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番外編
ある悪魔と女の話・前編
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涙の跡の残る娘を洞窟の奥へと横たえた。このまま枯れてしまうのではないかというくらい泣き続けた彼女は疲れ切ったようにぱったりと倒れてしまった。
「こんなはずじゃなかったんだ……。」
まるで言い訳のように口から出た言葉に困惑した。
別にこの娘が泣こうが喜ぼうが、それは俺にとってどうでもよかった。苦しむ姿もまた美しいとさえ、思っていたはずだった。ならば構わないはずだ。病気が治りかけていた妹を人間どもに焼き殺され、彼女は、エーヴァは出会ってから初めて見るような激情を、怒りを表した。泣きながら湧き上がる怒りと怨みに奴らを睨みつける彼女は凄まじく、その危うさもまた美しかった。
美しいものが欲しいと思ったから手に入れた。そして凄惨なまでの美を俺は間近で見ることができた。結構なことだ。なのにどうして俺はこんなにも妙な気持にならなければならないのだろう。腹の底が冷たいような、胸に風穴があいたような、座りが悪く、どこか落ち着かないこの気持ちは何なのだろう。横たわる彼女に手を伸ばそうとして躊躇う、この気持ちは何なのだろう。
彼女の妹だったものは真っ黒で焦げ臭い。全くもって美しくなく、醜い。ならば消してしまえばいいのに、俺はただ彼女の側にそれを置いた。
起きた彼女は何というだろう。何をするだろう。
人間どもへ復讐を行うだろうか。それとも必死になってありもしない妹の呼び戻し方を模索するだろうか。どちらにしても構わない。エネルギーに満ちている人間とは悪くないものだ。
それからエーヴァは元には戻らなかった。けれど復讐に走ることもなかった。粛々と妹だったものを埋葬し、そこにヘリクリサムを供えた。エーヴァはただただ生きていた。まるで死んだように、ゴーレムが動いているかのように、生きていた。
エーヴァは、怒ることも、泣くこともなくなった。そして何より美しい、菫のような笑顔を浮かべることも、なくなった。
エーヴァは、死んでしまった。そこに微かな、もはや燃えるだけの力を持たない怨みだけをそこに残して。
「ディアヴォロ。」
笑いもせず、困った顔をせず、恐れる顔もせず、エーヴァは俺の名前を呼ぶ。
違う、違う。俺が欲しかった娘は、俺が欲しかったエーヴァは、俺が手に入れた魔女は、コレじゃない。
気づいた時にはすべてが遅かった。間違いは決して正せなかった。
俺は、エーヴァのことを大切に思ってしまったのだ。
ただ手の中に置いておきたい、宝石のように、本のように、それとは違うのだ。
俺は、いつの間にかエーヴァのことを幸せにしたいと思ってしまったのだ。
美しい娘に、かわいらしい魔女に、俺の隣で笑ってほしかったのだ。
もう何もかもが遅かった。
いつ間違えたのだろう。
ああそれはきっと、彼女の母親に病の呪いをかけたところからだろう。
何もかもが遅く、もう何も間違いを正せなかった。
「エーヴァ、」
「なに、ディアヴォロ。」
俺はただ彼女の傍にいることしかもうできなかった。
「……何でもないよ。」
***********
美しいものに目がなかった。
生まれたときなど覚えていないが、物心ついた時には薄暗く生臭い場所にいた。耳障りな鳴き声が聞こえ、何かがつぶれる音が、崩れ落ちる音がする。そんなところだった。
だからこそ、偶然空から降ってきた“花”というものに心を奪われた。紫色のそれは柔らかく、今まで触ったことのない感触がした。鼻を寄せれば何やら不思議なにおいがする。紫の部分は薄っぺらくほんの少し力を入れただけでちぎれてしまいそうなほど、脆かった。
