始める。宗吉との交流は長くはないが、天賦の才と云うべき語学力に天游ほど惚れ込んでいた。
「ともかくや、四ィの五の言わんとさっさと憶えてしまえ」
 天游はカラカラと笑いながらその場を去ってしまった。天游は三平の師であったが、彼が施した指導は後にも先にも江戸ハルマを渡したことだけであった。
 ひ弱で不真面目な男。当初誰もが三平をそう評価していた。だが蘭語を覚えていく作業の中で今まで気付かなかった才覚が芽生えていったのである。初めにその才覚に気付いたのは雪斎であった。
「緒方、何やっとる」
 雪斎はすっかり三平を侮っている。どうせ訳がわからないのだろうと三平の帳面(ノート)を覗き込んで仰天した。びっしりと蘭語と和文が書き込まれており、何よりもその表現力が卓越していたからだ。江戸ハルマは初めて蘭語を和訳した辞書であり、その恩恵を多くの蘭学者が受けてきた。だが初めての翻訳は直線的でありすぎ、意味がわからない語もある。ところが三平は本質を的確に把握し、江戸ハルマよりもわかりやすく訳しているのであった。
 雪斎は内心舌を巻いたが、実はこの異能には「タネ」がある。それは歌道にあったのだ。
 まだ足守にいた頃。姉の許に遊びに行くたびに国学者・藤井高尚に歌道を教わる幸運を三平は得てきた。高尚の特徴は豊富な語彙力にある。その指導を受けていくうちに三平は文学的才覚を身に付けていたのであった。
「君は妙な才を持っている」
 三平は意にも介せず、江戸ハルマに見入った。意にも介せず、と見えたが、その実は嬉しくはある。何も才覚がないと思っていた自分に才があると言われたことに喜悦を感じざるをえない。
「四万語とはいきませんが、せめてこの江戸ハルマは皆覚えてしまいたい」
「中々の意気込みや。わしも負けんよ」
 三平も変化しつつあったが、それは雪斎も同様であった。雪斎は秀才肌で青年に必要な野趣さに欠けていた。だが三平の世話をし、そして接するうちに競争相手だと思うようになったのである。
 ――なぜ今まで蘭学を知らなかったのだろう。
 そんな悔いを抱くほど三平にとって蘭学は水に合っていた。言葉を覚えれば、それに伴って蘭書を読めるようになれる。読解力がつき始めると天游の講義がわかるようになり、これほど五臓六腑に染み入るような教え方をしていたのか、と改めて驚く三平であった。後に天游のことについて三平は次のように評した。
「中先生は西洋医学を専らとして人の身体のことをよく調べていて病気のことに詳しく、人をはっとさせるような意見を言われる立派な学者であった。そのため今までの方針をすっかり改めて先生につくことにした」
 
 それにしても、知れば知るほど天游先生は面白い。初めて会った時は何と乱暴で身勝手な人だと思ったものだった。酔っ払っては無責任に人を誘い、醒めれば簡単に突き放してしまう。野放図なのかと思えば物の本質を誰よりも正しく見抜く力があり、幾度も三平は感心させられた。
 ――学者はえてしてややこしく考えてしまう。
 天游はそう言って物事をできる限り単純明快に考えるよう教え続けた。
 そもそもなぜ学者は難しく考えたがるのか。それは理を知らないくせに学者としての体面を重んじてしまうからだ。真に理解していたのなら子供にでもわかるように説明が出来るはずで、難解な言葉など不要なのだ。
 天游は医者であるので病を治す。治療はまず病の原因を知らなければならない。そしてどのような障害が起きているか知るためには人体の理を学ぶ必要がある。理を知ることこそ治癒の根本――それが天游の考えであった。
 だが病理を究明することだけが医学だと天游は考えていない。病理研究と共に大事なのは患者と接する臨床術なのだ。この点において自分は落第だと認識している。 天游は大坂において名医だと謳われていた。庶民の評価表というべき医者番付で、最高位である大関など常に上位を保っていることでもその実力を窺い知ることができる。だがこの評価は天游一人に与えられたものではなく、妻のさだに拠るところが大きいことをよく知っていた。母性愛と言うべきか、彼女ほど親身になって患者に寄り添うことができる医者は少ない。器量の佳さから「小町先生」と慕われ、中には悪くもないのに診療所にやって来ては彼女に診察を望む者も多かった。
 さらに女性にとって男の医者に診てもらうことはどうしても抵抗があり、また機微を理解してもらえない。そのため女性たちもさだの診療を求めて坂本町へと足を運んだ。
「わしがおったら、さだの邪魔や」
 天游はそんなことを口実にしては診療所を空けることが多い。本来ならば夫の怠惰をさだは怒らなければならないが、いつも苦笑で済ませてきたのには理由がある。それは天游が遊ぶために外出しているのではないことを知っていたからだ。
 彼ほど好奇心が強い者もいない。天游が行く先は大坂で最先端の学問を教える場所や人であったのだ。絲漢堂もその一つであり、大坂一の学問所である懐徳堂で様々な書籍を読みに通ったこともある。一見、天游は無愛想に見えるのかもしれないが、実は誰よりも人懐こい性格であったようだ。見た目との格差がかえって人々を魅了し、三平もまた天游の元で学ぶ楽しさを味わっていた。

「先生は人が良すぎる」
 雪斎たち塾生たちが真剣な表情で囁いたのは文政十二年(一八二九)睦月の頃であった。
 ――蘭学者など紅毛人の手先。
 そうした声が流行り病のように吹き上がってくる。三平が思々斎塾で励み、格之助が大塩姓を名乗る少し前の八月。歴史に名を残す大事件が起きている。
 長崎で鳴滝塾を開いているドイツの医者・シーボルトが摘発された「シーボルト事件」が発生したのだ。
「お目にかかったことがある」
 嬉々として語る天游を見て三平は奇人好きの先生らしいと感じたものだが、シーボルトは大坂に赴いたことがあった。文政九年(一八二六)のことで、三平が大坂へ上る前年のことである。
 当時、世界でも最も医療が優れていたのはドイツであった。そのドイツ出身である彼は先進的な治療を施し、そして教えることによって人々の崇敬を受け、多くの医者や学者と親交を結んだ。大坂の豪商・住友家も熱烈な信奉者で、彼が大坂滞在中は大いにその世話を買って出たほどである。文政の初めは蘭学にとって追い風の時代で、橋本宗吉たちが活躍できたのはそのためであった。
そうした風潮の中、シーボルトは警護付であったが大坂を闊歩した。繁華街である道頓堀も訪れ、手記には観劇した『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていくん)』のあらすじを書くなど大坂を満喫したとある。
 そのシーボルトがいよいよ帰国の準備を始めたのであったが、予定していた乗船が嵐で転覆してしまった。だがそれが大事件の発端となってしまったのである。難破した船からご禁制の日本地図などが発見され、通敵しているとして拘束されたのだ。
「天文方の高橋様(景保)も捕まった」
