ある伯爵と猫の話

秋澤えで

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本編

氷伯爵の猫

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 私には、とても大切な方がいます。
 その方は重々しい足音を響かせ、月のような銀糸を結わえ、冬の湖のような冷たく深い目をしていました。口はいつもムスリと結ばれていて、使用人や部下たちが言葉もなく恐れている、そんな方でした。そんな方でしたが、わたしを見る時だけは、目元を緩めゆるりと口角を上げて名前を呼ぶのです。


 「ぱいにゃん。」


 音楽隊のバストロンボーンのような声に似合わず、柔らかく跳ねるように私の名前を呼びました。
 ぱいにゃん、それは私を拾ってくれた彼が付けてくれた名前でした。誰からも何とも呼ばれることのなかった私は、痛いほどに冷たい雪にふられる夜、彼に拾われました。革の手袋を外して、雪にまみれる私を拾い上げてくれました。暖かい、大きな手でした。
 彼は私にたくさんのものをくれました。名前、ごはん、屋根、皆が話す言葉、知識。
 この世界がとても広いことを知りました。寂しさばかりだった寒い夜に、朗々とした月の明かりを知りました。人々が紡ぐ、鮮やかな物語を知りました。誰かから言葉を掛けられ、慈しまれることを知りました。
 言葉や話せない私に、彼はとても優しくしてくれました。諦めることも、あきれることもなく、私だけが知っている微笑を浮かべてたくさんの知識をくれました。
 彼に親い人が、拾った私に飽きることなく構うことをよく思っていないことは知っています。

 「馬鹿なことを」
 「無意味な……、彼は何を考えていらっしゃるのか。」

 愚かであると嗤います。無意味であると顔をしかめます。そして時折向けられる視線に怯えるようにそそくさと目を逸らすのです彼らはきっと知らないでしょう。彼のしてくれたことがどれほど私の糧になっているのか。芽吹いた緑に水をやるように、惜しげもなく私に言葉をかけてくれる。それでも私は、それを誰に伝えることもできません。
 感謝の声も出せません。共感を示すこともできません。静かに悲しんでいるであろう彼を慰めることもできません。
 ああ、伯爵様。
 何も言えなくてごめんなさい。

 「ぱいにゃん?」

 柔らかく温かく呼びかける声に、なんと答えましょうか。
 お慕い申し上げます、伯爵様。

 「にゃあ、」

 ああ、なんてまどろっこしいことでしょうか。
 私は言の葉も紡げぬ、ただの猫なのでございます。 
 たくさんのものを私に与えてくださり、助けてくださった私にとって、神様のような方なのです。
 お屋敷の方々は、この方の優しさを温かさを知りません。
 どうかいつか、クラウス様のすばらしさを皆が知る日が来ることを願っています。



**********



 はるか遠い日のことになりますが、私には母と3匹の兄姉がおりました。皆母に似て真っ白な毛と高い空のような青い目をしていたことを覚えています。兄姉にはよく遊んでもらい、母には生きるのに必要なことを教えてもらっていました。時に食べるものに困ることもありましたが、家族で身を寄せ合いながら慎ましく生活しておりました。しかしそんな生活が終わってしまったのは、本当に私の不注意のせいでした。
 母が食べ物をとりに行っている間、兄姉たちとかくれんぼをしていたのです。1匹の兄が鬼をして、もう1匹の兄と姉、それから私は身を隠しておりました。兄は木の上へ、姉は垣根の根本へ、そして私は近くに置かれていた木箱に隠れたのです。そしてそれが失敗でした。おが屑や果物のようなものが詰まった木箱に入ると、そこは思いのほか温かく、不注意にも私は居眠りをしてしまったのです。

 目を覚ましたら、そこはもう私の暮らしていた町ではありませんでした。どれだけ鳴き声を上げても、兄からも姉からも母からも、返事はありませんでした。私を呼ぶ声も、どこからもしませんでした。にゃあにゃあとなんとか鳴いておりますと、一人の人間が私を見て顔を顰めました。


 「うわっ、どっから入りやがったこの猫!ほら、シッシ!」


 首根っこを掴まれ、木箱から道路へ放り出されてしまいました。危なげなく着地できましたが、木箱から出ても、やはり私の知っている風景ではありませんでした。どうやら私が入っていた木箱は荷馬車の荷物だったようで、馬車に運ばれ私は知らない町まで連れてこられてしまっていたようでした。


