ある伯爵と猫の話

秋澤えで

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本編

裏切りと猫の身体

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 私が人間の姿になれるようになってから、一月が立ちました。
 今日が、伯爵様の視察の日です。
 私はとうとう伯爵殺害計画のことについて誰かに伝えることができませんでした。誰が裏切り者かわからず、そしてたった一月前に来たばかりの私のいうことを信じてもらえると思えなかったのです。

 早朝、伯爵の視察の日ということもあり、皆がバタバタとせわしなく動き回っていました。馬車の手配、各場所の兵の配置調整とやることは山積みです。もっとも、下っ端である私にできることなど限られているので、先輩たちに言われるがまま物資や武器を運びます。
 伯爵は午前の間、市街地を視察し街に住む人々の話を聞いたり様子を見たりすることになっています。そして午後からは馬車で移動し農場や牧場の方へ行くこととなっていました。

 『ああ、今月末、伯爵は領地を視察することになっている。普段はほとんど街に降りてくることがない奴がだ。これ以上のチャンスはない。』

 あれから変わっていないのであれば、”街”に降りてくるタイミング、今日の午前中に襲撃されることになります。


 「シロ、こっちに。」


 木箱を運んでいると、まさに忙しさの中心ともいえる兵団長アルディーロさんに呼ばれました。木箱を他の人に託して小走りでヒラヒラ振られる手に向かいます。


 「何かお手伝いすることがございますか?」
 「ああ、お前に市街地での伯爵の護衛を任せたいんだ。」
 「えっ、え!?いいんですか!?」


 まるで予想もしてなかった言葉に目を丸くしました。落ち着かせるように頭を大きな手でかき回されます。猫の時もそうですが、彼の撫で方は少々乱暴で頭が取れてしまいそうになります。
 混乱する私に淡々とアルディーロさんは所見を述べていきます。


 「……市街地は人の多いうえ、場所も狭い。サイズが小さい分お前はこまわりがきく。それに最初会った時の路地での立ち回り、あれは町中においても望ましいだろう。ほとんど武器を使わない戦い方は周囲の被害が小さく、巻き込みにくい。威嚇には向かんが懐刀としては悪くない。お前やる気あるし。」
 「あっ、ありがとうございます!」
 「いいか?伯爵の傍から離れるなよ?子攫いの時みたいに応戦する必要はない。危険があれば伯爵の身の安全が最優先。戦うよりも逃げたほうがマシだ。」
 「了解しました!」


 少しだけ見れるようになった敬礼をすると、よし、と言ってまた忙しない作業に戻っていきました。
 やっと、一か月の成果が認められた気分でした。わたしが正しく望んだ場所への配置。まさにその時、私は伯爵のお側で守ることができるのです。私一人で守るわけではありません。他の方だってたくさんいます。
 一か月ここに居てわかりました。兵士さんたちは皆強いです。きっと未だに私は足元にも及ばないでしょう。きっと私がいなくても伯爵様を守ってみせるでしょう。けれど計画を偶然耳にした私が一人混ざるだけでも、その安全をより安泰なものとすることができると思うのです。
 人間になっても私は微力です。けれどわずかでも私は役に立てるのです。ぐしゃぐしゃと大きな手で頭を撫でたアルディーロさんの期待に応えてみせます。




 「シロ、」
 「どうしましたか、ジャン。」


 もう出発も間際というときにジャンに呼ばれました。彼は伯爵様に対する感情は置いておいてよく働く真面目な教育係です。この忙しい時に呼ぶということは何か大事なことがあるということでしょう。無駄なことを好まない先輩です。
 呼ばれるがままについていくと兵舎の奥へと進んでいきます。皆ことごとく出払い、建物の中は閑散としていました。黙って歩くジャンを追いますが、そこはかとない不安が生まれました。ついていった先は、今は使われていない牢でした。さびれていて、うっすらと埃が積もっています。以前の人攫いが捕まってアルディーロさんから聞いた話では、今は新しい牢が作られており、兵舎に併設した方は使われていないと。こちらの牢はもう誰も使わない誰も訪れない牢屋です。


