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歪んだ鏡
1. 変わり者の眼医者
「変人なのよ。何か足りてないの」
診療終わりの控室にて、笑いながら看護師長は言った。軽い嗜め混じりの同調をその反応として迎え得意気な彼女の表情を見て、新入りの私はこの眼医者における先生とそれ以外との関係性を知った。
「そりゃ若いし腕は立つ。優秀なのは認めるわ。でも⋯⋯」
冗長に続く話を聞き流し、適当に話を切り上げ控室を出る。そしてしばらく歩いた出入り口付近にて、私は鏡に寄り添う人影を見た。
白衣に包まれたスラリとした長身。向けられた背中は猫背気味で、夕日に透けてしまいそうな儚い印象を与えた。
「先生」
私は自分の言葉でこの人を測ろうと思った。
「何をしているんですか?」
「考え事だよ」
「⋯」
「いやごめん、邪魔だよね。すぐ部屋に戻るよ」
そういって振り返った表情は、患者に接する時に見せる柔和なものだった。
「先生」
「?」
「いいんですか? 散々な言われようですよ」
「参ったな」
本当は、どうでもいいんだろうな。
「新入りの私の前で先生のことを悪く言うんです。医院自体が健全ではなく、患者さんに悪影響です」
「僕が悪いんだ」
「そう言うと思いました」
私達の視線は鏡越しに交差していた。
「気になるのは、これだよね」
そう言って先生は歪んだ鏡面に触れる。一般的な姿見と同じ大きさだが凹状であり、おまけに中心部には強引にかき混ぜられたような螺旋の跡がある。眼科に限らず、およそ人の出入りする場には相応しくない代物だ。
みんな薄気味悪いと思って聞いてこない。新入りの君にだけ話すよ。そう前置きした先生は、その歪をなぞりながら静かに語り始めた。
2. 歪んだ鏡
父がこの鏡を買って来たのは、僕がまだ物心のついていない幼い頃のことだった。
「どうして買ったの?」父はこう答えた。「妻の姿が映ったんだ」
そういって父は鏡に、まるでそこに意中の女性が佇んているような恭しさで近づいた。「疲れていたんだろうな。今は何も見えない」
しばらく父はその場を離れなかった。鏡の中では僕と父の像が混然とし、差し込む光に揺れていた。
その後、父がその鏡に自分以外の像を認めたかどうかは分からない。食事も十分に取らず、取り憑かれた様に鏡面を磨いては亡き人を夢想していた。そして三年後の春、学校から帰ると父は死んでいた。その日は学校で理科の授業があった。その内容を、今でもハッキリと覚えている。
「私達の瞳、つまり眼球も鏡と同じ様に光を反射し、像を形成しているんですよ」
水晶体を経た光線の焦点が黄斑で結ばれ、視細胞へ情報が伝わる。専門として学んだ今でこそ自然に理解できる説明だが、当時は自分の瞳が鏡に似たメカニズムを備えていると言われ困惑したものだった。
「瞳についてこんな話があります」
その先生は小学生相手に小難しくも興味深い話をする人だった。
「目の外側には角膜と呼ばれる光を屈折させる部分があり、目の病気にかかった人はそこを移植することが多々あります。昔その手術をしたあとに、視界に常にある男性が映るようになった女性がいました。女性は何かの啓示だと感じ、その男性を探しました。しかし苦心の末探し当てたその男性は、移植前の角膜の持ち主を殺した犯人だったのです。死の寸前、瞳に焼き付けられた像が角膜に残っていたんですね」
僕はあの鏡と父のことを思い出しながらその話を聞いていた。
「ものを見るという経験を、皆さんは当然の事のように受け入れています。しかし目に見えるもの全てを正しいと盲信することは、危険なことでもあります。ほんのわずかなきっかけで、私達の目は現実とは違う像を認識し得るのですから」
帰り道、水張りされた田んぼに反射する夕陽を眺めた。暮れなずむ情景が、あの鏡に映った様におぼろげだった。一方で帰宅後に見た父の死体は何よりも鮮明で、僕は瞳にその像が焼き付くことを恐れ目をそらした。
「⋯⋯⋯⋯」
その視線の先に鏡はあった。差し込んだ夕陽が歪みに溶け込み、僕の目には今まで何の実像も認め得なかった鏡面に、ハッキリと2人の男女の姿が映った。父と母だった。寄り添う2人は幸せそうに互いの手を絡め、僕に向かって片方の手をお別れの様に振った。
「⋯⋯それ以降、この鏡には何も映らなくなった。でも僕は思うんだ。父がこの鏡を初めて見た時の様に、またいつかこの鏡に2人の姿が映るんじゃないかって」
「⋯⋯⋯⋯」
「なんてね。全部嘘だよ。こんなことを大真面目に語ったら眼科失格だ」
さ、日誌書こっと。そういって先生は鼻歌交じりに去っていった。
朱色混じりの廊下に一人佇む私。誰かの視線を感じて横を向くと、そこには鏡面を蜷局の様に蠢かす、一枚の歪んだ鏡が置かれていた。