 大坂で騒がれたのは彼とその亡父・至時が大坂町奉行配下の同心であったからだ。 これが幕府内の保守派の疑心暗鬼を生み、蘭学は禁ずるべきだという風潮を生み出してしまった。
 蘭学者を攻撃する急先鋒は漢方医である。彼らは古くから医学の権威として君臨し続けてきたが、如何せん医療方法が古く、役に立たなくなっている。そのため蘭方医との関係は最悪で、こうした機会を逃さなかった。
 漢方医に小石元瑞と言う平八郎の主治医がいる。主に京都で活動していたが、与力や同心たちの診療をするため大坂にも進出していた。その門下に藤野容庵という者がいて、彼が激しく思々斎塾を攻撃していたのである。
「思々斎塾はひたすら紅毛人の学問を重んじ、国体を軽んじている」
 そう主張していたが、これに雪斎たちは、
「小石門下はそう言うが、彼らも時に蘭学の力を借りているではないか。一方で都合良く蘭学を用い、一方で自分の力を増すために奉行所に取り入っているだけだ」
 と、反論したのである。こうした雪斎たちの激昂ぶりに、天游は、
「小石先生を悪し様に言うな。あの先生は立派な方や」
 と、苦言を呈し続けてきた。だが天游を慕い、蘭学を重んじる彼らにとって小石門下の罵声は看過できないものであった。さらに言えば坂本町近辺にも小石門下が診療の手を伸ばしたことも双方の諍いに拍車をかけていたのである。
 類は友を呼び、友は類を呼ぶ。三平もまた師を大事に思うがゆえ、小石門下を憎く思うようになっていた。そして患者を一人たりとも渡さぬ、小石門下に負けない進んだ医療をしなければならないと考えるようになってしまったのであった。

 実に根気よく彫り具を動かす人がいる。名を中伊三郎、丹後の人で天游の従弟にあたる。幼い頃に火傷で指が不自由になったが、努力に努力を重ね大坂屈指の彫り物師になった人物であった。この頃はもっぱら木版印刷であり、まだ銅版印刷の技術が日本にはなかった。だが大坂に蘭学が入ると、繊細な図を印刷する必要が出てきた。そのために銅版印刷の技術が求められたのであるが、未知なる技術に職人たちは億劫になっていた。ところが伊三郎は、
「西洋の者が出来ることが、わしらに出来ん言う道理はない」
 と言って、銅版の研究に没頭し、ついに西洋人も驚くほどの技術を身に付けたのであった。一度やり始めたら決してあきらめない。負けん気の強さは天游と瓜二つであった。そんな伊三郎であるが、技術をさらに向上させるために思々斎塾に入門を希望した。その結果、そこいらの蘭学者など足元に及ばないほど学識を持つようになったのである。
「やァ。義姉さん」
 さだは伊三郎の義姉ではない。だが天游に兄事している彼にとってさだは姉同然で、常に敬意を払ってきた。さだは陽気な女性である。いつも笑顔を絶やさず、伊三郎はそんな彼女と会話することが何よりも楽しい。だが、この時はいつもと様子が違っていた。
「せっかくのべっぴんさんが台無しや」
 場を和ませようと伊三郎は軽口を叩いたが、さだの顔に笑みは戻らない。それどころかひどく不機嫌な声で、
「気に入らない」
 と呟いたために、伊三郎は驚いた。一体自分がさだに何をしたのか――頭を抱えて悩んでしまったため、さだは慌てふためいた。
「違いますよ、伊三郎さんのことやないの」
 伊三郎は自分のことでないことに安堵したものの、一体何にここまで怒っているのかわからず首をかしげた。若い子たちですよ、とさだは言う。
「何を思い違いしているのか知らないけど……医者に必要なのは名でありません。ましてや縄張り争いなど愚の骨頂。あるのはただ病の人だけ」
 この言葉を聞き、何に腹を立てているのかを理解をした。
 ――特に気に入らないのは……。
 先日入門した緒方三平と大庭雪斎だろうな、と伊三郎は脳裏に彼らの顔を思い浮かべた。
「緒方君は小賢しい」
 さだは語気を強めて三平を非難する。
「あの子には力量があるんです」
「力量ああることは悪いことやないです」
「いいえ。緒方君の小賢しさが大庭君たちを惑わしている」
「これはまた小町先生ともあろう方が随分と……」
 買い被っておられる、と悪しき意味で伊三郎はかぶりを振った。三平などはただ食うために寄宿しており、真剣に医を学ぶ雪斎たちよりも重く見ることが不思議でならない。
 だがさだは人を見る目がある。
 さだの亡父は医者であった。そのため彼女自身も幼い頃から助手として医療に携わっており、数え切れないほどの患者と接してきた。その結果、相手がどんな人物であるのか見抜く力を持つようになったのである。
 ――見所がある。
 三平が押し込むようにしてやってきたあの日。さだは同情だけで天游を説得したのではない。臨床医の――いや女の直感と言うべきか、三平の成長を見てみたいと思ったのである。だが三平は悪い意味で蘭学に目覚めてしまった。
医術は面白い――この感覚こそ医者にとって最も忌むべきものであった。
医は人体の理を知り、そして操作する技術である。一歩間違えれば死なずにすむ人を死なせてしまうことになる。いわば人の領域を超えた学問であり、楽しみ、面白がることは許されない。しかし医の力に接し始めた頃はその効用に人は惑わされてしまう。
 三平は人を引っ張っていく力を持っている。今までは周囲に押し込められ発揮する場がなかった。だが思々斎塾に来てその力を発揮する場を得ることができたのだ。それ自体は問題ないが、悪しき方向に人を導かれてはどうしようもない。
 雪斎は純朴な人であり、三平と接するうちに影響ではなく毒されてしまっている。影響力というものは人が集えば集うほど発揮もすれば暴走もしてしまうものだ。
 伊三郎はさだの表情からただならぬ覚悟を察したのか、それはいけないと首を横に振った。
 男は阿呆な生き物だ、と伊三郎は思っている。だが一時の行状だけで全てを否定しまえば人は育つことはなく、何でも縛ってしまえば倜儻不羈(てきとうふき/才気溢れ、独立心旺盛、常軌で律し難いこと)の精神は死んでしまう。
「短気は損気、ですよ」
 恐る恐る伊三郎はなだめたが、さだは不愉快な表情をして静かに目を閉じた。
 あまり深く考えるなという伊三郎の考えもわからないことはない。だがどうも越えてはならない一線をいつか越えてしまうのではないかと胸騒ぎがしてならないのだ。
 ――自然に気付いてくれたなから良いのだけど……。
 そう願うのだが、彼女を裏切る大きな事件、いや事故が起きようとしていた。
 
 言わずもがな、思々斎塾には多くの患者が訪れる。西洋において臨床こそ医術の基本とされており、門人たちは治療や看護の手伝いが課せられている。三平や雪斎も診療に携わっており、多くの患者を治癒してきた。だがこの経験が、さだの恐れていた事態を招き寄せてしまったのである。
 ――学び得た知識を役に立てたい。
 事あるごとに三平はそう言って様々な治療方法を試していった。初めこそ雪斎は躊躇していたが、医術の力に魅了されてしまい、積極的になってしまっている。
