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第百六十一話『千尋さんとすごい人』

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「あ、そろそろ私の出番みたいだね。それじゃあサクッと済ませてくるよ」

 こちらに戻ってくる千尋さんに入れ替わるようにして、セイちゃんが今度は採寸に向かって行く。さっき僕に話してくれたことの真意は結局聞けずじまい、多分この先も聞くことはないんだろう。

「……うう、ようやく終わったー……」

 それよりも、今はこちらに近づいてくる疲れ切った様子の千尋さんの事を考えるのが先決だ。ちゃんと想いを示すのが大事だって、セイちゃんが今しがた教えてくれたばかりだし。

「千尋さん、何か変なことされなかった……?」

「うん、変なことはされてないかな。だけどまあ、皆して周りをぐるぐるぺたぺたされるとあたしもつられてなんか落ち着かなくなっちゃって……」

 教室の壁にぐったりともたれかかりながら、千尋さんは力ない笑みを浮かべる。それが嫌だったとかそういうのではなくて、多分純粋に疲れ果ててしまったんだろう。

 人込みの中は前から苦手そうだったし、多分今のも相当きつかったんだろうな……。どうにかこっちから助け船が出せればよかったんだけど、採寸途中に異性が割り込みに来るのもそれはそれで大問題って奴だろう。

「ごめんね、外から見てることしかできなくて」

「いいよいいよ、皆も演劇に真剣になってくれたってことだからね。あたしたちの演技と紡君の脚本、その全部が『いいものだね』って認めてくれたからこうなってるわけだし」

 うんうんと首を縦に振りながら、千尋さんはクラスのあちこちで進んでいく作業を見つめる。女子が採寸に当たっている間男子は必要な小道具の計算をしたり設計に映っていたり、皆して本格的に動き出しているという雰囲気が一気に濃くなっている。

「セイちゃんにも言ったけど、ほとんど千尋さんとセイちゃんの演技が良かったからだと思うんだけどねー……。僕の脚本は二人に合う役を考えて物語をくっつけただけだし」

「それがすごいことなんだよ紡君、あたしには絶対にできないことだからね?」

 僕の返答に千尋さんは口をとがらせ、少しばかり不満げな様子を見せる。千尋さんもなんだかんだ文化祭前の雰囲気に影響されているのか、そのまま千尋さんは少し叱るような口調で続けた。

「あたしが言えたことじゃないと思うんだけどさ、紡君は自己評価が低すぎるんだよ。クラスの皆も大概紡君のことを勘違いしてるけど、やっぱり一番勘違いしてるのは紡君。……自分じゃ気づいてないかもしれないけれど、紡君はあたしにとって誰よりも凄い人なんだから」

「そう……なの、かな?」

 千尋さんがそう言ってくれるのは嬉しいけれど、今一つ僕が凄いのかと言われると何とも云いきれないのが現状だ。僕が頑張れたのはいつだって周りの人たちのおかげで、そうじゃなかったら僕はもうとっくに折れていた。今僕が凄いって言葉をもらえるのなら、それは僕の周りにいてくれた凄い人たちのおかげなんだろう。もちろん、千尋さんだってその一人なわけで。

「凄いよ、凄くないわけがないよ。だってあたし、今までで一番文化祭のことを楽しみにできてるもん」

 まだ半信半疑の僕に笑いかけて、千尋さんははっきりとそう断言する。……その横顔に、僕はまた息を呑んだ。

 散々自分はそうじゃないみたいなことを考えておきながら、僕もこの雰囲気に影響されているのだろうか。なんだかいつもより、気持ちが素直に前に出てくるような気がする。

「犀奈と紡君がたくさん準備と手助けをしてくれて、あたしも主役になっていいんだよって言ってくれて。そうやってできた映像を、皆が『凄い』って言ってくれる。……あたしからしたら、夢みたいな光景なんだよ?」

「……そっか。そうだよね」

「そうなの。そのきっかけを作ってくれたのは紡君なの。……そこまで言えば、紡君もじぶんが凄いんだって納得してくれる?」

 僕の方をまっすぐ向き直り、疲れなんて忘れたような様子で千尋さんは熱弁する。いつも以上に前飲めりなその熱量が、なんだかいつもより素直に胸の中に沁み込んでいくような気がして。

「……ありがとうね、千尋さん」

「お礼を言うのはあたしの方だよ、紡君。凄い人は凄い人らしく、『僕は凄いんだぞ』って胸を張っていいんだから」

 口を突いて出たお礼に千尋さんは楽しそうに笑って、再びのんびりと壁にもたれかかる。そこまで言われると、僕も流石に認識を改めざるを得ないわけで――

「そうだね。……脚本家として、胸を張ることにするよ」

 そう答えながら、千尋さんに並んで壁にもたれかかった。
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