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第百二話『僕はお願いする』

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 人は変わるものだ。変わらないことを願っても変わらずにはいられなくて、だからこそその中で変わらずに想い続けられる存在の大切さは大きく跳ねあがる。そのことに気づかせてくれたのは、今横で寝転んでいる千尋さんだった。

 きっとこの先僕もたくさんの出来事を経験して、その中で変わっていくんだろう。だけど千尋さんへの思いは変わらなくて、その度にきっと思い知る。僕にとってやっぱり千尋さんは特別で、きっと最期の一瞬まで一緒に居たいと思い続けるんだろうと。

 だから、僕はもうブレることがない。千尋さんという軸が揺らがない限り、僕はずっと僕らしさを見失わずにいられる。……そう思わせてくれた存在は、千尋さんが初めてではないのだけれど。

「……ねえ、千尋さん」

 ふと横にいる千尋さんの姿が『あの子』とダブって思えて、僕は名前を呼ぶ。すると布団が動く音がして、千尋さんがこっちを向いたのが分かった。

「……いなくならないでね。僕の事、忘れないでいてね」

 千尋さんの温かい気配を感じながら、僕は半ば無意識に、懇願するようにそう呟く。……それは千尋さんに向けたお願いでもあり、あの日僕が『あの子』に向けて言いそびれてしまった言葉の一つだった。

 忘れないでほしい。焼き付けていてほしい。忘れられるのは、とても痛くて悲しいことだから。大切な人であればあるほど、忘れられたときのショックはどんどんと膨れ上がっていくものだから。……たとえ忘れていくのが人間の摂理なのだとしても、零れ落ちてほしくない。

「おじいちゃんになっても、僕は千尋さんの事を忘れないから。千尋さんのことをずっと好きでいるから。……だから、千尋さんが、おばあちゃんになっても――」

 我ながら、重たいことを言っているなと思う。きっと普通の状況じゃこんな事言えなくて、お互いに眠りの縁に差し掛かっている今だから言えることだろう。こういう言葉はきっと、お互いに同じ家に帰るようになってから言うべきことなのだ。

 恋人って関係が世間的には案外脆いものであることも知ってるし、僕たちがそれに対して完全に例外じゃないって言いきれるわけじゃない。……未来に何があるか、僕にも千尋さんにも分からないのだから。

 だけど、これは心からの願いだ。嘘でも誇張でもなくて、最期の一瞬まで僕のことを覚えていてほしい。……覚えていられるほど近くで、一緒に居たい。

 あの日の僕は、『あの子』にそれを伝えられなかった。言いたかったはずなのにその機会は来なくて、結果的に『あの子』は僕の事を忘れて全く別の道を歩いている。……その結果僕は千尋さんと出会っているのだから、人生と言うのは何があるか分からないものだとつくづく思わされるけれども。

――もし同じことを『あの子』に言えていたら、僕は全く違う今を歩んでいるのだろうか。……『赤糸 不切』は、作家としての産声を上げているのだろうか。

 それは過ぎ去った時間の話で、あり得ない今の話で。こんなことを千尋さんの隣で考えることが失礼に当たることも、分かっている。だけど、それでも――

「――忘れないよ。忘れようとしたって、忘れられるわけがない」

「……千尋、さん」

 延々と巡り続ける思考を遮るかのように、千尋さんは力強い声で断言する。寝返りを打って千尋さんの方を見ると、慈愛に満ちた笑顔がそこにはあった。

「紡君も紡君が作る物語も、あたしにとってはとってもキラキラしてるんだもん。忘れることなんてないよ。……これからもずっと一緒なんだから、なおさら忘れることはないよね」

 いつもの明るい笑みとは違う優しい笑顔で、千尋さんは僕の頼みを肯定してくれる。温かくて優しくて、包み込まれるような感覚があって。

「……あ、れ……」

 その温かさを自覚した瞬間、胸の奥から目の奥に向かってせりあがってくるものがある。それはぽろぽろと流れ出して、借り物の布団を音もなく濡らしだした。

「おかしいな、どうして――」

 それがあふれ出す意味が分からなくて、僕は必死に目をこする。だけどそれでも涙がこぼれるのは収まらなくて、僕は困惑するしかない。そうして涙をぬぐい続けていた時、突然僕の身体は千尋さんの細い腕に引き寄せられた。

 一見すると華奢な腕だけど、寝落ちした僕を布団まで運んだだけのことはある。僕の身体はすぐに抱き寄せられて、柔らかい感触が顔に伝わる。……その直後、頭を撫でられるような感覚があった。

「……大丈夫。あたしは、ずっと一緒に居るよ」

「あ……あ、ああ」

 優しい千尋さんの言葉が、耳だけじゃなく触れ合った全身を通して僕の中に染みわたっていく。それは僕の記憶の痛みを覆い隠して、綿のように優しく柔らかい何かで包み込んでくれるようで。……その声を聴くたびに、心の奥に温かいものが灯るように思えて。

――僕はずっとこんな言葉を欲していたのかもしれない、と。

 そんなことを内心思いながら、僕は千尋さんに身を預けた。
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