 「お前に伝えなくちゃいけないことがある。」
 「なんです?あまり時間がないのですが……、」
 「ああ、時間がないんだ。だから、」


 ふわ、と身体が浮かびました。訓練中によく味わった浮遊感。あ、と思う間もなく掴まれた襟首を放られ、牢の扉が閉められました。ガチャンと冷たい音を立てて下ろされた錠前。唖然とする私を、格子越しにジャンが見下ろしていました。


 「ジャン……?」
 「悪いな、お前が邪魔なんだ。この日のために俺が、俺たちがどれだけ準備してきたと思ってる。」
 「ジャン、待ってください!どういうことです!?」
 「クラウス・フォン・イチェベルクには今日死んでもらう。お前みたいなどういう動きするかわからない野生動物みたいなのは邪魔なんだ。それも喜んで伯爵の盾にでもなりそうな奴。」
 「まさか貴方が伯爵を狙っていた……!?」
 「なんだ知ってたのか、まあ遅いが。」


 あの時の声がよみがえります。若い男の声でした。一か月も傍にいたのに、まるで気づくことのなかった自分の鈍さに歯噛みします。それ以上に悲しくなってしまいました。彼は嫌々ながらもずっと私の面倒を見てくれていました。それなのに、腹の底ではずっと伯爵様を殺すつもりだったのです。まるで今までの優しさも全部嘘のようで。


 「お前、まだまだ子どもだろ。こんなところで死ぬのはもったいない。伯爵が死んで新しい社会が来たらまた会おうぜ。」
 「待って、待ってください!何で伯爵を、あの方が貴方に何をしたんですか!?」
 「……なにもしなかったんだよ。」


 ジャンは歯を食いしばりうなるように言いました。私を見下ろす目は私を通して他の誰かを見ているようでした。心底悔しい、恨めしい、腸が煮えくり返っているような明らかな怒りが、空気を震わせていました。


 「半年前、俺の妹がさらわれた。お前と同じくらいの年だ。」
 「あ……、」
 「それなのに人攫いは一向に捕まらない。それどころか被害者はどんどん増えてく。調べてほしいって、早く捕まえてほしいって言っても、捕まらなかった。……ああわかってるよ、子供がいなくなるなんざザラだ。家出する奴もいれば、事故に遭って勝手に死んでる場合もある。でも妹は、ルーチェは路地に靴片方残していなくなった。攫われたのは明白だろ?それなのに警吏の奴らはまともに取り合わなかった。捜索され始めたのはずいぶん経ってからだった。」
 「で、でも人攫いはもう捕まって、」
 「ああ、聞いてるよ。お前が捕まえようとして足止めしてたんだろ。自分が攫われそうになったのに。……怖かっただろ、それでも戦ってくれてありがとう。ようやくあいつらが捕まった。」
 「それなら、」
 「でもルーチェは返ってこない。」


 半年も前に売られた子供の足取りなど、犯人たちは知らないし、興味もなかったでしょう。領地の外で売られたのであれば、なおさら見つかる可能性は低いものです。
 けれどそれは伯爵様を殺す理由にはなりません。クラウス様を殺しても、彼の妹は帰ってきません。領内が荒れれば、それだけ捜索に割ける人員が減るだけでなく、それこそうやむやになりかねません。


 「捕まえるのに一役買ったお前には感謝してる。できれば傷つけたくない。だからここでおとなしくしててくれ。」
 「伯爵は、伯爵は悪くないでしょう!?」
 「警吏たちがもっとも真面目に取り合っていれば、もっと早く捕まえられたかもしれない。半年ものさばらせなかったかもしれない。他の攫われた子供たちだって、今もこの街で暮らせてただろう。部下の不始末は上司の不始末だと思わないか?」
 「そんな……!」
 「……悪いな、シロ。ここで待っててくれよ。全部終わるまで。」


 私を残してジャンは去っていきました。
 やっとここまで来たのに。兵士の誰かが伯爵の命を狙っているのは知っていたのに。話し声を聞いていたのに。ジャンだったと気が付かなかった。信頼できる先輩だと気を抜いてしまった。
 ジャンがしようとしてるのは八つ当たりです。正しい行いではありません。伯爵様を殺しても、妹さんは帰ってきません。伯爵様にお願いして他の領地で妹さんの捜索をする方がまだ建設的です。
 ジャンは決して悪い人ではありません。怒りの矛先を間違えてしまっただけで、行き場のない怒りや恨みに耐え切れなかっただけで。