「世のため、人のため、己のため」
 かつて出会った清兵衛の言葉だが、三平は何度もこの言葉を繰り返しつぶやいていた。医術は正義の所業で、世のため、人のために様々なことに挑戦しなければならない。それがひいては己のためになるのだ、と三平は本気で考えていた。
「緒方。面白いものがあったで」
 雪斎が瞳を輝かせながら、ある一冊の本を持ってきた。それは『種痘必順辨(しゅとうひつじゅんべん)』という書で、その著者の姓を見て三平は驚いた。
 著者は緒方春朔という人で、久留米の藩医で多大な功績を残した人物である。だが三平が生まれた年にこの世を去っており、すでに故人であった。
「さては親戚か?」
 この問いに三平は苦笑しながらかぶりを振った。なぜなら三平の緒方姓は彼が創り出したものに近く、本来は佐伯、そして田上姓を名乗っていた。もっとも緒方氏や佐伯氏の発祥は豊後国であり、同じ九州出身であることから完全に無関係とも言えなくはないが、ただの想像遊びにすぎない。
「忞(雪斎)さん。その書の何が面白いのです?」
「種痘や。大坂では疱瘡が流行りおる。病人が出えへんように種痘を思々斎塾でやるんや」
 三平は一瞬身体を凝固させたが、なるほどとうなずいた。やり方は春朔の著作にわかりやすく書かれている。
「漢(まな)文やないのですね」
「ありがたいことに和文や」
 当時医学書は漢文で書かれることが常識であったが、春朔はよりわかりすくするためにあえて和文で記したのである。さらに順序立てて種痘の方法を記しているため、三平や雪斎程度の理解力でも十分種痘を培養することができた。だが三平たちに許されていたのはあくまで助手であり、勝手な医療行為は許されていない。
 この頃は当然免許など必要でないが、塾に通う者が師に無断でその知識を使用することは禁止されている。
「やろう」
 三平がそう叫んだのにはやはり彼自身が疱瘡で苦しん経験があったからである。引っ込み思案だと父・瀬左衛門に心配されていたが、実はそうではなかった。行く先がわからなかったため躊躇し彷徨していただけで、本来は好奇心と行動力のある男だった。それが脱藩覚悟で郷里を出て以来、その本質が開放されたのである。
「わしらは先生のご恩顧を受けておる。ここで思々斎塾の者が名を挙げれば……大坂の立場は磐石になる」
「恩返しですな」
 三平は顔を紅潮させながら何度もうなずいた。恩返しと二人は言うが、果たしてそうなのだろうか。本人たちは躍起になって否定するであろうが、心の奥に功名心が占めていたことは間違いない。そのため師やその他の年長者たちに黙って実行し、あっと言わせたかった。
 ――先生のためや。
 三平たちは本気でそう思っていたが、さだが心配したように医者として二人は最も大事なことを忘れていた。
 義だ、と三平たちは情熱をたぎらせる。だが冷静な者から見ればこの行為はただの謀略にすぎない。動機や行動は恐ろしいまでに短絡で幼稚であった。身体は大人になりつつも、頭の中が子供である彼らの謀略に大人たちが気付かないはずはなかった。 しかし彼らの謀略に気付いたのは皮肉にも大人たちではなく、一回りも年下の少女であった。億川八重に気付かれたのである。
「何かおかしい」
 八重が一人ごちているのを父の百記が耳にしたことから全てが露見した。
「こそこそして変なんです。男の子が悪さする時はいつもそう」
 八重はくすくす笑いながら言ったが、百記は何か嫌な予感がしてならなかった。
 それから二人に気付かれぬよう注視していると、やがて恐るべきことが判明した。何と三平たちは独断で種痘を作り、事もあろうに近所の子供たちに投与しようとしていたからだ。
 ――あのくそ餓鬼どもめがッ。
 悪戯と呼ぶにはあまりにも度が過ぎており、何よりも人の身体を玩具にしようとしていることが許せなかった。彼らは仁だと抜かすかもしれない。だが百記からすれば人非人の所業だとしか思えなかった。
 さらに許せなかったのは二人が人痘を使おうとしていたことだ。この頃種痘には人の疱瘡菌から培養した人痘と、牛から採取した牛痘の二種類があった。参考にした『種痘必順辨』には人痘を使うことが記載されているが、医術は日進月歩の世界であることを三平たちは認識していない。
 種痘とはわざと発症させ免疫を作らせ、そのことで重症化させない予防法である。 コツはあくまで「軽く」発症させることにあるのだが、人痘はそこに大きな問題点があった。人痘は人の身体から抽出したもので、悪い意味で人に合ってしまう。人に合うということは病気が進行しやすいということで重症になるのはそのためであった。
 牛痘は牛からできたもので人体での進行が遅く人痘よりも安全であった。いずれにせよ種痘はまだまだ未知数であり、一流の医者でさえ使うことには慎重であった。それが見様見真似で子供相手に使うなど言語道断、とても許せることではない。

「大庭、緒方ッ」
 そう叫ぶと百記は力の限り二人を殴り飛ばした。突然の剣幕に三平も雪斎もただ怯えるばかりで、何故ここまで怒っているのか理解できなかった。百記が狼藉したのは塾内であり、当然ながら門人たちは驚き、騒然となっている。
「億川さん、やめェ、やめェ」
 必死になって止めたのは伊三郎であった。それに続いて師である天游も押さえつけた。だが百記の怒りは収まらない。やがてさだもこの騒ぎに驚き、百記の前に立ちはだかった。
「こいつらは……こいつらは事もあろうに、人の命をもて遊んだんです」
 命をもて遊ぶ――あまりの言葉に三平は黙っておられず口泡を飛ばして否定した。 だが百記は猛然と彼らが秘密裏で種痘を企てたことを暴露し、さらに怒号を浴びせた。
 「……種痘やと?」
 あまりのことに天游も驚愕し、ただ二人を凝視するしかない。まさかそんなことを企むとは――さだは選定眼があるどころかただの節目であったことに打ちのめされてしまった。
「本当なの、二人とも?」
「いえ、その……」
「はっきりとお言いッ」
 見たことのないさだの形相に二人は怯えながらうなずいた。百記はあらん限りの声でなおも叫んだ。
「命を何やと思ってる。人が亡くなる言うんはな、亡くなる言うんは……二度とその人と会えん言うことや。それがお前らにはわかってへん」
 烏賊のぼりと馬鹿にされながら医を学んだ百記には人に言えぬ深い悲しみがあるらしい。だが百記はただ泣き叫び、二人の愚行を罵り続けた。
 やがて塾内は落ち着きを取り戻したが、不穏な空気はそのままであった。さすがのことに天游は顔を強張らせながら、一言も発しない。さだも同じくただ無言で二人をにらみすえる。
「出ていきなさい」
 何を言っているのか二人には理解できず、きょとんとした。だがさだは蒼い炎をたぎらせた眼光を再度突き刺した。
「出て行きなさい。あなたたちは医を学んではいけない」
「小町先生――」
「大庭雪斎、緒方三平。両人はただちに塾を出ていきなさい。二度と医を学ぶことを許しません」