それを見ていると、なぜか心が少し明るくなった。心臓がいつもより早く脈打ち、どれだけ眺めても飽きない。いそいそとそれをねぐらへと持ち帰った。けれどそれは帰り道、握りしめてしまっていたようで、つぶれ、萎れてしまっていた。もう美しさはその香りしか残っていない。脆弱だ。強くないものに価値はない。踏みつけられるだけのものは無価値でゴミでしかない。けれどそれはそうは思えなかった。何よりも弱く、何よりも脆い。だが無価値には思えなかった。
もっと、もっとそれが見たくなった。欲しくなった。
背中から羽根を生やし、俺は上へ上へと向かった。上にはきっと美しいもので溢れているのだ。柔く、脆いそれが、俺は欲しかった。
天に行くとそこは美しいもので溢れていた。
絶えることなく上から輝かしい光が降り注ぎ、濁りとは無縁な水が流れ、新緑の木々は光を反射させながら木陰を作っていた。天にあるもの、すべてが美しかった。そこに住まう住民も一人残らず美しい造形をしていた。地下にはなかった彩りの花々は惜しみなく咲き誇り、蝶が舞う。美しい世界だった。
「ああ悪魔だ!悪魔がいる!」
「なんでこんなところに!誰か、誰かあれを追い出してくれ!」
住民たちは、天は俺がここに居ることを許さなかった。
「お前みたいな醜い奴に居場所はない!さっさと地獄へ戻れ化け物!」
俺は、美しくなかった。
美しい天は、美しいものしか存在することを許されなかったようだった。
醜い俺の居場所は、美しいものの中にはなかった。
そして知る。あの日地下に落ちてきたあの花は花弁が欠けてしまい美しくなかったから天から落とされたのだと。俺の心を震わせたあの花は、美しいものではなかったのだ。
地下では相手を倒す力が、相手を壊す力が強さだった。
天では美しさが、可憐さが強さだった。
強さが失われたものはどちらも同じく蹴落とされるだけだった。
ならばと天と地下の間へ行くことにした。
そこは天と地下が混ざったような場所だった。
美しいものもあるが醜いものもある。
美しい者が強い時もあれば、壊す力を持つ者が強い時もあった。
そしてどちらも持たない者は蹴落とされていた。
ただ美しいだけの者はおらず、ただ壊すだけの者もいなかった。この中つ国は住民の在り方もそれと同じものだった。
美しい蓮も、時が経てば泥に沈んだ。
美しい雪も、時が経てば濁った水となった。
美しいものは時とともに朽ちていく。けれど朽ちたとしても追い出されることはなかった。中つ国のものは他の国へ行くことを知らないようで、醜くとも弱くとも存在することは許された。
それは微かな救いだった。
ある街で大層醜いものを見た。大勢で一人の女を取り囲み、石をぶつける。女は木に括られているようでそれを避けることもできず、ただされるがままになっていた。そしてそれから、木に火が放たれた。燃える火の中、女は悲鳴を上げる。周囲の人間たちは歓声を上げる。肉の焼ける臭いとそれの崩れる音、弱まっていく悲鳴に自分が生まれた場所を思い出した。
中つ国は美しいものも醜いものも、強い者も弱い者も存在することは許される。けれど異端の者、少数派の者は、数によってこの国を追い出されるようだった。
混沌とした国の、明確な醜い点だった。
焼き殺された女は“魔女”といった。地下で聞いたことがある。自分たちが力を貸してやって中つ国の住民を誑かすのだと。そしてそれを眺めるのが娯楽の一つだと。
けれど焼き殺された女はただの女だった。何の力も持たない、中つ国の住民だった。
哀れだとは思わなかった。そういう世界なのだろう。少数派のように振舞えなかった彼女が生き方を間違えたのだと。
しばらく中つ国にいる間に、住民、人間の化け方を覚えた。口を小さく、歯を小さく、弱そうな手、細い足。随分と弱そうで貧相な身なりだが、これがこの国での標準らしい。体力を使うので綺麗に化けることはあまりない。
