上 下
31 / 185

第三十話『千尋さんの見解』

しおりを挟む
「……ラブコメ?」

 何の脈絡もなく繰り出された質問に、千尋さんが困惑したような声を上げる。その声が気持ち小さくなっているように思えるのは、僕が小説に関する話を切り出したからなのだろうか。

 実際、ラブコメを書こうという発想が全くなかったわけじゃない。それが浮かんだ時には大体別のアイデアが解像度高めで出てきてしまっているから、いつも完成するところまで行かないというだけで。

 ただ、それはそれとして一冊分書ききれる自信がないのも事実だ。あくまで僕の得意分野はファンタジー系統のジャンルで、現実に寄せすぎるとその強みは活かせなくなる。……そんなことを、考えて居たのだけれど。

「僕がさらに大きくなるには、一皮何処かで剥けなきゃいけないんだって。……そのためには、今までに向き合ってこなかったジャンルから逃げちゃいけないよなって思ってさ」

「なるほど、それで悩んでたってことか……。でも、そこでなんでラブコメを選ぼうって思ったの?」

 嘘とも本当ともいえない僕の言葉に頷いて、千尋さんは優しく続きを促す。その理由は現実世界で起きてしまった問題と連動しているわけなのだけれど、それは流石に言うわけにはいかなかった。

 言ってしまえば、これは作家だからできる『これは友達の話なんだけど』作戦だ。僕の友達なんて信二と千尋さんしかいないから本来ならできないけれど、僕の生み出したキャラクターたち――言ってしまえば僕の子供のような存在の話なら事欠かない。ここ一番で子の立ち回りをひねり出せた自分のことを、僕は珍しく称賛してあげたかった。

「僕はね、世界観とかよりもキャラクターが先にできるタイプなんだ。そのキャラクターを中心に世界ができて行って、一つの物語になっていくのが好きで。……んで、今回できたキャラクターはどう考えても僕たちと同じような場所に生きてる高校生でさ」

「だから自然にラブコメの世界観になっていく、ってことかあ。いつもキャラクターに関していっぱい話してくれるなあって思ったらそういう事だったんだね」

「うん、そういう事。……だけど、今回のキャラクターはラブコメの主人公らしく悩んでてさ。『友情か愛情か』――なんて、少しありきたりすぎるテーマではあるんだけど」

 上手い感じに事情を脚色しつつ、僕は千尋さんへの説明を続ける。今僕の頭上に立ち込めているのは『どっちとの友情を取るか』というまた違った問い掛けなのだけれど、『両取りすることはほぼ不可能に近い』って意味では一緒だ。願いを叶えようと叶えまいと、行動しようとするまいと、僕はどっちかとの関係性を取り落とす。……この遠足を経て何も変わらずにいるのは、とてもとても難しいことだ。

 だから、僕は選ばなくてはいけない。……同じような選択肢を前に動けなくなってしまった、僕の子供と一緒に。

「もちろんその人にとってはどっちも特別で、できることならどっちとの関係も悪くしたくないって思ってる。……だけど、それは無理なんだ。どっちとの関係も諦めたくないけれど、諦めなくちゃ先には進めない。……というか、どっちも諦めたくないって言うとどっちとの関係もぶち壊すことになるかもしれなくて」

「……うん、難しいよね。それは足を止めても無理ないよ、だって絶対的な答えがないんだもん」

 共感するようにうんうんと頷いて、千尋さんは窓の外へと視線を投げる。……その横顔は、少しだけ寂しげにも見えた。

 少し視線を上にあげているのは、千尋さんが何かを言おうとしている、あるいは思い出そうとしているときのサインだ。……しばらく何も言わずにその横顔を見つめていると、やがて千尋さんが小さく口を開いた。

「……あたしね、恋人って世界に一人の存在だと思うんだ。別れたりまた付き合ったりするから現実には違うのかもしれないけど、そうだったらいいなって思ってる」

 僕ではなく窓の外を向いたまま、千尋さんはまるで独り言のように呟く。……それは、今まで見たことがない千尋さんの側面だった。

「現実がそうロマンチックじゃないことも分かってるし、息が合わないことも喧嘩することも、お互いのことを嫌いになっちゃうことだってあるって分かってる。……だけど、だからなのかな」

 まるで自分の中で何かを噛み砕いているかのように、千尋さんはぽつぽつと言葉を続ける。……そして、その視線は唐突に僕の方へと帰ってきた。

 いつもよりも真剣な瞳が、僕の姿をくっきりと映し出している。行きのバスという事もあってまだまだ騒がしい車内で、僕と千尋さんだけが違う空間に置かれているかのようだった。

「これはあたしの考え方でしかないから、照屋君が納得してくれるかは分からないよ。というか、無理に納得してくれなくても大丈夫。……だってこれは、あたしの我儘だから」

「……う、うん」

 自分で振ったはずの質問なのに、千尋さんの答えを前にした僕は息を呑む。千尋さんがどんな答えを僕に返してくれるのか、緊張するのにそれが聞きたくて仕方がなかった。

 期待と緊張に満ちた空間の中で、千尋さんは一度大きく息を吸い込む。……そして、僕の方をまっすぐに見据えて――

「……その人のことが本当に好きで一緒に居たいって思うなら、何を差し置いてもあたしはその子のことを優先してほしいししてあげたいって思うよ。……一生に一人しかいない大切な人に対してできることを少しでも取りこぼすなんて、あたしはしたくないからさ」

――何かを噛み締めるようにしみじみと、そう告げた。
しおりを挟む

処理中です...