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第百四十一話『千尋さんは踏み出したい』
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「あたしね、お姉ちゃんに聞きに行ったんだ。……あたしが小説を読めなくなる直前、何が起きてたのか」
「……え?」
そこから続けざまに衝撃の情報が飛んできて、僕は思わず絶句する。……それは、カスミさんが『絶対に千尋には伝えるな』とくぎを刺してまで守ろうとしたものだったはずだ。それを、自分から千尋さんは聞きに行ったというのか。
その時のカスミさんがどんな反応をしたのか、あまりにも克明に想像できてしまう。『千尋はそんなことを知る必要はない』と、『自分から傷つきに行く必要なんてない』と、きっと必死に止めたのだろう。だけど、それでも千尋さんは折れることはなかったらしい。
僕を見つめる千尋さんの眼は、少しも揺らぐことなく僕の方を射抜いている。……過去によって何かが揺らいだ人が出来る視線じゃないだろうなと、そう思えた。
「それで思い出したの、お父さんに何があったのか、どうして家族は離婚したのか……。それを聞いてから考えてみたら、お姉ちゃんが紡君に嫌な顔をしてたのもうなずける話でさ。何も知らなかったんだなあって、思ったんだ」
「そうだね。……あの時のカスミさんは、正直とてつもなくキツかったと思う」
あの時のカスミさんの中には、千尋さんを守りたいという思いと小説家を名乗る人間への純粋な嫌悪感が同居していたのだろう。そんなのが近くにいたらいずれ千尋さんが過去に触れてしまうかもしれないし、それが不用意に起きればまた大きな傷を負うことになってもおかしくない。リスクの塊、平穏な生活に入り込んできた異物。……それが、カスミさんにとっての僕だった。
「だよね、あたしもずっとおかしいとは思ってたんだ。……だけど、事情を知ったら文句は言えないなって思っちゃった。あたしは紡君のことが好きだけど、お姉ちゃんが苦手だって思う気持ちも理解できたんだよね」
少し上の方へ視線をやりながら、千尋さんはかすかに笑ってそう告げる。もう何年ここで灯ってきたかも分からない古びた蛍光灯が、時折明滅しながら僕たちを見下ろしていた。
「それでも、お姉ちゃんと紡君は仲良くなった――っていうか、普通の関係になってた。夏休みの少し前だったかな、紡君がお姉ちゃんのことも名前で呼ぶようになって。何かあったんだろうな―とは思ってたんだけど、ずっと分からないままだったんだよ」
「……ッ」
千尋さんがさらに一歩踏み込んだことを口にしてきて、僕は思わず息を呑む。でも同時に、『まあ伝わってるだろうな』というあきらめにも似た感情も僕の中に浮かび上がってきた。……だって、千尋さんがしているのは夏休み前の僕ととても良く似たことなんだから。
「紡君も、あたしに何があったか知ろうとしてくれてたんだって、お姉ちゃんがちょっと困った顔をしながら言ってたよ。『まさか千尋と同い年のヤツに説教される日が来るとは思ってなかった』って、今でも複雑に思ってるみたいだった」
「僕だってそりゃ複雑だったよ。……だけど、カスミさんの考え方が全部正しいわけじゃないって思っちゃったから。……だから、少し無理してでも聞かなくちゃいけないって思ったんだ」
「うん、分かってる。大丈夫だよ、責めるつもりなんてないから。……それに関しては、ほんとだったらもっと早くにあたしから説明するべきことだったわけだし」
視線を右往左往させる僕に微笑みかけて、千尋さんは軽く頭を掻く。千尋さんが責任を負う事なんて何もないはずなのだけれど、それでも千尋さんはそうやってあの時のことを受け止めているようだった。
「当時の話をお姉ちゃんから聞いた時ね、まるで復元されてるみたいにその当時の記憶がよみがえってきたの。どんなものを見たかも、それにどう思ったかも、どんなことを話したのかも。今まで忘れてたのがおかしいって思えちゃうぐらいに、その記憶は鮮明にあたしの中にあった」
そう言うと千尋さんは目を瞑り、胸にそっと手のひらを置く。『記憶はちゃんと残ってる』と、そう言いたげな仕草だった。
「それでね、思ったんだ。たとえあたしの過去に暗いものがあったんだとしても、仲のいい友達にはそれを全部知っててほしい。そういうのもあって今のあたしがいるんだよって、恥ずかしがることなくちゃんと言いたい。……だから、あたしは犀奈に小説のことを話したいの」
――ダメ、かな。
一番伝わる言葉を選択しながら、千尋さんは僕の眼をじっと見つめて改めて頼み込んでくる。それはとてもまっすぐに僕の心まで届いて、じんわりと広がって。……その決意を咎める権利なんて、僕が持っているはずもないわけで――