人間に化けられるようになって、もっといろんなものを見られるようになった。人間同士の関係、金貨と呼ばれる月のような石、光を反射し吸い込む宝石、海から上がった朱色の珊瑚。皆美しいものに執心だというのに自らは大抵美しくないというのが俺のようで少しおかしかった。
ある日、一人の少女を見つけた。薄暗い森に少女が一人、何か草を摘んでいる。なぜだか心惹かれて、姿を隠しながら少女の後を追った。
少女には家族がいた。薬師の父に、料理上手な母、快活な妹。家族に囲まれた少女は幸せそうに笑った。
俺にはわからなかった。
彼らは中つ国の少数派だ。街から離れた森に住み、人とはほとんど関わらない。仕事で街に行っても、心ない陰口を叩かれることも少なくない。
彼らは中つ国から零れ落ちる人間だ。なぜうまく生きようとしないのだろう。少数派の末路など想像に難くないだろうに、なぜ悲壮感のある顔をしないのだろう。
柄にもなく哀れになった。何も知らないからあんな風に笑っていられるのだ。無知であるからこそ。絶望の淵にあるはずなのに、幸せそうに笑うのは、愚かしいと。
だからほしくなった。
あの愚かしい少女に中つ国の現実を教えたい。現状が絶望に値するものだと、その末路を教えたい。それからもっと賢く生きる方法を、強く生き抜く方法を教えたい。
あの少女を手に入れたかった。
だからまず、少女の母親に呪いをかけた。
もちろんただの呪いであるため、薬を使おうが医者を呼ぼうが助からない。俺だけが知っている病気。
彼らは医者を呼べなかった。
得体の知れない病気を持った者など、殺されてしまうだろうから。
母親は、そのまま死んだ。
少女たちとその父は泣いていた。
気づくと良い。少数派であることに甘んじていたからこんな最期になったのだ。
次に一人森の奥へ入った父親を迷わせた。
簡単なことだ。少し手を加えてやれば森は、地面は形を変える。
少女たちは助けを呼べなかった。いなくなった父親を捜すための人手を得られなかった。
自分たち以外に森に入れる人間はいないし、危険を冒して手を差し伸べてくれる人間もいなかった。
父親は、衰弱死した。
少女たちは泣いていた。
気づくと良い。少数派であることに甘んじていたからこんな最期になったのだ。
少女たちは、いつの間にか娘と呼ばれる年頃になっていた。人間の成長は早い。
両親を亡くしてもなお、彼女たちは生活を変えなかった。森の中で二人、暮らしていた。その時期になるともう、都の方で始まった“魔女狩り”は広まっていて、彼女たちの住む町でもその噂が流れだした。
「馬鹿な子たちだ。役割など仕事など捨ててしまえば、娘二人街で暮らすのは難しいことでもないのに。」
次に妹に呪いをかけた。
母親を殺した同じ病の呪い。母親と同じように、妹は衰弱していった。
「ベル、ベル、大丈夫よ。」
衰弱していく妹に、姉は憔悴していた。けれどやはり、誰にも助けを求められなかった。眠る妹の前に座り、涙を流す彼女は愚かで、そしてやはり美しかった。
弱く、愚かで賢い道も選べない。その脆弱さが、美しかった。追い出され地下にまで来てしまったあの花のように。
必死に森の中を駆けずり回り薬草を探し、少しでも栄養のあるものを集めるエーヴァを見て、もうきっと彼女は自分の掌の中に転がり込んでくるだろうとわかった。
「なぁ、その妹を助けてやろうか?」
少しだけ人間の男に寄せた姿でエーヴァの前に降り立った。悲鳴を上げた彼女に回り込み、逃げ出せないようにする。怯えた目で俺を見る彼女の口が音もなく「化け物」と動いた。
俺は醜い。だから忌み嫌われる。けれど俺は強かった。力を持っていた。この混沌とした中つ国でも、力の強さがものをいう。美しく弱い娘は、醜く強い俺からは逃げられなかった。
「妹、病気なんだろう?治す方法が知りたくないか?」
ただただ恐れだけだったその眼に、期待と疑惑の色が浮かぶ。
焦ってはいけない。獲物を狩るときは常に自身が優位でなくてはならない。