 すうとさだは息を吸うと、さらに激しい声で叫んだ。
「出て行きなさいッ」
 まるで雷が落ちたような――そんな衝撃が二人の身体に走り、叩き出される様にして塾を退出させられてしまった。
 どうすればいいのか、と考える暇もない。三平は再び無宿者になる恐怖に苛まれることになったのであった。

 ――助けてくれ。
 恥も外聞もあったものではない。
 よりによって――そんな思いがないわけではない。だが今の三平に頼れる者は哀しいかな、格之助しかいなかった。
「お前という奴は……」
 格之助はただただ呆れるしかない。
 ――いや、待てよ。
 ふと一緒に追い出された同輩のことに格之助の思いが及んだ。雪斎という男は追い出されてどうなったのだろうか。
「忞さんには蔵屋敷がある」
 三平は暗い表情をしながら答える。雪斎は思々斎塾に住んでいたが、三平のように藩を抜け出したのではなく、あくまで天游の招聘を受けての寄宿であった。
「忞さん、お頼みいたします」
 共に追われた者同士の気軽さで三平は頼んだのだが、雪斎は良い表情をしない。
「気軽に言うな」
「いえ、ですから……私には行く先がないのです。長屋の隅で結構ですので佐賀様のお屋敷に住まわせていただきたいのです」
 何と虫の良いことを言う――雪斎は呆れ果てていた。そもそも三平は蔵屋敷とは何であるのか知っているのか。考えてみれば誰でもわかることだが雪斎個人の物ではない。
 長屋の隅にでも、と三平は言う。だが藩公の思し召しにより大坂へ上りながら塾を追い出されたのである。佐賀藩にとってははなはだ不名誉なことであり、本来ならば切腹して詫びねばならない。お情けをかけてもらうのは雪斎であり、とても他藩の、しかも浪々の三平を住まわせてほしいなど言えた義理ではない。そんなこともわからないとは世間知らずにも程がある。
 ――こんな仕儀になったのはこいつのせいやないか。
 ある種の逆恨みだが、順調に過ごしてきた雪斎にしてみれば三平は疫病神に思えて仕方がない。そんな当たり前の感覚さえ三平はすっかり失っていた。
 雪斎に見捨てられた三平は藁をもすがる心持で助けを求めた。だが格之助もまた助ける余裕などない。彼もまた家出同然で大塩家を出ており、柴田道場に居候をしていたからだ。
「お前はどうしようもない阿呆やッ」
 泣きっ面に蜂とはよく言ったもので、三平は怒りで身体を震わせた。行き場のない怒りは当然、眼前の格之助に向かうのも自然の流れであった。
「お前に頼った私が阿呆やった」
 そう言い捨てて三平は去ろうとした。だが何を思ったのか格之助は待て、と声をかけた。
「……言いすぎた。柴田先生にお願いしてもええんやが……」
「どういう風の吹き回しや?」
「仮で……エエんやが、わしの手代にならんか」
 手代とは与力の下僚である同心が手先として用いる者たちのことで、江戸における岡っ引に相当する。手代は犯罪経験者がやる仕事で、いかに無宿者になりそうな三平でもそのような仕事を請けることなどできない。
「いや……言い方が悪かった。手代ではなく、大塩格之助の与力になってほしいんや」
 随分と言葉を選ぶものや、と思いつつも三平の機嫌は直らない。言い方がどうであろうとも格之助の手足になれということには変わりがない。
「わしの父は知っているな?」
「ああ」
「その父を、だ」
 内密に探りたいと格之助は言うのである。
「何でや?」
 三平の「何で」にはいくつかの意味が含まれている。
 何でこそこそと平八郎を調べなければならないのか。何で洗心洞の同志を誘わないのか。若先生と呼ばれているのならまず彼らを頼るのが筋であろう。そして最大の何はどうして自分を頼るのか。だが格之助にもその答えがわからないらしい。
「その何でがわかったら居候もせえへんし、お前なんかに頼みごとも、頼まれごともするかい」
 この言葉に三平はむっとした。やはりこんな奴に居候を頼み込んだことを激しく後悔した。
「どっちにしても手代の真似などできん。もうお前なんかに頼まん」
「ふん。それはこっちの言葉や。田上こそ無宿者にでもなって烙印を押されたらエエんや。無宿者になるより手代の方がはるかにましや」
 売り言葉に買い言葉、なぜこうも反りが合わないのか不思議でならない。双方、顔を背けてそれぞれ来た道へと分かれていった。
 だが、強がってはいたが、どちらもその足取りは重い。
 ――どないしよう、どないしよう……。
 決して相手に聞かれたくないが、助けてほしかった。だが素直になるには二人はまだまだ若く、何よりも不器用であった。二人は振り返ることなく大坂の夜に溶け込んでいった。

   二

 江戸の吉原。
 京の島原。
 そして難波の新町。
 幕府公認の花町として栄えてきた場所で、大小の遊郭が立ち並んでいる。新町の中でにわかに身代を大きくし、豪勢を極める店があった。八百屋という名の妓楼で、格子に鼈甲を使うなど贅を凝らしている。店の主は新蔵と言い、人は彼を「八百新」と通称した。その鼈甲の格子から新町を行き交う者たちを眺めながら酒を片手に女を抱くことが何よりも好きな男がいる。その男こそ――西町奉行配下の筆頭与力・弓削新右衛門であった。
「随分おとろしい方やそうで……」
 八百新は機嫌を取るように尋ねる。いつもなら女と酒があれば上機嫌な弓削であったが、この日は違った。ひどく不機嫌なのである。
「何が恐ろしいんや」
「いやはやいつもとは違っておとろしいお顔をされておいでで」
「やかましい。わしよりも何が恐ろしいんや」
「近頃、東町奉行所でよくお聞きする大塩様ですよ」
「大塩? ああ……堅物で変わり者らしい。訳のわからん塾を開いて先生気取りらしい」
 弓削は吐き捨てるように平八郎を嘲笑した。弓削の職歴が長く、今や筆頭与力である。彼から見ればまだまだ平八郎などは青臭い。いや仮に平八郎が年上であろうとも噂に聞く正義漢ぶりは子供じみて話にならない。
「その先生様ですが、ご用心なされた方が良いのでは……」
 この忠告を弓削は一笑に付した。八百新は様々な悪事に手を染め、同じ臭いのする弓削を見出して勢力拡大に利用した。もちろん弓削も八百新の力を欲したため、自分の力を使わせてやっている。
 盗み、人の売り買い、付け火、そして人殺し。あらゆる悪事を手掛けてきたこの男が平八郎の何を恐れるというのか、弓削にはまったく理解できなかった。
 ――大塩という与力は頭がおかしい。だからこそ厄介な存在なんや。
 八百新の悪人としての直感であった。だが弓削にはその直感は埒もないことだと思えて仕方がなかったのだ。先の切支丹事件など弓削にすれば茶番にしか思えない。だが八百新はその切支丹事件の裁きがどうにも怪しいと考える。
「所詮はお遊びや」
 どこまでも弓削は平八郎の言動が稚拙に思えてならない。それよりもだ――と弓削は八百新を抑えながら、言葉を荒げた。平八郎に杞憂するよりももっと注意せねばならない人物が西町奉行所にいると弓削は言うのである。