 「勝手に入ってごめんなさい!けれど迷子になってしまったんです。どうか元いた街に帰してもらえませんか?」
 「寄るな、寄るなってば!お前にやる食い物なんて持ってねえ。あともう犬飼ってるから猫は飼えねえだよ。ほら、どっか行け!」


 ああやはり、私の言葉はこの人間には通じません。
 男の人は荷物を積みなおすと、馬車を走らせどこかへ行ってしまいました。
 固い石畳の上を歩いてみましたが、やはり知っている場所など何もなく、どこに行けばいいかもわかりませんでした。母も兄も姉もいないこの街でどうすればいいかもわかりません。行く当てもなく歩き回っていると日が落ちてきて、すっかり冷え込んできました。こんな時間になるといつもは遊ぶのやめて母のところへと帰るのですが、もう帰る場所など検討もつきません。そうこうしているうちに雪が降り始めました。白くてふわふわしたそれは私の身体にあたると溶けていって、地面に落ちると少しずつ層を作るように積もっていきます。足の裏は刺すように痛く、身体が濡れて冷たくなっていきます。

 通りにはもう誰もいません。冷たくて寒くておなかが空きます。身体も重くなってきて、とうとう歩けなくなってしまいました。雪の上にしゃがみ込んでいると空から雪がどんどん降ってきます。身体の上には雪が積もってきて、すっかり覆われてしまいました。母や兄、姉と同じ色なのに、冷たくてとても痛かったです。
 とてもとても、悲しかったです。寂しかったです。このままどうなってしまうのか、わかりませんでした。

 しかしふと、雪が止んだのです。
 重い瞼を上げると、つい先ほどまで空を覆っていた灰色の空ではなく、黒い何かが空と私の間に入っていました。


 「……猫か、大丈夫か?」


 黒い傘を差した男の人が私の身体から雪を払い、抱き上げました。かじかんだ身体から、彼の暖かい体温が伝わってきました。


 「あなたは……、」
 「もう大丈夫だ。うちに来るといい。」


 その言葉を最後に、私は眠ってしまいました。
 次に目を覚ますと大きな暖かい部屋にいました。
 これが”氷の伯爵”ことクラウス・フォン・イチェベルク伯爵との出会いでした。
 きっと私はこの夜のことを忘れることは決してないでしょう。


 それから伯爵様は私にたくさんのことを教えました。
 お忙しい方でしたが、私を連れ歩いては目に映るもの耳に聞こえるものが何なのかを教え聞かせてくれました。庭に咲く花の名、人の使う道具、楽器、歌や物語。私はその名前を復唱することも同じように歌うことも、道具を扱うこともできません。しかし伯爵様はそれを残念に思うわけでもなく、ただ楽しそうに私に教えるのです。
 クラウス様は言うのです。
 ただいるだけでいい。私の話を聞いてくれるだけで充分だ、と。
 伯爵様のお役に立ちたくとも、猫の私にできることはないもできません。なので私は伯爵様のお話を一生懸命聞くのです。いつでもお傍にいるのだと、その手や足にすり寄るのです。

 どうしてか彼に近づこうとしない人々の代わりに、私があの方のお傍にいるのです。
 伯爵様のくださった「ぱいにゃん」という名前を大事にしながら。

 しかしある日、私がただの可愛がられるだけの猫でいられなくなるようなお話を耳にしたのです。



***********



 それは微かに夏の匂いの近づいた、月の綺麗な夜のことにございます。
 屋敷の裏手にある兵舎の側で行われる集会の帰り道です。その日はどこぞのお店のお嬢さんが干し魚をくださっただとか、どこぞのお屋敷の屋根裏にはたくさん鼠が潜んでいるだとか、そう言ったお話をしていました。
 裏の道に面している塀の向こう側にひそひそと囁きあうような声が聞こえてきたのです。
 数人の男性が集まって何やら話をしております。私たちの集会は夜に行われることが多いのですが、人間の集会はお昼にして、夜はゆっくり眠っていると思っていましたがそうでもないようです。昼も夜もお仕事があるなんて、人間が生きるのは大変です。
 ご苦労様でございます、と心の中で呟きクラウス様の待つお部屋に帰ろうとしました。


 「この月の終わりこそあの伯爵を殺すチャンスだ。」


 不穏な言葉が聞こえたのです。
 この街に伯爵はご主人であるクラウス・フォン・イチェベルク様ただお一人です。
 あの伯爵様を殺すと、塀の向こうの誰かが企んでいるのです。思わず部屋へ帰る足を止めました。