「治し方がわからない。効く薬草も見つからない。しかも“魔女狩り”が横行していて街の医者に診せに行くこともできない。」
エーヴァはもう逃げ出そうとはしなかった。
「……貴方は、いったい何?」
「俺はディアヴォロ。地下に住む悪魔。」
悪魔と聞いて疑念が強くなる。けれど納得もしただろう。この醜い姿は中つ国にはないものだ。中つ国の住人は外の世界を知らない。悪魔などもきっと絵物語にしか思っていないだろう。思っていない、けれど彼女は、その得体の知れないものに縋らざるを得ない。
「美しい子だなぁ。まだまだ若く、命の灯が消えるには早すぎる。君もそう思うだろ?」
エーヴァは街の住民から魔女の疑いがかけられている。それは証拠のないただの戯言だ。けれど悪魔である俺から力を借りれば、彼女は正真正銘の魔女になるだろう。
「エーヴァ、この子を、唯一の家族を助けたいんだろ?俺ならそれができる。その力をお前に与えることもできる。」
蜘蛛の糸を垂らしてみせれば、彼女の目は揺れた。
ここの住民からすれば馬鹿馬鹿しい提案だろう。ふつうは誰も真に受けない。けれど彼女は縋ってしまう。神も人も、自分の知識も、何も妹の命を救えない。
救えると豪語する悪魔に、彼女は縋るしかない。
「……なんでもするわ。この子を助けて。この子を助ける力を私に頂戴。」
ああほらやはり。可哀想なエーヴァはそれしか選べない。
「良いのかい?お代はエーヴァ、君のすべてだ。その身体、魂、すべて俺にくれるなら、君に力をあげよう。なんでもできる。魔法も魔術も呪術だって。なんでも叶う。」
「何にもいらない。この子を助ける力以外。この子が、ベルが生きていられるなら私は身体も命も貴方にあげるわ。」
随分と迂遠なことをしたと思う。けれど恐らくこれでよかったのだろう。ようやく手に入れることのできる美しい花は、勇敢にも自ら手の中へと飛び込んだ。
「この子が死んでしまうより、悪いことなんて恐ろしいことなんてない。」
「……契約成立だ。」
自分の力の一部を、ほんの少しだけエーヴァにくれてやる。ものを意のままに動かす力を、ありとあらゆる魔術の知識を小さな器に注ぎ込む。とめどなくあふれ出す藍色の影に包まれるエーヴァは、あの日空から落ちてきた菫の花によく似ていた。
「エーヴァ・パラヴィティーノ、俺の可愛い魔女。これで君は私のものだ。」
「……約束は守りなさい。」
「ああ勿論だ!悪魔は契約に忠実!すべてを意のままにする力を君にあげよう!」
俺の空っぽの器に、何かが入り込んでくるのを感じた。それは絶望や怒りとか、不愉快なものではなく、何かよくわからないけれど、暖かいものだった。
手に入れたいと思っていた美しいものは、謀によりあっさり俺の手の中に転がり込んできた。そこには確かな満足感があった。
約束通り、エーヴァの妹、ベルを治す方法を教えてやり、それに必要な材料がある場所も教えてやった。
今にも死んでしまいそうだったベルは当然、元気になる。それにつれエーヴァの焦燥した表情も見なくなった。
可哀そうに、彼女はことの重大さをわかっていない。
もう彼女の頭の上から爪の先まで、何かも俺のものだというのに。彼女が生きるも死ぬもすべて俺の思いのまま。例えばもし、俺がこの場でエーヴァにベルを殺すように命令を出せば、彼女は決して逆らえない。
ああ彼女はそのときどんな顔をするだろうか。
森の中の小さな家。その中で身を寄せ合いながら笑顔で言葉を交わす姉妹。その慎ましい幸福を一息でかき消せると思うと胸が膨らんだ。
さあ、いつあの幸福をぶち壊してやろうか。
けれどまだだ、まだ足りない。もっと幸福感を彼女が感じてから壊してやるのだ。高いところから叩きつけてやれば、もっと美しい絶望がみられるだろうから。