「分かった。……千尋さんがそうしたいなら、俺は全力で尊重するよ」
悩む時間などほぼなく、僕はそう答えを返していた。
「……え?」
そこから続けざまに衝撃の情報が飛んできて、僕は思わず絶句する。……それは、カスミさんが『絶対に千尋には伝えるな』とくぎを刺してまで守ろうとしたものだったはずだ。それを、自分から千尋さんは聞きに行ったというのか。
その時のカスミさんがどんな反応をしたのか、あまりにも克明に想像できてしまう。『千尋はそんなことを知る必要はない』と、『自分から傷つきに行く必要なんてない』と、きっと必死に止めたのだろう。だけど、それでも千尋さんは折れることはなかったらしい。
僕を見つめる千尋さんの眼は、少しも揺らぐことなく僕の方を射抜いている。……過去によって何かが揺らいだ人が出来る視線じゃないだろうなと、そう思えた。
「それで思い出したの、お父さんに何があったのか、どうして家族は離婚したのか……。それを聞いてから考えてみたら、お姉ちゃんが紡君に嫌な顔をしてたのもうなずける話でさ。何も知らなかったんだなあって、思ったんだ」
「そうだね。……あの時のカスミさんは、正直とてつもなくキツかったと思う」
あの時のカスミさんの中には、千尋さんを守りたいという思いと小説家を名乗る人間への純粋な嫌悪感が同居していたのだろう。そんなのが近くにいたらいずれ千尋さんが過去に触れてしまうかもしれないし、それが不用意に起きればまた大きな傷を負うことになってもおかしくない。リスクの塊、平穏な生活に入り込んできた異物。……それが、カスミさんにとっての僕だった。
「だよね、あたしもずっとおかしいとは思ってたんだ。……だけど、事情を知ったら文句は言えないなって思っちゃった。あたしは紡君のことが好きだけど、お姉ちゃんが苦手だって思う気持ちも理解できたんだよね」
少し上の方へ視線をやりながら、千尋さんはかすかに笑ってそう告げる。もう何年ここで灯ってきたかも分からない古びた蛍光灯が、時折明滅しながら僕たちを見下ろしていた。
「それでも、お姉ちゃんと紡君は仲良くなった――っていうか、普通の関係になってた。夏休みの少し前だったかな、紡君がお姉ちゃんのことも名前で呼ぶようになって。何かあったんだろうな―とは思ってたんだけど、ずっと分からないままだったんだよ」
「……ッ」
千尋さんがさらに一歩踏み込んだことを口にしてきて、僕は思わず息を呑む。でも同時に、『まあ伝わってるだろうな』というあきらめにも似た感情も僕の中に浮かび上がってきた。……だって、千尋さんがしているのは夏休み前の僕ととても良く似たことなんだから。
「紡君も、あたしに何があったか知ろうとしてくれてたんだって、お姉ちゃんがちょっと困った顔をしながら言ってたよ。『まさか千尋と同い年のヤツに説教される日が来るとは思ってなかった』って、今でも複雑に思ってるみたいだった」
「僕だってそりゃ複雑だったよ。……だけど、カスミさんの考え方が全部正しいわけじゃないって思っちゃったから。……だから、少し無理してでも聞かなくちゃいけないって思ったんだ」
「うん、分かってる。大丈夫だよ、責めるつもりなんてないから。……それに関しては、ほんとだったらもっと早くにあたしから説明するべきことだったわけだし」
視線を右往左往させる僕に微笑みかけて、千尋さんは軽く頭を掻く。千尋さんが責任を負う事なんて何もないはずなのだけれど、それでも千尋さんはそうやってあの時のことを受け止めているようだった。
「当時の話をお姉ちゃんから聞いた時ね、まるで復元されてるみたいにその当時の記憶がよみがえってきたの。どんなものを見たかも、それにどう思ったかも、どんなことを話したのかも。今まで忘れてたのがおかしいって思えちゃうぐらいに、その記憶は鮮明にあたしの中にあった」
そう言うと千尋さんは目を瞑り、胸にそっと手のひらを置く。『記憶はちゃんと残ってる』と、そう言いたげな仕草だった。
「それでね、思ったんだ。たとえあたしの過去に暗いものがあったんだとしても、仲のいい友達にはそれを全部知っててほしい。そういうのもあって今のあたしがいるんだよって、恥ずかしがることなくちゃんと言いたい。……だから、あたしは犀奈に小説のことを話したいの」
――ダメ、かな。
一番伝わる言葉を選択しながら、千尋さんは僕の眼をじっと見つめて改めて頼み込んでくる。それはとてもまっすぐに僕の心まで届いて、じんわりと広がって。……その決意を咎める権利なんて、僕が持っているはずもないわけで――
「分かった。……千尋さんがそうしたいなら、俺は全力で尊重するよ」
悩む時間などほぼなく、僕はそう答えを返していた。
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