「内山や」
 この名を聞き、今度は八百新が首をかしげた。
 内山と言えば老齢の無能な与力であり、何を恐れているのかわからない。すると弓削は即座に「あの呆け爺やない」と否定した。
「その倅や」
 それを聞き、さらに八百新は驚いた。内山の倅とは与力見習をやっている彦次郎のことで、弓削がなぜ恐れているのであろうか。
 弓削と八百新。この二人は一蓮托生、命運を共にする仲である。だが生き方、価値観はまるで違う。一方は与力であり、生きる基盤はどこまでも奉行所という武家社会にある。一方は無法に生きる者で本来は共感し合える仲ではない。与力として恐るべきは奉行でも、もはや飾り物と化していた大坂城代でもない。真の敵は下僚の与力どもであった。
 幸いなことに、西町奉行所には与力のみならず同心、手代に至るまで大した者はいない。いやそれは弓削が地道に敵対する者を排除してきた結果であり、今や筆頭与力の地位は磐石である。だが近頃弓削の眼中に気になる男が密かに台頭しつつあった。
 ――あいつは俺と同じ臭いを持っている。
 悪人ならではの嗅覚でそう思った。
 弓削は無能な人間ではない。そもそも「悪」とは「強い」という意味があり、弓削はなるほど強かであった。その悪を内山の倅・彦次郎から感じてならなかったのだ。
 弓削は金銭の信奉者である。幕府は崩壊するまで農本主義を貫き、長らく財政難にあえいできた。時折であるが商業を推進する田沼意次のような老中が現れたが、結局は保守派の反対で潰されてしまう。
 だが大坂は天下の台所と呼ばれるほどの流通都市であり、その大坂市政を担当する与力・同心は全て算盤に秀でていた。あの平八郎でさえ常に算盤を携帯しており、計算に関しては誰にも負けなかった。
 西町奉行所において弓削の算盤に敵う者はいない。だが彦次郎はそんな弓削を凌駕するほど算術の天才であった。何よりも諸色(物価)を見定める異才の持ち主である。
 彼の異才は長い部屋住み時代によって培われてきた。当主でなければ禄はなく、生活は常に困窮している。そのため彦次郎は食うためには街に出る必要があった。彼の面白さはその時間をもて余すことなく盛んに街に繰り出して、つぶさに経済の流れを感知していったのである。懐が寒い彦次郎は懸命に何が安く、そして高いのかを研究・分析をした。やがてそれが諸色を見極める目を持つに至り、ある頃から商人たちの信望を集めるようになったのである。
 平八郎は廉直をもって人望を集めたが、彦次郎は商売には欠かせない諸色という情報をもって信望を集めたのである。
 弓削も諸色に疎くはない。だが彦次郎と違ってそれはただの知識にすぎなかった。 彦次郎は誰も認識はしていなかったが知識とは「集める」「分析する」「活用する」三つの段階があることを自然に識っていたようである。
 この奇跡的な彦次郎の力を、西町奉行も重宝した。このまま与力となれば恐ろしいまでの速さで弓削に追いつき、そして凌駕するであろう。
「新蔵よ。俺に力があるのはどうしてだ」
「それは……御奉行の内藤様の御信任あってのことかと」
「そうだ。西町には能無ししかいないからこそ俺は権勢を振るうことができる。だが内山の倅は煮ても焼いても食えん。お前は大塩を恐れているが、所詮は東町の者や。東町の者が西町に口を挟むことはできんのや」
「しかし……」
「内山の倅は必ず俺に牙を剥けるやろう。お前たちはあいつをしっかりと見張っとくんや」
 それは――となおも躊躇したが、格子にまで鼈甲を使うほどの遊郭を営むことができるのは弓削の力あってのことだ。その力の根源を守るためならばこれ以上異論を挟めなかった。

   三

 また、や――。
 いい加減、格之助はうんざりしていた。居候してから洗心洞には顔を出さなくなっていたが、奉行所の勤めは真面目にやっている。東町奉行所から天満の柴田道場に戻るには天満橋を渡らねばならない。その橋上でいつも彦次郎と顔を合わせるのである。
「やァ、珍しい所で会うもんや」
 如才のない笑顔で挨拶をしてくるが、どうにも空々しい。そもそも西町奉行所は内本町橋詰にあり、わざわざ天満橋を使うこと自体おかしな話であった。
「あなたのそういう所が――」
 嫌いだ、と格之助ははっきりと言うと彦次郎は腹を抱えるようにして笑った。
「君はほんま直情やな。それがまた――」
 エエんや、と彦次郎は言う。だが彼は格之助の何に良さを感じているのか、素直に受け取るにはその笑みは純粋ではなかった。
「話がある」
 彦次郎は擦れ違う間際、ささやく。だが格之助はふんと鼻を鳴らした。
「それがしにはありませぬが」
「わしも忙しいんや。そう毎日毎日用もないのに天満橋通いするのも骨や」
「それはそれは。見習の身でさほど忙しいとは大変なことで」
「同じ見習でも父や周囲に仲間外れされて家出するような青二才と一緒にされたらかなんなァ」
 これは明らかに意趣返しであった。まだまだ彦次郎とやり合うには格之助は素直すぎるようだ。
「嫌味の言い合いはここまでにして……君のお父上のことがどうにも気がかりで話がしたかったんや」
「父上のことが?」
「そうやないか。ようやく跡継ぎを迎えたのにその息子は家出。何をお考えかは知らんが御内室を離縁されたと云う」
「他家の……それも組違いの見習に心配される筋合いはない」
「その通りや。でもな……どうもエラいもんに手を出されているように思えてならぬ」
「エラいもの?」
 彦次郎は笑みを収め、真剣な表情で頷いた。
「立ち話も何や。ここは是非君の庵にでも案内してほしいもんや」
 彦次郎一流の諧謔に格之助は思わず苦笑してしまった。わずかながら笑ってしまったことは格之助の負けであり、気乗りはしなかったが彦次郎を自分の部屋へと誘うのであった。
 格之助は物置のような離れを借りている。
「母屋の一室でエエやないか」
 師の柴田勘兵衛は格之助を愛しており、何度もそう言ってくれた。だが律儀な格之助は離れで良いと固辞した。
「わびさびのある離れで」
 からかうように彦次郎は笑うが、格之助は無表情で答えない。それよりも早く言え、とにらみすえていた。
「怖い怖い。さて、君のお父上やが、何かエラいもんに手を出そうとしている」
 格之助は固唾を飲みながら尋ねる。彦次郎はゆっくりと息を吐きながら自身の見解を話し始めた。
「切支丹どものお裁きやが……大袈裟のように思えて仕方がない」
 彦次郎は必要以上に豊田貢や藤田顕蔵たちが狂信者であると触れ回られていると感じていた。この感想は弓削の手下である八百新も同様で、彦次郎は与力よりも与太者に感覚が近かった証拠であろう。
「大事を前に何かを隠す。これは兵法の初手やわな。大塩殿の陽明学狂いは有名な話や」
「陽明学狂いとは聞き捨てなりませぬな」
「これは言葉が過ぎた。ともかくや、陽明学にも兵法がある。敵を欺くには味方から、や」
「何を父は敵とされているのか……」