そうだ、エーヴァと仲良くなろう。きっと頭がお花畑で警戒心などまるで彼女のことだ。悍ましい悪魔だというのに優しくしてやればあっさり俺のことを信用するに違いない。
だって俺は彼女の妹を救ってやった恩人様なのだから。
「こんなはずじゃなかったんだ……。」
まるで言い訳のように口から出た言葉に困惑した。
別にこの娘が泣こうが喜ぼうが、それは俺にとってどうでもよかった。苦しむ姿もまた美しいとさえ、思っていたはずだった。ならば構わないはずだ。病気が治りかけていた妹を人間どもに焼き殺され、彼女は、エーヴァは出会ってから初めて見るような激情を、怒りを表した。泣きながら湧き上がる怒りと怨みに奴らを睨みつける彼女は凄まじく、その危うさもまた美しかった。
美しいものが欲しいと思ったから手に入れた。そして凄惨なまでの美を俺は間近で見ることができた。結構なことだ。なのにどうして俺はこんなにも妙な気持にならなければならないのだろう。腹の底が冷たいような、胸に風穴があいたような、座りが悪く、どこか落ち着かないこの気持ちは何なのだろう。横たわる彼女に手を伸ばそうとして躊躇う、この気持ちは何なのだろう。
彼女の妹だったものは真っ黒で焦げ臭い。全くもって美しくなく、醜い。ならば消してしまえばいいのに、俺はただ彼女の側にそれを置いた。
起きた彼女は何というだろう。何をするだろう。
人間どもへ復讐を行うだろうか。それとも必死になってありもしない妹の呼び戻し方を模索するだろうか。どちらにしても構わない。エネルギーに満ちている人間とは悪くないものだ。
それからエーヴァは元には戻らなかった。けれど復讐に走ることもなかった。粛々と妹だったものを埋葬し、そこにヘリクリサムを供えた。エーヴァはただただ生きていた。まるで死んだように、ゴーレムが動いているかのように、生きていた。
エーヴァは、怒ることも、泣くこともなくなった。そして何より美しい、菫のような笑顔を浮かべることも、なくなった。
エーヴァは、死んでしまった。そこに微かな、もはや燃えるだけの力を持たない怨みだけをそこに残して。
「ディアヴォロ。」
笑いもせず、困った顔をせず、恐れる顔もせず、エーヴァは俺の名前を呼ぶ。
違う、違う。俺が欲しかった娘は、俺が欲しかったエーヴァは、俺が手に入れた魔女は、コレじゃない。
気づいた時にはすべてが遅かった。間違いは決して正せなかった。
俺は、エーヴァのことを大切に思ってしまったのだ。
ただ手の中に置いておきたい、宝石のように、本のように、それとは違うのだ。
俺は、いつの間にかエーヴァのことを幸せにしたいと思ってしまったのだ。
美しい娘に、かわいらしい魔女に、俺の隣で笑ってほしかったのだ。
もう何もかもが遅かった。
いつ間違えたのだろう。
ああそれはきっと、彼女の母親に病の呪いをかけたところからだろう。
何もかもが遅く、もう何も間違いを正せなかった。
「エーヴァ、」
「なに、ディアヴォロ。」
俺はただ彼女の傍にいることしかもうできなかった。
「……何でもないよ。」
***********
美しいものに目がなかった。
生まれたときなど覚えていないが、物心ついた時には薄暗く生臭い場所にいた。耳障りな鳴き声が聞こえ、何かがつぶれる音が、崩れ落ちる音がする。そんなところだった。
だからこそ、偶然空から降ってきた“花”というものに心を奪われた。紫色のそれは柔らかく、今まで触ったことのない感触がした。鼻を寄せれば何やら不思議なにおいがする。紫の部分は薄っぺらくほんの少し力を入れただけでちぎれてしまいそうなほど、脆かった。
それを見ていると、なぜか心が少し明るくなった。心臓がいつもより早く脈打ち、どれだけ眺めても飽きない。いそいそとそれをねぐらへと持ち帰った。けれどそれは帰り道、握りしめてしまっていたようで、つぶれ、萎れてしまっていた。もう美しさはその香りしか残っていない。脆弱だ。強くないものに価値はない。踏みつけられるだけのものは無価値でゴミでしかない。けれどそれはそうは思えなかった。何よりも弱く、何よりも脆い。だが無価値には思えなかった。
