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 お父さんが部屋に戻るのをじっと待つ。
 ……1分、……2分。
 静かになった脱衣所。扉をすこしだけ開けて確認する。
 ――誰も居ない。
 今のうち! 早く自分の部屋に戻らなきゃ! 考えるのはその後だ。
 わたしは、隙間からタオルかけにかかっているバスタオルを取ろうと手を伸ばした。
 いつもなら脱衣場で体を拭くんだけれど、誰か脱衣所に入ってこないとも限らない。
 ん――!
 黄色い手を目一杯伸ばす、だけど、あとちょっとが届かない。
 ところが――
 もどかしさに舌打ちをしようとした瞬間に、わたしの手にはバスタオルが握られていた。
 へ?
 一瞬の事に何が起こったのか良くわからない。
 バスタオルを握りながら、今起こった事を考えた。
 判らないものは判らない。
 何か見たような気もするけど……。ま、いっか。
 悩むことは、向いていない。とにかく今はつっこみ入れてる場合じゃない。
 体を拭いてパジャマを着ると、深呼吸。
 音がしないようにスリッパを手に持って、廊下に出た。
 なんだか脚が床に吸い付くようで、いちいちペタペタ音がする。
 ――スリッパ脱いだ意味ないじゃん。

 自分の部屋は2階にある。万が一を考えて、廊下の明かりは消したまま。
 今、家族の誰かと鉢合わせしたらどうしよう?
 どくん・どくんと、鼓動だけが早くなる。
 手探りで両親の寝ている寝室の前を通り、階段を上がって妹の部屋の前。
 ──よかった。妹ももう寝ているようだ。
 そーっと、そーっとハンドル押し下げて……。
 パタン。
「はあ~っ」
 やっと、安心できた――っ。
 しっかり鍵を掛けて、明かりをつけると目の前の窓に、自分の姿が映っていた。
 やばっ!
 わたしは慌ててカーテンを閉めた。

 窓に映った姿は、紛れなく自分だった──緑色の。
 もしも、これから先、わたしの体がずっと緑色だったらどうしよう。
 頭の中では、見世物小屋に入れられている自分や解剖される自分など怪しい妄想でいっぱいになる。
 あー、馬鹿馬鹿しい。アホな妄想に自分でもうんざりとなる。
 とにかく今の状況をよく確かめないと。
 そう。こういうときは落ち着きが必要だ。

 わたしは姿見の前で着ていたパジャマを脱いだ。
 写った姿にため息が出る──小さい胸にげんなり、ってそこじゃない。
 鏡の前で一回転。
 体型は変っていないようだけれど、わたしの体はどう見ても人間のそれではなくなっている。
「アマガエル……」
 自分に判決を下す裁判官のように、つぶやいた。
 鏡に移っている生き物は、庭先で良く見かける可愛らしい生き物そっくりだった。
 両手脚は黄色く、そして二の腕やすねには茶色のボーダー模様が入っている。
 ニーソとハンドウオーマー――には見えないよね。
 わたしは最初に変身した両手をもう一度まじまじと観察した。
 指先の爪はなくなっていて、替わりにお団子のようなものがくっついている。
 これじゃあ、ネイルアート出来ないよー。
 休みの日の唯一の楽しみなのに。ちょっとショックだ。

 正面から見るおなかは、真っ白で滑らかだ。
 わき腹の黒い線をはさんで背中は、鮮やかな黄緑色で染められている。
 バスタオルでよく拭いたはずなのに、皮膚はしっとりすべすべした質感がある。
 カエルって、両生類だよね?
 意外だったのは、わたしがまだ哺乳類の一員であることだけは確からしい。
 その証は、おなかの中心の穴が語ってくれている。
 最後の砦が守れたようで、わたしはなんだかほっとした。
 そう言う意味では、完全なカエルと言うわけではないようだった。

 だけどなにより、どうしても気になるのは、顔だった。
 鏡に顔を近づけて、自分とにらめっこをする。
「ケロケ~ロ」
 自虐的にかえるの鳴きまね。

 覚悟はしていたのだが、やはりため息が出る。
 鼻先から目頭、目尻から耳元へと黒いスジがよこ一文字に入っている。
 あごからのどや、目の周りは、少し明るい黄色をしている。天然のアイシャドウに見えなくない。
 ウインクしてみてもやっぱり、緑色の派手な色合いはどう見てもアマガエルのそれにしか見えない。
 でも、本当にわたしが気に入らないのはそこじゃない。
 確かに今のわたしの顔はカエルにしか見えない。
 ところが目鼻立ちなどの、顔のつくりはほとんどと言っていいほど変っていなかった。
 認めたくは無いけれど、認めざるを得ない。
 そう、わたしはもともとカエル顔なのだ。
 目がパッチリしているのは自慢なんだけど、横一文字に結んだちょっと大きめの口は、庭の隅の信楽焼きのカエルそっくり。
 だから、クラスでのあだ名は「ビッキー」
 どこかの方言で、「ビツキ」はカエルの事なんだって。
 水泳部の人(主に先輩)にはナイショなんだけどね。泳げないのにカエルっぽいあだ名なんてシャレにもならない。