 格之助がそうごちると、彦次郎は不敵な笑みを浮かべて目をつぶった。
「筆頭与力やろうな」
「筆頭……西町の?」
 格之助の脳裏にはすぐさま弓削の名が浮かび上がった。弓削の悪行――いや彼が昨今起きている不正無尽や殺人、強盗の黒幕でないかと東町奉行所ではもっぱらの噂であったからだ。だが弓削はどこまでも組違いの西町奉行配下である。いかに平八郎が東町奉行の信任を得ているからと言って弓削を捕らえることは難しいであろう。
 それにしても眼前にいる彦次郎は一体どういうつもりか。彦次郎は西町奉行配下で、弓削の下僚である。その上役を追い落とすようなことをなぜ彦次郎が自分に教えてくれるのかどうにも腑に落ちない。
「小細工を弄すれば君は疑うばかりや。包み隠さず本音を言う。わしには大望がある」
「大望?」
「大坂はずぼらな場所になってもうた。世のため、人のため、そして己のため――本来の姿に戻さなアカン」
「世のため、人のため、己のため?」
 クク、と彦次郎は笑いかぶりを振った。
「とにもかくにもや。あの弓削は邪魔でしゃあない。是非お父上と共に討ち取ってもらいたい、ただそれだけや」
「我ら父子をあなたの野望の道具になれ、と言うことですか」
「ケツの小さいことを。まあ信じるかどうかは別やが……今月の末に天王寺のここへ行ってみィ」
 彦次郎が差し出したのは天王寺の地図で、朱筆で小寺に丸印が付けられている。
「天王寺の与太者でな。安兵衛ちゅう弓削の息がかかったもんの寝床や。ここで不正無尽が行われる。大塩殿は恐らく不正無尽を一網打尽にするおつもりやろう。これは大きな仕事や。下手すれば大塩家は滅亡や。きっと大塩殿はいざとなれば何も知らへん君に後を任せて死するつもりやとわしは見とる」
 あまりの観測に格之助は息をするのも忘れて唾を呑み込んだ。
「除け者にされた者が除け者にした者を見返すは抜け駆けすることや。天王寺の安兵衛をしょっぴけば大手柄。お父上も鼻高々言うもんや」
 彦次郎は高笑いをしながら、そのまま柴田道場を後にした。
 もしこれが本当なら――いや彦次郎の推測は当たっているであろう。弓削が主催する不正無尽を摘発するのならば大塩家存亡を賭けねばなるまい。それならば自分を大塩家に入れ、そしてゆうを離別した訳も合点がいく。例え自分の身がどうなろうとも離別したゆうは別人であるし、格之助を迎えておけば大塩家は続いていくことができよう。だがこの保全策に格之助は不満を感じずにはいられない。
 父の理想は子である自分の理想ではないか。それがいかに家を残すためとは言え、跡継ぎである自分が除外されねばならないのか。戦で言えば敵に背を向けて逃げると同じである。これほど男子として屈辱はない。
 ――一騎駆けしてやる。
 功名心か。はたまた正義感か。血気に奔った格之助はたった一人で天王寺安兵衛を捕らえてしまおうと考えたのである。だがこれはあまりにも無謀で自暴自棄な突出であった。

 ――エラいこっちゃ。
 血相を変えて天満橋を駆け抜ける青年がいた。
 大井正一郎であった。たまたま柴田道場に用があり、格之助の様子を伺いに離れにいたのである。盗み聞きするつもりはなかったが、単独で安兵衛を捕らえようとしていることを知った正一郎は仰天した。
 正一郎は奉行配下ではないため、弓削をどうこうすることもできない。だが平八郎は格之助を守らんがため、あえて彼に秘事を明かしていたのだ。正一郎は粗暴であったが、誰よりも格之助を敬愛しており、懸命に口を閉ざしてきたのである。だがその結果がこのたびの暴走を生み出しており、下手をすれば格之助を殺してしまうことになる。
 ――俺が悪かったんや。どないしても若先生をお止めせな。
 しかし哀しいかな、正一郎には格之助を止める弁舌がない。では代わりに誰かを頼らなければならない。そう思った時に脳裏に浮かんだのが坂本鉉之助であった。鉉之助ならば格之助を止められるだろうし、いざとなれば力でねじ伏せることもできよう。逸る気持ちを抑えながら正一郎はひたすら坂本邸へと駈けていった。
 鉉之助が住む玉造へ向かう途中、法円坂にて正一郎は思わぬ邪魔者とぶつかってしまった。
「だ、誰やッ」
 尻餅をついた正一郎はその相手をにらみすえた。するとそこにいたのは三平であったのだ。
「た、田上?」
「これは大井さんやないですか」
 何とも気の抜けた声で三平は正一郎の顔を見つめた。だが危機的状況の中では間抜け面ほど腹立たしいものはない。
「お前のことなんかどうでもエエ。そこどけッ」
「もしや、格之助の身に何か?」
「もしや?」
 正一郎はどういうことや、と詰め寄った。
「いえ。格之助の様子がおかしかったんです。何か思い詰めたような……」
 三平は手代になれと言った話をした。正一郎は嘘のつけない男である。話を聞くうちにみるみる青ざめさせていった。
「何があったんです?」
 今度は三平が詰め寄る番であった。先ほどまでの腑抜け顔ではなく、別人のように精悍な顔つきになっている。
 ――こんな顔をするんか。
 かつてひ弱であった三平しか知らない正一郎には意外であったが、その迫力に押されるように全てを話してしまったのである。
「――あの阿呆がッ」
 そう叫ぶと、三平は血相を変えて、矢のように天王寺方面へと駆け出してしまった。
「し、しもうた……どないしよう……とんでもないことになってもうた……」
 正一郎はただ顔を青ざめさせるばかりでどうすればいいかわからなくなってしまった。

 望月の欠けたることなき秋の宵。何事もなければ酒杯でも傾けながら風流に月を眺めたい、そんな夜であった。だが月下に身を潜める格之助にそんな余裕などはない。
 ――やったる。
 体中に血気を奔らせ、ひたすらその「時」を待ち続ける。
 四天王寺から大坂清水寺を経て松屋町筋に抜ける坂。大坂の七坂と呼ばれた清水坂であり、その奥まった場所に彦次郎が丸印をつけた家屋があった。そこが不正無尽の会場であり、取り仕切る天王寺安兵衛が現れると言う。この安兵衛を捕らえようと格之助は隙を伺っていたのだ。
 無謀この上ない計画だが、格之助はどこまでも本気であった。父も認めず、皆も認めない。意地でも一人で安兵衛を捕らえ、そこから一気に弓削まで迫る。実に稚拙な考えであったが、心理的に追い詰められた格之助にとって最後の手段であったのだ。
 安兵衛はならず者の長である。当然ながら用心深く一人にはならない。だが彼も人である以上、尿意をもよおすこともあろう。その時は一人であるはずで、さらに言えば気が緩んでいるはずである。狙うならその時しかない。
 やがて格之助が狙っていた時がやって来た。安兵衛は行儀が悪い。ありがたいことに屋内ではなく戸外で用を足そうとしたのである。
 これほどの好機がまたとあろうか――縄と十手を持ち、格之助は踊りかかろうとした。だが突如背後から格之助は羽交い絞めされてしまった。
 ――すわ、安兵衛の手下かッ。