もっと、もっとそれが見たくなった。欲しくなった。
背中から羽根を生やし、俺は上へ上へと向かった。上にはきっと美しいもので溢れているのだ。柔く、脆いそれが、俺は欲しかった。
天に行くとそこは美しいもので溢れていた。
絶えることなく上から輝かしい光が降り注ぎ、濁りとは無縁な水が流れ、新緑の木々は光を反射させながら木陰を作っていた。天にあるもの、すべてが美しかった。そこに住まう住民も一人残らず美しい造形をしていた。地下にはなかった彩りの花々は惜しみなく咲き誇り、蝶が舞う。美しい世界だった。
「ああ悪魔だ!悪魔がいる!」
「なんでこんなところに!誰か、誰かあれを追い出してくれ!」
住民たちは、天は俺がここに居ることを許さなかった。
「お前みたいな醜い奴に居場所はない!さっさと地獄へ戻れ化け物!」
俺は、美しくなかった。
美しい天は、美しいものしか存在することを許されなかったようだった。
醜い俺の居場所は、美しいものの中にはなかった。
そして知る。あの日地下に落ちてきたあの花は花弁が欠けてしまい美しくなかったから天から落とされたのだと。俺の心を震わせたあの花は、美しいものではなかったのだ。
地下では相手を倒す力が、相手を壊す力が強さだった。
天では美しさが、可憐さが強さだった。
強さが失われたものはどちらも同じく蹴落とされるだけだった。
ならばと天と地下の間へ行くことにした。
そこは天と地下が混ざったような場所だった。
美しいものもあるが醜いものもある。
美しい者が強い時もあれば、壊す力を持つ者が強い時もあった。
そしてどちらも持たない者は蹴落とされていた。
ただ美しいだけの者はおらず、ただ壊すだけの者もいなかった。この中つ国は住民の在り方もそれと同じものだった。
美しい蓮も、時が経てば泥に沈んだ。
美しい雪も、時が経てば濁った水となった。
美しいものは時とともに朽ちていく。けれど朽ちたとしても追い出されることはなかった。中つ国のものは他の国へ行くことを知らないようで、醜くとも弱くとも存在することは許された。
それは微かな救いだった。
ある街で大層醜いものを見た。大勢で一人の女を取り囲み、石をぶつける。女は木に括られているようでそれを避けることもできず、ただされるがままになっていた。そしてそれから、木に火が放たれた。燃える火の中、女は悲鳴を上げる。周囲の人間たちは歓声を上げる。肉の焼ける臭いとそれの崩れる音、弱まっていく悲鳴に自分が生まれた場所を思い出した。
中つ国は美しいものも醜いものも、強い者も弱い者も存在することは許される。けれど異端の者、少数派の者は、数によってこの国を追い出されるようだった。
混沌とした国の、明確な醜い点だった。
焼き殺された女は“魔女”といった。地下で聞いたことがある。自分たちが力を貸してやって中つ国の住民を誑かすのだと。そしてそれを眺めるのが娯楽の一つだと。
けれど焼き殺された女はただの女だった。何の力も持たない、中つ国の住民だった。
哀れだとは思わなかった。そういう世界なのだろう。少数派のように振舞えなかった彼女が生き方を間違えたのだと。
しばらく中つ国にいる間に、住民、人間の化け方を覚えた。口を小さく、歯を小さく、弱そうな手、細い足。随分と弱そうで貧相な身なりだが、これがこの国での標準らしい。体力を使うので綺麗に化けることはあまりない。
人間に化けられるようになって、もっといろんなものを見られるようになった。人間同士の関係、金貨と呼ばれる月のような石、光を反射し吸い込む宝石、海から上がった朱色の珊瑚。皆美しいものに執心だというのに自らは大抵美しくないというのが俺のようで少しおかしかった。