 『……怖かっただろ、それでも戦ってくれてありがとう。』

 そうでなければ私にあんな優しい、労わるような表情はしなかったでしょう。

 だからこそ、止めなければなりません。ジャンを止めて、伯爵を助けます。けれど無情にも私は牢屋の中。鍵もなければ誰かがここに助けに来てくれる当てもありません。


 「おやおやおや、もう伯爵は出発したのに、お前さんはこんなところでお留守番かイ?」
 「ディアヴォロさん……!」


 どこかのんきな声一つ。ゆらりと鍵尻尾を揺らしながら、神出鬼没な黒猫さんが現れました。


 「ああ、可愛そうなお嬢さン。仲間に裏切られてしまったんだナ。」
 「うっ、」
 「あれほど、目を曇らせてはいけない、目的を忘れてはいけないと言ったのニ。あの教育係の言うことなんて聞いてないで、猪突猛進に伯爵の足元にいればよかったのサ。」
 「……貴方は知ってのですか。」
 「知ってたヨ。俺はなぁんでも知ってるからネ。でもお前さんに教えてしまうのはフェアじゃないだロ?」


 おかしそうに黒猫がにやにやと笑います。確かにこれは私の問題で、自分で気が付けなった私自身の過失です。なぜ教えてくれなかったのと、なじるのはお門違いです。ヒントは十分あったのですから。


 「どうするんだイ?ジャンとかいう男の言うまま、ここでお留守番してるのかイ?」
 「……行きます。必ず私が、伯爵をお守りします……!クラウス様を助けて、ジャンも止めます!」
 「どうやってェ?」


 私は一人牢屋の中。伯爵一行はすでに出発していて、こんな使われていない牢屋に来る暇な人はいません。扉には錠前がかかっていて、そのカギはきっとジャンが持っているのでしょう。牢屋の格子は小さくて猫の私ならともかく今の私にはとても通れません。


 「出られない、出られないねェ。」
 「……ディアヴォロさんがカギを開けてくれたりは、」
 「カギをもってないからなァ。」


 飄々と悠々と、ディアヴォロさんは牢の前を行ったり来たり。それは決して私が外に出る方法を一緒に考えているわけではないでしょう。ただただ彼は、この状況で私がどうするのか眺めて楽しんでいるのです。


 「残念だったネ。君がぱいにゃんだったら、この格子も潜り抜けられるだろうニ。」
 「……一時的に、猫に戻ることは。」
 「一度猫に戻ったら、牢屋から出でも猫のまマ。伯爵のもとに駆け付けても君は可愛いぱいにゃんのままだヨ。」


 あれほど、人間になりたいと、人間になれたらと願っていた私が、今では猫であったらと考えていました。猫は不自由で人は自由。そう思っていました。しかし猫は自由で人は不自由。人になってから幾度となく感じてきました。結局はないものねだりなのです。


 「どうしようか、ぱいにゃん」
 「……貴方は、私を猫に戻せますか?」
 「できるネ。猫に戻るのかイ?せっかく何もかもなげうって人間になったのニ。」
 「ええ、戻してください。私をただの猫に。」


 願っていました。人のように言葉が話せたら。
 願っていました。人のように文字が書けたなら。
 願っていました。人のように二本足で颯爽と歩けたのなら。
 願っていました。人のようにあの方のお傍に立てたのなら。


 「ここに閉じ込められるだけで動けない人間の身体などに興味はありません。」


 私が人になりたいと思ったのも、役に立ちたいと思ったのも、すべてはクラウス様がいてのこと。


 「私の力はきっと微力です。猫は弱く、身体が大きく武器を持つ賢い人間にはとてもかないません。……けれどそれはきっと人間の姿をした私にも同じこと。伯爵様を守る兵士さんたちはとても強く頼りになる方々です。一方私は微力ですが、ジャンが伯爵様を狙っていることを知っています。」


 私はほんの少し、ほんの少し彼の邪魔をすればいい。
 そのほんの少しでも、きっと私は役に立てると思うから。

 危機を知らせる声がなくとも、ナイフを振るう手がなくとも、タックルする人の身体がなくとも。
 私には怯ませるだけの爪をもっています。服の上からでも噛みつける牙を持っています。どこからでも跳躍し行けるバネがあります。
 助けるだけの力はなくても、ほんの少し役に立てたのなら。