 まさに万事休す、と覚悟した格之助であったが、意外な者に押さえつけられていることに気がついたのだ。
「た、田上?」
 いるはずもない三平がそこにいる。まさか緊張のあまり幻覚を見ているのかとさえ格之助は思った。だが紛れもなく三平が鬼の形相で睨み吸えている。
「頭冷やせ、このど阿呆」
「やかましい、お前には関わりのないことや、離せッ」
 錯乱をしている格之助は大声で叫ぼうとしたが三平は必死になってその口を塞いだ。とにもかくにもこの場から離れなければならない。だが相変わらず格之助は力強く、三平ははがされそうになった。疲れ、そして腕の力が弱っていった。
「どけッ」
 まさに振り解こうとしたところ、別の影が二つ格之助の身体に乗りかかった。
 一人は正一郎、そしてもう一人は弦之助であった。
「間一髪やった」
 鉉之助は満面に汗を流しながら、安堵の息を漏らした。
「正一郎ッ」
 鉉之助は正一郎に用意させていた縄を出させ、暴れる格之助を縛り上げた。さらに懐から手拭を出し、有無を言わさず格之助の口中に詰め込み黙らせることに成功したのである。
「急げ、田上、正一郎」
 奴らに勘づかれるな――鉉之助の眼が語るまでもなく、三平も正一郎も長居するつもりはない。一目散にその場を離れていったのである。

 場所は遷って源聖寺坂近くにある一軒の家。ここに平八郎に離別されたゆうが住んでいる。この日はたまたま橋本忠兵衛が訪ねてきていた。
「ほんま惜しいことですなァ」
 この二人は義兄妹の間柄だが、それはあくまで表向きのことである。ゆうは茶屋の娘であり、本来なら妾にさえなれない身分である。だが忠兵衛が義兄となり、橋本家の養妹として彼女を大塩家に入れたのである。忠兵衛はゆうを師の妻として敬い、ゆうは忠兵衛を恩ある義兄として慕っている。
「何が惜しいと仰るのです?」
「髪ですよ」
 ゆうは離別された際、遁世の意味も込めて肩まで髪を切った。そのため結うことができない。ゆうは髪結いが得意で実に品が良い。それが見られなくなったことが忠兵衛には惜しくて仕方がなかった。
「義兄様はほんにお上手ですこと」
 ゆうは顔を赤らめて微笑した。二人は益体もない話をしながらゆっくりと茶を啜った。やがてゆうは茶碗を置き、思い出すようにしてつぶやく。
「格之助さんですが……」
 可哀想なことをしている、とゆうは語る。忠兵衛は無言でただうなずいた。
「先生もお辛いことでしょう。ですが全ては大塩家の、いや若先生の御為。やむをえぬことでございます」
 この言葉にゆうは答えることなく哀しげにうつむいた。それにしましても、とゆうは急に話題を換えた。
「私は幼い頃から茶屋の奉公に出され、寝る以外は常に働いて参りました。ところが旦那様よりお暇を頂戴してからは何もすることがなく、ただこうしてお茶を口にするだけで戸惑ってしまいます」
「殊勝なことで。まァでも一生のうちでそんな時はあるもんです」
 忠兵衛はそう笑いながらも決して、「お気楽に」とは、言わなかった。
「旦那様は大事ございませぬか」
「今は大事ありません。ですが事が事なだけに……」
 そう言いかけて忠兵衛は口をつぐんだ。再び両者の間に沈黙の空気が流れ、そして茶がただ冷めていく。戸外は強い風が吹き、騒がしく戸を揺らせる。
「義兄様」
 何を思い出したのかゆうはくすっと笑った。
「先ほどちらっと見たのですが今宵は随分と良いお月様が顔を出していますね」
「天満からこちらへ来る間、あまりの美しさに見惚れてしまいましたよ。お陰で何度も転びそうになりましたが」
 忠兵衛の冗談にゆうは声を立てて笑う。
「そう言えば思い出しますね。格之助さんが初めて狼藉をされた日のことを」
 ああ、と忠兵衛は懐かしそうな表情を浮かべた。
「お相手は田上様、でございましたかな」
「田上さんとはよほどご縁があるようで……先の捕り物でも大変でしたわね」
「随分と悪し様に言い合っておられましたが、あのお二人ほど――」
 気の合った二人はいないでしょう、と忠兵衛は語った。仲が良いほど喧嘩をするというが、格之助と三平はそうした仲なのかもしれない。二人はしばらく微笑していたが、ゆうはふと笑いを止めて平八郎の顔を思い浮かべた。
「旦那様には格之助さんにとっての田上さんのような方がいらっしゃるのでしょうか」
 この言葉に忠兵衛は答えられなかった。
 平八郎の人脈は豊富である。師も友もいるが、罵り合い喧嘩するような友がいるのだろうか。平八郎は負けず嫌いである。さらに一本気であり自分の説を頑として曲げない。そこが平八郎の長所であるが、頑固であることは付け入る隙を無くす代わりに、本音をぶつけてくれる人もいなくなってしまう。
 人は完璧ではない。欠点を知ってこそ人の長所を認め、短所を許すことができる。自分に短所があることを知るからこそそれを突かれたなら腹を立て喧嘩をしてしまう。だが平八郎は陽明学という鎧に身を固め、相手を萎縮させてしまう。ずけずけと物言いをする弦之助ですら平八郎の前ではどこか身構えており、幼馴染の藤四郎も心配しても苦言を呈することは少ない。
「なぜでしょうね」
 どうして今夜はあの二人についてこのように考えてしまうのかゆうには不思議でならなかった。
「しかし柴田先生にはいつもご迷惑をおかけします」
 勘兵衛は平八郎が少年時代から武術を教えてきたため、今はすっかり老齢である。 懐が広く、随分と平八郎も助けられ、そして世話になってきてきた。その息子まで厄介になっており、申し訳なさで二人の心は一杯になる。
「いつまでも甘えてばかりではならぬのですが……」
 忠兵衛が深刻な表情でつぶやくと、ゆうは厳しい表情でかぶりを振った。壁に耳あり障子に目あり、と云う。迂闊なことを話せば、取り返しのつかないことになってしまう。今、平八郎が取り組んでいる弓削捕縛はこれほど警戒せねばならない事柄なのだ。
 ――でも……。
 と、一方でゆうは考えていた。今回の件は格之助だけは何も知らされていない。そのことが彼を苛立たせ、家を飛び出させてしまった。平八郎は除外され敵対されたなら例え天下全てが敵になっても戦う意地を持っている。だがこうと心を定めればどこまでも戦い貫ける力を持っていた。格之助も同様で、事情を一人だけ知らされていないことに傷つかないわけがない。しきりに格之助のことが頭から離れなかったのは、女の勘というものが働いていたのかもしれなかった。こんな話をしていると戸を激しく叩く音がしたのである。
 ――さては弓削の手の者か。
 ゆうたちは咄嗟に身構えたが、そうではないことがすぐにわかった。
「坂本です。坂本鉉之助でござる」
 予期せぬ鉉之助の到来にゆうは驚き、急いで戸を開けた。縛られた格之助を鉉之助と正一郎、そして先ほどまで話に出ていた三平がいたのである。どう見ても尋常でないことは誰の目にも明らかであった。
「まずはお入りください」
 三人は倒れ込むようにして入り、そして投げ出すようにして縛り上げた格之助を床に放り出した。