ある日、一人の少女を見つけた。薄暗い森に少女が一人、何か草を摘んでいる。なぜだか心惹かれて、姿を隠しながら少女の後を追った。
少女には家族がいた。薬師の父に、料理上手な母、快活な妹。家族に囲まれた少女は幸せそうに笑った。
俺にはわからなかった。
彼らは中つ国の少数派だ。街から離れた森に住み、人とはほとんど関わらない。仕事で街に行っても、心ない陰口を叩かれることも少なくない。
彼らは中つ国から零れ落ちる人間だ。なぜうまく生きようとしないのだろう。少数派の末路など想像に難くないだろうに、なぜ悲壮感のある顔をしないのだろう。
柄にもなく哀れになった。何も知らないからあんな風に笑っていられるのだ。無知であるからこそ。絶望の淵にあるはずなのに、幸せそうに笑うのは、愚かしいと。
だからほしくなった。
あの愚かしい少女に中つ国の現実を教えたい。現状が絶望に値するものだと、その末路を教えたい。それからもっと賢く生きる方法を、強く生き抜く方法を教えたい。
あの少女を手に入れたかった。
だからまず、少女の母親に呪いをかけた。
もちろんただの呪いであるため、薬を使おうが医者を呼ぼうが助からない。俺だけが知っている病気。
彼らは医者を呼べなかった。
得体の知れない病気を持った者など、殺されてしまうだろうから。
母親は、そのまま死んだ。
少女たちとその父は泣いていた。
気づくと良い。少数派であることに甘んじていたからこんな最期になったのだ。
次に一人森の奥へ入った父親を迷わせた。
簡単なことだ。少し手を加えてやれば森は、地面は形を変える。
少女たちは助けを呼べなかった。いなくなった父親を捜すための人手を得られなかった。
自分たち以外に森に入れる人間はいないし、危険を冒して手を差し伸べてくれる人間もいなかった。
父親は、衰弱死した。
少女たちは泣いていた。
気づくと良い。少数派であることに甘んじていたからこんな最期になったのだ。
少女たちは、いつの間にか娘と呼ばれる年頃になっていた。人間の成長は早い。
両親を亡くしてもなお、彼女たちは生活を変えなかった。森の中で二人、暮らしていた。その時期になるともう、都の方で始まった“魔女狩り”は広まっていて、彼女たちの住む町でもその噂が流れだした。
「馬鹿な子たちだ。役割など仕事など捨ててしまえば、娘二人街で暮らすのは難しいことでもないのに。」
次に妹に呪いをかけた。
母親を殺した同じ病の呪い。母親と同じように、妹は衰弱していった。
「ベル、ベル、大丈夫よ。」
衰弱していく妹に、姉は憔悴していた。けれどやはり、誰にも助けを求められなかった。眠る妹の前に座り、涙を流す彼女は愚かで、そしてやはり美しかった。
弱く、愚かで賢い道も選べない。その脆弱さが、美しかった。追い出され地下にまで来てしまったあの花のように。
必死に森の中を駆けずり回り薬草を探し、少しでも栄養のあるものを集めるエーヴァを見て、もうきっと彼女は自分の掌の中に転がり込んでくるだろうとわかった。
「なぁ、その妹を助けてやろうか?」
少しだけ人間の男に寄せた姿でエーヴァの前に降り立った。悲鳴を上げた彼女に回り込み、逃げ出せないようにする。怯えた目で俺を見る彼女の口が音もなく「化け物」と動いた。
俺は醜い。だから忌み嫌われる。けれど俺は強かった。力を持っていた。この混沌とした中つ国でも、力の強さがものをいう。美しく弱い娘は、醜く強い俺からは逃げられなかった。
「妹、病気なんだろう?治す方法が知りたくないか?」
ただただ恐れだけだったその眼に、期待と疑惑の色が浮かぶ。
焦ってはいけない。獲物を狩るときは常に自身が優位でなくてはならない。
「治し方がわからない。効く薬草も見つからない。しかも“魔女狩り”が横行していて街の医者に診せに行くこともできない。」
エーヴァはもう逃げ出そうとはしなかった。
「……貴方は、いったい何?」
「俺はディアヴォロ。地下に住む悪魔。」