 「一瞬、ジャンを邪魔するだけでも、伯爵様が無事でいられる可能性は上がるでしょう。」
 「……猫になれば君が殺される確率も上がるヨ。あの男は君がシロだから、人攫いを捕まえるのに協力したから、妹と同じ年頃の子供だから、一か月面倒を見て情が湧いたから君をこの安全な場所に閉じ込めて行っタ。けれど猫になれば関係なイ。邪魔する小動物なんて簡単に殺すだろウ。」
 「でも私は一度猫に戻ったら人間には戻れないんでしょう?そうであればジャンは私を殺したことにも気が付かないでしょう。シロは消え、ぱいにゃんが死ぬ。伯爵様は悲しんでくださるでしょうが、助けることができたなら後悔はありません。ジャンが無用に傷つくこともありません。」


 二人とも優しい人です。だから二人とも守りたいんです。


 「私は猫のぱいにゃんです。私は大切な人を猫として助けに行きます。」
 「……正気かい?」


 表情を読ませない顔つきで、黒猫さんは聞きました。


 「はい。すべてを助けることは、私にはできません。」


 ジャンを止めて、クラウス様を助けて、妹さんを取り戻して、誰も悲しまないような大団円なんて、私には用意することはできません。矮小な一匹の猫では、ハッピーエンドを作れません。
 ならば私はわがままになりましょう。私は私のしたいことをしましょう。
 あの方を悲しませたくはありません。けれど私は彼を悲しませないことよりも、彼が無事であることの方が大事なのです。


 「ディアヴォロさん、私を猫に戻してください。役に立たない人間より、微力ながら役に立つ猫でありたいと、私は思うのです。」


 もう何も怖くありません。なにも私の目を曇らせるものはありません。
 私はただただ、大切な人を助けたいだけなのです。


 「……わかった、強情な子ダ。負けたネ。」


 深く深く、ため息をつく黒猫を見ていました。すると黒猫の足元から藍色の煙のような、影のようなものが出てきて、その黒い身体を包み込みました。目の前のことに呆然としていますと、もうそこに黒猫はおらず、一人の人間が立っていました。


 「ディア、ヴォロさん……!?」
 「全く勇敢な子猫だ。ただ拾われただけなのに、愛玩動物として飼われていただけなのにここまで主人に尽くそうとするなんて。」


 黒い男の人が錠前に手を掛けると煙を立ててそれは溶けていきました。戒めを失った牢の扉はあっさりと開きます。


 「さぁ、行きなよ。ジャン・ブジャルドが伯爵に何をするか、知っているのは君だけなんだから。」
 「いい、のですか?」
 「いいよいいよ。ただし気を抜かないことだ。君は知っているだけ。歴戦の戦士でもなければ身体の使い方に長けた武人でもない。君が弱いことに変わりはない。突然力を身に着けたり、魔法が使えるようになるなんて奇跡はおきはしない。」


 黒い爪のついた大きな手は、私を励ますように頬を撫でました。姿形は変わりましたが、ディアヴォロさんの匂いは変わっていません。ディアヴォロさんが猫だとか人だとか、そのどちらでもないだとか、今は些細なことです。


 「もちろん、もちろんです!私は私のできることを、全力でするんです。それは最初から何も変わっていません!」
 「……さぁ行きな、可愛いぱいにゃん。か弱いぱいにゃん。小さなお手てで、せいぜい足掻け。」
 「ありがとうございます!」
 開かれた牢の扉から駆け出しました。
 どうか一刻も早くあの人のところへ行けるように。その無事を願いながら。





 駆けだすその小さな背中を見送っていた。


 「エーヴァ、君も見ていると良い。いや、どうせ君は見ているのだろう?君が誰も愛せない呪いをかけた子供は、今こんなにも愛されている。」


 愛する者のためならば、何も怖くないと。喜んで命を投げうつと。感謝されなくても、自分のしてきたことを気づいてもらえなくても。
 それでも、愛する者が無事でいてくれるなら。
 愚かなほどの真摯さ、懸命さは見覚えのあるものだった。
 あの何も恐れない背中を、かつて俺は見たことがあった。


 「かわいい子、その空虚さに気が付くと良い。悲嘆の物語はもう終わりだ。」
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