 なのに、今はかえって運命的なこの現状。
 ──ぐすん。全然嬉しくない。

 パタン。
 一通り自分の体の観察を済ませると、わたしはベッドに倒れ込んだ。
 ホント、どうしよう?
「コスプレに見えてくれないかなあ?」
 いや、それは無理だろう。どう見たってそれ以上のリアルさがある。
 いっそのことこの部屋から出ないまま──とも思ったけれど、雨の休日でも外に出るようなアウトドア派のわたしには、引きこもり生活なんて出来そうにもない。

 そもそも、普通の・・・女子高生のアマガエルに関する知識なんてたかが知れている。
 庭先で庭木に水をあげるときにお目にはかかるが、じっくり観察するのなんて今が始めてだ。
 ――本物じゃなくて自分を観察?
 なんだか、自分でやっていることにクスリと笑ってしまう。
 笑いながらも、不思議に思う。なぜだか自分自身あまり悲観的になっていない。
 これでいい! と思ってしまう何かがあるのだ。
 もともと能天気なキャラなのは自覚しているけど、なんでなんだろうねえ?

 寝転びながらいろいろ考える。
 どうも一人で考えるのは限界があるなあ。
 かといって、今、家族にこの姿を見せたくはない。なんと言うか想像が出来ない。
「あ、そーだ。幾野《いくの》理香りか!」
 そこで、わたしはカエルに詳しそうな人物を思い出した。

 幾野理香は同じクラスの友達だ。
 ちょっと変わっているけれど。動物好きで生物部員だって言うから、最初に相談するには悪くないように思えた。
 わたしはスマホを手に取ると、その生物部員に電話をかけた。

「夜中にゴメン」
『ふああ? ビッキー?』
「うっ!」
 もう寝ていたらしい理香は、タイムリーなあだ名でわたしを呼んでくれる。
 そう言えば、ビッキーと言うあだ名を考えたのはそもそもコイツだった。
『人を動物にたとえると』ってのを実践し、周りの人間に片っ端から動物あだ名をつけて回っていたっけ。
 ちょっと不安がよぎるけど、不名誉なあだ名は奇しくも当たったわけだから、やっぱり相談相手には適任なんだろう。
 わたしは、彼女に今日のこれまでの事を一生懸命説明した。
 だけど……
『ごめん、わたしが付けたあだ名、そんなに嫌だった?』
 一通り話し終わって返ってきた答えがこれだった。
「……もしかして、信じてないの?」
『そりゃ、まあね。一応これでも科学の徒、生物部員ですから』
 根拠になっていないような気もするけど、信じられないというのは良く判る。
 実際にこの目で見ないとこの現状は理解できないに違いない。
 あ、そうだ。
「じゃあ、写真送る」
 実際に目で見てもらうのが一番だろう。わたしは意を決して写真を送ることにした。
『おーそりゃいい。早く送ってみ」
 わたしは一端通話を切ると、レンズの前で神妙な顔つきをした。
 パシャ。
 撮れた写真は、カエルの照明写真という珍妙な出来の代物だ。
 なんだこりゃ?
 まあ、いいや送ろう。

 ブーブーブー
 わたしが写真を送って、ものの十秒も立たないうちに、スマホが震えた。
『これ、アプリじゃないよね!? すごい!! なに面白そうなことになっているの?』
 スマホに耳をあてなくても聞こえる大声。
 そんなに面白いか? 喜ばせてしまったようでなんだか悔しい。
「あー、はいはい」
 わたしは相手にはっきりわかるあきれ声で返事をする。
『信じられない! 手とかどうなっているの? 足は? お腹は?』
 そんなわたしを無視するかの様に、理香は矢継ぎ早に質問をした。
 うるさいったら。
「指先が丸くなってて、なんだろこれ?」
 説明が苦手なのがもどかしい。
『ああ、良く判らないからもう一枚、写真、送ってよ』
 今度は理香がイライラしているようだ。
『うん、そうだねえ。手も見えるようにして、あ――そうだ! 顔の横で指二本たてて。それから、片目はつぶって。バンバンジーっていいながら撮るように』
「はあ?」
 わたしは、言われたポーズで写真を送る。

『かわいいっ! 早速待ち受けに使わせてもらうね。』
「ひどっ! こんなときに。少しは心配しろよぅ」
『気付いてたクセに、ナニ言ってんだか……。なんだよ、この横ピースは』
 バレたか。(バレるわ!)
「う、うすうすよ、うすうす気づいてただけ……ッ? う……」
 理香に抗議しようとしたところで、急に体に異変を感じた。
 この感じは。さっきお風呂場で感じたさざ波……!?
「くぅっ」
 ぞわぞわしたあの感覚が体を駆けめぐる。
『ちょっとビッキー! 大丈夫?』
 スマホの向こうで、理香が心配の声をあげている。
 あ、一応は心配してくれるんだ。
 わたしは、奇妙な感覚に耐えながら、能天気に考えた。
 今度はいったいどうなっちゃうんだ? わたし。

 時間にして数秒間。カエルになったときと同じくらいの時間のあと。
「はあ、はあ、はあ」
『ど、どうしたの?』
 スマホから理香の声が聞こえる。わたしは見たまんまを答えた。
「人間に……もどった」
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