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 気が付くと、心配そうな表情の弥子先生の顔があった。
「大丈夫?」
「ゴホッゴホッゴホッ!」
 大丈夫です──と言いかけて、わたしは激しく咳き込んだ。
「はあ、はあ、はあぁぁぁぁっ~。だ、だいじょうぶです」
 やっと一息つけて、肺に新鮮な空気を送り込む。
 ああ、生きてて良かった。
「すぐに引っ張りあげたから、大したことはないと思うけれど……。保健室、行かなくて大丈夫?」
 厳しい表情を崩し、弥子先生は優しい顔で訊ねてくれた。
「すみません。多分、大丈夫です」
 弥子先生が見ていてくれたことも幸いしたらしい。
 おぼれていたのは、ほんの数秒間のことだったみたいだ。
「ヨシ、ヨシ。泳ぎはどうしようもないけれど、根性だけは誉めてあげる」
 弥子先生はそういうと、わたしの背中をポンポンと叩いた。
 だけど、そのわたしの背中にキツい一言を浴びせる別の声がした。
「ホント、良かったわ。不祥事は困るのよね。みんなインハイには出たいんだし」
 わたしは思わず振り返った。
 同じ学年の明原美森さんだ。
 一年でもトップのタイムを出している期待の新人はどういうわけだか、事あるごとにわたしに突っかかってくる。
「こーら、明原。みんながいる前で、そう言う発言をすると株が下がるだろ? お前の」
 ぽんと頭をはたきながら弥子先生がたしなめる。
 気が付くとわたしの周りには、他の水泳部員達が集まって来ていた。大注目状態だ。
 と、いうことは──。
「とにかく無事でよかったね」
 やっぱり!? 一之瀬先輩だ!
 わたしは小さくなるしかなかった。
「本当に保健室、行かなくて大丈夫?」
 優しい言葉に、胸がドキドキしてくる。
 あー、だめだ。
「い、いえ、大丈夫ですから」
 わたしは取り繕うように返事をした。でも、それは全然うそっぱちだ。
 ──大丈夫なもんですか。
 先輩の目の前でこんな大失態。今すぐにでもそこの排水溝から流れてしまいたい。
「先輩。泳げないのに水泳部に入るって、非常識ですよぉ」
 ひっどい! 明原さんが追い討ちを掛けてきた。
 だいたいわたしが入部したのは先輩がすすめてくれたからで──。
 そこまで考えて、わたしは自分の思い上がりに気が付いてがっくりした。
 そうだ、強化選手の一人である先輩も、明原さんと同じように迷惑を感じているに違いない。
「そんなことはないよ、明原さん」
 先輩の言葉に、わたしは驚いて顔を上げる。
「キミも始めて泳げたときは楽しくなかった? 誰でもうまく泳ぎたいって気持ちを持つことは悪いことなんかじゃないよ」
 先輩は少しだけ困ったような顔をしながら、こちらを向いて頬笑んでくれる。
 ああ、昇天。やっぱり先輩は最高です。
 わたしは感動に胸を詰まらせながら、先輩に精一杯の笑顔を……。
「一之瀬! 明日の計測順だけど見てくれないか?」
「はい! 今行きます」
 男子顧問の先生の声に先輩は大きく返事をすると行ってしまった。
 ──無念。
「ふん。まあ、明日の記録会ではせいぜい笑ってあげるから、がんばることね」
 そう云うと明原さんは、踵を返して更衣室のほうに歩いて行く。
 それを合図に、わたしを取り巻いていた輪は解けた。
 あとには、がっくりしているわたしだけが取り残こされた。

 確かに明原さんから見れば、わたしなんてプールに浮く木の葉のようなものなのだろう。
 邪魔に思える気持ちは判らなくはない。
 でも、それにしたって言い方ってものが………って、記録会?!
 彼女の言葉にわたしは、忘れたくて忘れていた記録会のことを思い出した。
 明日は、インハイの地区予選に出場する選手を決める記録会があるのだ。
 もちろん、わたしなんか論外だけれど、記録そのものは全部員測る事にはなっている。
「退部の話、しわすれた」
 慌てて周りを見回すが、弥子先生はもう居ない。
 わたしは、死ぬような思いをしてまで決心したことを伝えるタイミングを逃してしまったていた。
 退部の話は出来れば記録会の前にしたかったんだけど……。

 一人、取り残されたわたしはさっきの先輩の言葉を思い出した。
 ──うまく泳ぎたいって気持ちを持つことは悪いことじゃない。
 先輩の言葉に応えられそうにない自分と、ここまでがんばってきた自分を見てもらいたい気持ちがぐるぐるする。
 5メートルも泳げなかったわたしが、何とか25メートル泳げるようになったのは先輩のおかげだと思う。
 ああ、我ながらなんて不純な部員なんだろ?
 もう、いいや。明日の記録会で、華々しく散ろう。
 退部届はその後でも。
 記録より、記憶に残るんだ(先輩の)。
 そう決心すると、わたしは、気持ちがくじけないようにプールを視界から外し、更衣室に向かった。
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