悪魔と聞いて疑念が強くなる。けれど納得もしただろう。この醜い姿は中つ国にはないものだ。中つ国の住人は外の世界を知らない。悪魔などもきっと絵物語にしか思っていないだろう。思っていない、けれど彼女は、その得体の知れないものに縋らざるを得ない。
「美しい子だなぁ。まだまだ若く、命の灯が消えるには早すぎる。君もそう思うだろ?」
エーヴァは街の住民から魔女の疑いがかけられている。それは証拠のないただの戯言だ。けれど悪魔である俺から力を借りれば、彼女は正真正銘の魔女になるだろう。
「エーヴァ、この子を、唯一の家族を助けたいんだろ?俺ならそれができる。その力をお前に与えることもできる。」
蜘蛛の糸を垂らしてみせれば、彼女の目は揺れた。
ここの住民からすれば馬鹿馬鹿しい提案だろう。ふつうは誰も真に受けない。けれど彼女は縋ってしまう。神も人も、自分の知識も、何も妹の命を救えない。
救えると豪語する悪魔に、彼女は縋るしかない。
「……なんでもするわ。この子を助けて。この子を助ける力を私に頂戴。」
ああほらやはり。可哀想なエーヴァはそれしか選べない。
「良いのかい?お代はエーヴァ、君のすべてだ。その身体、魂、すべて俺にくれるなら、君に力をあげよう。なんでもできる。魔法も魔術も呪術だって。なんでも叶う。」
「何にもいらない。この子を助ける力以外。この子が、ベルが生きていられるなら私は身体も命も貴方にあげるわ。」
随分と迂遠なことをしたと思う。けれど恐らくこれでよかったのだろう。ようやく手に入れることのできる美しい花は、勇敢にも自ら手の中へと飛び込んだ。
「この子が死んでしまうより、悪いことなんて恐ろしいことなんてない。」
「……契約成立だ。」
自分の力の一部を、ほんの少しだけエーヴァにくれてやる。ものを意のままに動かす力を、ありとあらゆる魔術の知識を小さな器に注ぎ込む。とめどなくあふれ出す藍色の影に包まれるエーヴァは、あの日空から落ちてきた菫の花によく似ていた。
「エーヴァ・パラヴィティーノ、俺の可愛い魔女。これで君は私のものだ。」
「……約束は守りなさい。」
「ああ勿論だ!悪魔は契約に忠実!すべてを意のままにする力を君にあげよう!」
俺の空っぽの器に、何かが入り込んでくるのを感じた。それは絶望や怒りとか、不愉快なものではなく、何かよくわからないけれど、暖かいものだった。
手に入れたいと思っていた美しいものは、謀によりあっさり俺の手の中に転がり込んできた。そこには確かな満足感があった。
約束通り、エーヴァの妹、ベルを治す方法を教えてやり、それに必要な材料がある場所も教えてやった。
今にも死んでしまいそうだったベルは当然、元気になる。それにつれエーヴァの焦燥した表情も見なくなった。
可哀そうに、彼女はことの重大さをわかっていない。
もう彼女の頭の上から爪の先まで、何かも俺のものだというのに。彼女が生きるも死ぬもすべて俺の思いのまま。例えばもし、俺がこの場でエーヴァにベルを殺すように命令を出せば、彼女は決して逆らえない。
ああ彼女はそのときどんな顔をするだろうか。
森の中の小さな家。その中で身を寄せ合いながら笑顔で言葉を交わす姉妹。その慎ましい幸福を一息でかき消せると思うと胸が膨らんだ。
さあ、いつあの幸福をぶち壊してやろうか。
けれどまだだ、まだ足りない。もっと幸福感を彼女が感じてから壊してやるのだ。高いところから叩きつけてやれば、もっと美しい絶望がみられるだろうから。
そうだ、エーヴァと仲良くなろう。きっと頭がお花畑で警戒心などまるで彼女のことだ。悍ましい悪魔だというのに優しくしてやればあっさり俺のことを信用するに違いない。
だって俺は彼女の妹を救ってやった恩人様なのだから。
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