「何の騒ぎでございます」
 ゆうは慌てふためきながら尋ねたが、鉉之助はそれどころではなかった。
「まずは水をくだされ、水、水――」
「何があったのです?」
「いやはや……鉉之助も歳を取ったもんです。これしきで息が上がるとは」
 鉉之助はゆうの質問に答えず、喘ぎながら三平たちを指差した。
「あやつらにも水をやってくだされ」
「只事ではありませぬな」
「おう。橋本さんも来とったか」
 いつもなら笑いながら会釈をするのだが、この時の鉉之助は違った。
「随分と酷い仕打ちをされておられるそうで」
「坂本様といえどもお言葉が過ぎましょう」
 忠兵衛は露骨に嫌な顔をした。だが鉉之助は、「そうかの」と言いながら縛られている格之助に目をやった。
「正一郎、田上。もうエエ。縄を解いてやれ」
 何があったかはわからないが縛られるなど尋常ではない。またこのようなとげのあることを口にする弦之助も珍しかった。
「格之助が何をやったか、ご存知ないやろうな」
 無論ゆうも忠兵衛も知るわけがなく、酢を呑んだような顔で黙っている。
「天王寺の安兵衛とやらを一人で捕らえようとしてました」
 この瞬間、二人は凍りついた。それを三平たちが刺すような冷たい視線を浴びせる。
 鉉之助は再度、「酷いこっちゃ」と二人を責めた。
「格之助は大塩の者やなく、西田の者ちゅうわけですな。後素さんはよほど己の中に流れる大塩の血が大事なようや」
 さすがにそれは言いすぎだ、と忠兵衛は噛みつこうとしたが、殺気に近い鉉之助の眼光がそれを押さえつけた。
 一方、格之助は顔を上げることなく畳に顔を埋めている。あまりにも重々しい空気が流れ、誰も声を出すことが出来ない。正一郎と三平は黙々と縄を解き、そして力無く格之助は起き上がって壁に向かって正座をした。
「ゆう殿」
 鉉之助はじろりとゆうをにらんだ。
「水をもう一杯所望したい」
「水?」
「情けないがまだ咽喉がカラカラや」
 鉉之助は憮然と茶碗を差し出し、ゆうは無言で水を汲んだ。実はもう咽喉は渇いていなかったのだが、心を落ち着かせるために水を鉉之助は欲したのであった。そしてゆっくりと飲み、ひたすら平常心を取り戻そうとした。だがいくら落ち着かせようとしても格之助への仕打ちはやはり我慢がならなかった。なるほど格之助は無謀であり、一歩間違えれば殺されていた。さらに言えば平八郎が考えているらしい捕り物も台無しになる可能性が濃厚であった。
 ――そやからどないした。
 鉉之助は格之助の先輩として、古くからの平八郎の友人として納得がいかなかった。兵は詭道なりとでも平八郎は言いたいのであろうが、少しは格之助の気持ちも考えてやってもいいではないか。西田家から大塩家に入ってからはひたすら文武に励み、そして一途に平八郎を父として敬慕してきた。長年待たされ、ようやく大塩の姓を与えてもらったかと思えば格之助一人を蚊帳の外に置くなど、これ以上酷な仕打ちはあるまい。
 格之助に大塩姓を与えたということは名実ともに平八郎は人の親になったということだ。妾という立場であってもゆうは母親ではないか。それを訳も知らされずに母を失い、無視されては誰でも自暴自棄になってしまう。それを平八郎はもちろん、ゆうも忠兵衛も、そして周囲の者たちも理解していない。大義、親を滅すると言うが、あまりと言えばあまりではないか。
「俺は後素さんを心の底から尊敬している」
 だが、と続ける。
「後素さんは一人で生きてるんやない。周りに大勢の人がおる。人は一人ずつ心があり一生がある。それらをないがしろにしてエエ言う法はない」
 捲くし立てるように鉉之助は叫び、そしてそっと格之助の肩を撫でてやった。その肩はわずかだが小刻みに震えている。
「田上」
 言いたいことを吐露した鉉之助は立ち上がり、三平に声をかけた。
「ここからは大塩家、いや洗心洞の話や。わしもお前も他所者。 退散しよう」
 この言葉に三平は黙ってうなずいた。草履の鼻緒に指をかけると三平は振り向かずに呟いた。
「幼い頃……私は疱瘡を患っておりました」
 何を言いたいのか、ゆうは耳を済ませる。
「死にそうになりましたが命は取りとめました。ですがその後も身体は弱いまま。随分と父母や兄、隣の海禅寺の坊様にまで心配されたもんです」
 自分のことを気にかけてくれるーーそれは少年であった三平にはありがたく、そして常に申し訳なさが心にあった。だが過度の労わりは人の心を傷つけるものだ。
 ――騂之助に無理をさせるな。
 ――騂之助は可哀想な子だ。
 ――騂之助を何とかしてやらねばならない。
 これを押し付けだとは言うまい。だが周囲の優しさは三平の身体を凝固させ、心を萎縮させた。そしていつからか自分は何をやっても駄目だと思い込むようになってしまった。
 初めて格之助と出会った時。何と自信にあふれ、周囲の期待を集めている人だと思ったことか。三平は恋をし、格之助といがみ合い、そして父や故郷を投げ捨てるようにして大坂へ飛び出してきた。今はまた寄る辺がない身だが「可哀想だ」と思われていた頃よりも心はいびつではなかった。まだまだ道が見えないが、今の格之助の辛さ――いや悔しさと言うべきか。彼の心の痛みが手に取るようにわかる。そして格之助を大事にする気持ちが空回りしていることが三平にはよくわかった。
「憐れみは優しさやない。大人は……いや大塩さんは全然わかってない」
 三平は平八郎を責め立てているが、かつて自分の父が手前勝手な理屈で振り回したことへの怒りが籠もっていた。
「格之助」
 まだ顔を向けようとしない格之助には三平は声をかけた。だが何を考えたのかしばらく無言でうつむくばかりであった。
「いつか庇ってくれた礼や。それにな……喧嘩相手が逝んでもうたら緒方三平はどこにも身の置き所が無うなってしまう。頼むから二度と死にに行くような真似はせんといてくれ」
 もっと言葉をかけてやりたかった。だが格之助を憐れむことはしたくはない。彼を憐れむということは自分をも貶めることになるからだ。
 ――田上ッ。
 格之助は三平を呼び止めようとしたが、もう三平の姿はそこになかった。二人の姿を見て弦之助は微笑しながらかぶりを振った。
「家を継ぐ言うんは一蓮托生。後素さんは格之助だけはと思われたんやろうが……。ほんまの親子にならなアカン」
 そう言い残すと自身も戸外へと出た。その際、忠兵衛に、「後素さんによろしゅうな」とだけ言い残し夜の闇へと姿を消した。
 格之助は泣いた。だが武士たる者は泣いてはならない。だが止めどなく流れる涙をどうしようもなく、身体を壁に向け、身体を震わせるしかない。
 三平は行くあてもない。
 格之助は確かなものがない。
 もがき苦しみ、考え、二本の足でしっかりと立てるよう成長しなければならない。暗澹たる心とは裏腹にどこもまでも月は美しく輝くのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

処理中です...