「変人なのよ。何か足りてないの」
診療終わりの控室にて、笑いながら看護師長は言った。軽い嗜め混じりの同調をその反応として迎え得意気な彼女の表情を見て、新入りの私はこの眼医者における先生とそれ以外との関係性を知った。
「そりゃ若いし腕は立つ。優秀なのは認めるわ。でも⋯⋯」
冗長に続く話を聞き流し、適当に話を切り上げ控室を出る。そしてしばらく歩いた出入り口付近にて、私は鏡に寄り添う人影を見た。
白衣に包まれたスラリとした長身。向けられた背中は猫背気味で、夕日に透けてしまいそうな儚い印象を与えた。
「先生」
私は自分の言葉でこの人を測ろうと思った。
「何をしているんですか?」
「考え事だよ」
「⋯」
「いやごめん、邪魔だよね。すぐ部屋に戻るよ」
そういって振り返った表情は、患者に接する時に見せる柔和なものだった。
「先生」
「?」
「いいんですか? 散々な言われようですよ」
「参ったな」
本当は、どうでもいいんだろうな。
「新入りの私の前で先生のことを悪く言うんです。医院自体が健全ではなく、患者さんに悪影響です」
「僕が悪いんだ」
「そう言うと思いました」
私達の視線は鏡越しに交差していた。
「気になるのは、これだよね」
そう言って先生は歪んだ鏡面に触れる。一般的な姿見と同じ大きさだが凹状であり、おまけに中心部には強引にかき混ぜられたような螺旋の跡がある。眼科に限らず、およそ人の出入りする場には相応しくない代物だ。
みんな薄気味悪いと思って聞いてこない。新入りの君にだけ話すよ。そう前置きした先生は、その歪をなぞりながら静かに語り始めた。
2. 歪んだ鏡
父がこの鏡を買って来たのは、僕がまだ物心のついていない幼い頃のことだった。
「どうして買ったの?」父はこう答えた。「妻の姿が映ったんだ」
そういって父は鏡に、まるでそこに意中の女性が佇んているような恭しさで近づいた。「疲れていたんだろうな。今は何も見えない」
しばらく父はその場を離れなかった。鏡の中では僕と父の像が混然とし、差し込む光に揺れていた。
その後、父がその鏡に自分以外の像を認めたかどうかは分からない。食事も十分に取らず、取り憑かれた様に鏡面を磨いては亡き人を夢想していた。そして三年後の春、学校から帰ると父は死んでいた。その日は学校で理科の授業があった。その内容を、今でもハッキリと覚えている。
「私達の瞳、つまり眼球も鏡と同じ様に光を反射し、像を形成しているんですよ」
水晶体を経た光線の焦点が黄斑で結ばれ、視細胞へ情報が伝わる。専門として学んだ今でこそ自然に理解できる説明だが、当時は自分の瞳が鏡に似たメカニズムを備えていると言われ困惑したものだった。
「瞳についてこんな話があります」
その先生は小学生相手に小難しくも興味深い話をする人だった。
「目の外側には角膜と呼ばれる光を屈折させる部分があり、目の病気にかかった人はそこを移植することが多々あります。昔その手術をしたあとに、視界に常にある男性が映るようになった女性がいました。女性は何かの啓示だと感じ、その男性を探しました。しかし苦心の末探し当てたその男性は、移植前の角膜の持ち主を殺した犯人だったのです。死の寸前、瞳に焼き付けられた像が角膜に残っていたんですね」
僕はあの鏡と父のことを思い出しながらその話を聞いていた。
「ものを見るという経験を、皆さんは当然の事のように受け入れています。しかし目に見えるもの全てを正しいと盲信することは、危険なことでもあります。ほんのわずかなきっかけで、私達の目は現実とは違う像を認識し得るのですから」
帰り道、水張りされた田んぼに反射する夕陽を眺めた。暮れなずむ情景が、あの鏡に映った様におぼろげだった。一方で帰宅後に見た父の死体は何よりも鮮明で、僕は瞳にその像が焼き付くことを恐れ目をそらした。
「⋯⋯⋯⋯」
その視線の先に鏡はあった。差し込んだ夕陽が歪みに溶け込み、僕の目には今まで何の実像も認め得なかった鏡面に、ハッキリと2人の男女の姿が映った。父と母だった。寄り添う2人は幸せそうに互いの手を絡め、僕に向かって片方の手をお別れの様に振った。
「⋯⋯それ以降、この鏡には何も映らなくなった。でも僕は思うんだ。父がこの鏡を初めて見た時の様に、またいつかこの鏡に2人の姿が映るんじゃないかって」
「⋯⋯⋯⋯」
「なんてね。全部嘘だよ。こんなことを大真面目に語ったら眼科失格だ」
さ、日誌書こっと。そういって先生は鼻歌交じりに去っていった。
朱色混じりの廊下に一人佇む私。誰かの視線を感じて横を向くと、そこには鏡面を蜷局の様に蠢かす、一枚の歪んだ鏡が置かれていた。
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