 「月末……何か機会があるのか。」
 「ああ、今月末、伯爵は領地を視察することになっている。普段はほとんど街に降りてくることがない奴がだ。これ以上のチャンスはない。」
 「そう簡単にいくもんか?降りてくるといったところで護衛は連れてるだろ。」
 「護衛は連れてるだろうが、市民の声を聞くっていうパフォーマンスでもある。町人もたくさんいる。混乱でも起こせばどさくさに紛れて近づくこともできるだろ。」


 複数いるうちの一人は、よくお屋敷の事情や執務のことを知っているようでした。ドクドクと音を立てる心臓にかき消されないように耳をそばだてます。


 「何、そう難しいことでもない。まず数人で直接伯爵を襲撃をする。」
 「んなもんうまくいくはずがねえさ。」
 「いやいや、ここで仕留められれば御の字だ。まず、と言っただろう、最後まで聞け。複数人でかかれば間違いなくあたりの護衛はそれにかかりきりになる。伯爵は後ろへ下がるだろう。そこを狙う。下がって自分は賊から離れているとあの氷の男は思うだろう。そこを兵士に紛れている俺が短剣で一突きさ。これでこそ、この屋敷に潜入している甲斐がある。」
 「……裏切るんじゃねえぞ。それだとお前一人とんずらこけるだろうが。」
 「それはあり得ない。お前らが裏切るならともかく、俺が裏切ることは決してない。」


 唸るように、怒りを抑えるような声で言いました。


 「あの男は、命をもって償わなければならない。」


 その言葉を最後に足音が遠ざかっていきました。
 銅像のように硬くなってしまった足を必死に動かして伯爵様のお部屋へと走ります。

 一刻も早く、今聞いたことをクラウス様にお伝えしなくてはなりません。冷静で賢い伯爵様も、きっと兵士の中に裏切り者がいるとは夢にも思ってはいらっしゃらないでしょう。廊下を必死に走っていると使用人があらあら、と言いながら手を振ってきますが、今は尻尾でお返事をする余裕もありません。

 私のために作られた扉を潜りますと、クラウス様は机に向かってふわふわした羽根を動かしています。きっとお仕事をされているのでしょう。お仕事を中断させるのは申し訳ないのですが、今は緊急事態なので許していただきたいのです。


 「クラウス様!」
 「お帰り、ぱいにゃん。」


 少し振り向いて膝の上をたたきます。それは乗っても良いという合図なので遠慮なく乗らせていただきます。
 クラウス様、貴方のお命を狙う人間がいるのです。彼らは月終わりの視察の時に貴方を殺すつもりなのです。


 「……ぱいにゃん、どうした?腹が減ったか?」
 「お屋敷に貴方の命を狙う方がいるのです!」
 「…………遊んでほしいのか?」


 怪訝な顔をしながらもおもちゃ箱のネズミのおもちゃを持ってきてくれるクラウス様はきっとご主人様としてパーフェクトなのでしょう。しかし今は遊んでいる場合ではないのですクラウス様。


 「月終わりの視察の時に貴方のことを殺そうとしているのです!」
 「……なるほど、わからない。」


 いくら伯爵様に伝えようとしても、私の口から出る言葉は彼には通じません。
 にゃあにゃあと声を上げる私を落ち着かせるように首元を撫でる伯爵様はいつも通りお優しいのですが、今はただただもどかしいばかりです。

 ああ、もし言葉が話せたのなら、クラウス様に危機をお伝えすることができるのに。
 ああ、もし私が人間であったなら、身を挺して凶刃から彼を守ることができるのに。

 いくら願っても、私は猫のまま。
 いくら願っても口から出るのはにゃあにゃあと頼りない鳴き声だけ。
 いくら願っても私の小さな身体では盾になることもできません。

 あの美しく優しい伯爵様に、今こそ恩返しをすべき時だというのに、わたくしはただただ泣くことしかできないのです。

 ああ、なんと悲しいことでしょう。なんと口惜しいことでしょう。
 あの方のお役に立ちたいのです。このご恩をお返ししたいのです。
 ああ、けれどどうすればよいのでしょうか
 私にはまだ知らないことがたくさんあります。私はまだ、貴方の傍にいたいのです。
 どうにか、今月末までに伯爵にお伝えしなくては。

 何としてでも、何をしてでも、伯爵をお助けしなくては。
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