ある伯爵と猫の話

秋澤えで

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本編

物語の終わり。

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 「シロ、フォークが左手でナイフが右手だ。」
 「シロ、床で寝ようとしないでくれ。」
 「シロ、むやみに跳ね回ってはいけない。スカートが捲れてしまう。」


 私のご主人様は私にたくさんのことを教えてくださいます。
 食事の時のマナー、就寝時のマナー、淑女としての立ち振る舞い。今までの私が知らなかったこと、必要でなかったことがたくさん求められます。私には少し難しいこともありますが、それ以上に私は日々たくさんのことを教えてくださるのが本当にうれしいのです。


 「はい!クラウス様!」


 こうしてはっきりと返事ができることが至上の喜びであることを、ほほえまし気に見る使用人の皆様はご存知ないでしょう。今まで何を教えていただいてもそのほんの少しも伯爵様にお返しすることができなかったのに、今ではこうして返事をすることも、覚えたことを披露することもできるのです。

 私の返事を、微笑みながら聞くクラウス様は、以前よりも表情が柔らかく、使用人の方や部下の方と“雑談”に興じているところも散見されます。麗しく優し気な表情で皆様と仲良くなることはとても喜ばしいことなのですが、秘密のようであったそれが私だけのものでなくなってしまったのには一抹の寂しさを感じます。


 あの襲撃の日、私は何とか伯爵様をお守りすることができました。けれど猫にとってあの短剣の傷は重傷であり、人間になる魔法が解ければ死んでしまうところだったそうです。しかし眠っている私と伯爵様のもとに西の森の魔女と一人の男性が来たらしいのです。そして伯爵様に掛かっていた「誰も愛せない呪い」が解かれ、反対に私には人間としてこれから生きていける魔法をかけて、二人とも消えてしまったのです。
 これはすべて伯爵からお聞きしたものであり、結局私は魔女さんにお礼を言うことも、ディアヴォロさんに会うこともありませんでした。会いに行こうと森へ入ったのですが、彼らのもとへたどり着くことはついぞありませんでした。

 まるで夢見心地のようです。どうしてあの厳しそうな魔女さんがわざわざ私たちのところまできて呪いをとき、再び魔法をかけてくれたのかわかりません。


 「それが彼女にとって必要なことだったからだよ。」


 伯爵様は何かご存知のようでしたが、それだけしかおっしゃいませんでした。私にはなぜそれが魔女さんに必要だったのかわかりません。きっと勉強が足りないのでしょう。いつかわかる日が来るかもしれません。
 今は会えなくても、これからまた彼らにあえる日が来ることを私は待っています。お願いを聞いてもらったのに、私は魔女さんに何もお返しできていません。ディアヴォロさんにもお礼を言えていません。私がぐうぐうと寝ている間に何もかも終わってしまっていてまるで取り残されてしまった気分なのです。だからいつか、立派な人間になって、二人に恩返しがしたいのです。

 人間として、シロとして生きていく私は、伯爵様に引き取られることになりました。
 周囲には死んでいた親戚として紹介され、女でありながら身内を守るために立ち回る武勇伝がまことしやかに囁かれるようになっています。反対にぱいにゃんは行方不明、ということになりました。人間たちの間では猫は死ぬ時に姿を消すといわれているらしく、そうおかしなことでもなかったようです。事実を知っているのはマルコ・アルディーロさんだけのようですが、彼はいまだに胡乱げな目で見ながら時折猫じゃらしをチラつかせてきます。

 伯爵襲撃の首謀者であるジャンは一度だけ会いました。彼は処刑されることはありませんでしたが牢屋に入れられていました。
 うなだれていた彼に声を掛けると、勢いよく顔を上げそれからボロボロと泣き始めました。ジャンは伯爵を殺そうとした悪い人です。けれど根は決して悪いわけではありませんでした。生きていてくれてよかったと、閉じ込めて、殺しかけてしまってすまなかったと、彼は泣きながら私に言いました。行き場のない怒りをどうすることもできなかったのでしょう。それで伯爵様に向けてしまった、それだけなのでしょう。したことは許されることではありません。
 しかし今、攫われた彼の妹ルーチェ・ブジャルドの捜索を進めています。近隣の領主たちにも触れ回り、各地で売られていた、売られていった子供たちの保護をしているようです。きっとジャンも、ここで終わるということはないでしょう。まだきっと彼はやり直せると思うんです。



 ふと、窓の外に飛んでいる蝶を見つけました。白くて黒い斑のある蝶は右へ左へ上へ下へと踊るように飛んでいます。
 クラウス様は飛び回るのははしたないから、と窘められますがこればかりは仕方がないことだと私は思うのです。幸い今クラウス様は席を外しており、私を見ている人は誰もいません。
 窓を開けてバッと飛び出します。捕まえたら伯爵に見せてあげましょう。

 ひらひらと飛ぶ蝶を追いかけていますと、いつの間にかお屋敷の敷地から出てしまっていました。これはまずい、とお屋敷に戻ろうとすると、一人の男性が目に入りました。彼も舞う蝶を見つめています。金貨のような目がキラキラと太陽を反射させていました。


 「お嬢さん、俺に何か用かい?」
 「いえ、お兄さんが私の知り合いによく似ていたので。」
 「あれ、そうかい。知り合いの名前は?」
 「彼はディアヴォロさんと言いました。」


 人間のこの男性と猫の彼を似ているのは少し変かもしれませんが、金貨のような目が、来ている黒い服が、とてもよく似ていると思ったのです。もっとも、服は着替えてしまえば変わるので似ているのは目くらいかもしれません。けれど一瞬彼がいたように思えたのです。


 「おお、珍しいこともあるもんだね。俺の名前もディアヴォロっていうんだ。」
 「すごいです!目も話し方も似ていて名前もおんなじなんて!」


 もしかしたらディアヴォロというのはよくある名前なのかもしれません。あまりたくさん知り合いのいない私には、どんな名前が多いだとかはあまり詳しくありません。しかしお兄さんは少しおかしそうに笑います。


 「あまりいい名前じゃないから少ないんだけどね。」
 「ディアヴォロさんはどんな意味なんです?」
 「ディアヴォロは悪魔って意味さ。……ああお嬢さん、そんな顔をしないでくれよ。」


 思わず心が顔に出ていたようです。慌てて顔を隠します。人になってからは思っていることや考えていることが全部顔に出るようになってしまいました。
 しかしなぜ悪魔なんて名前を付けたのでしょう。名前は親から子供への最高のプレゼントだというのに。悪魔だなんていわれたら、呼ばれるたびにきっと悲しくなってしまいます。黒猫のディアヴォロさんも、本当は辛い思いをしていたのかもしれません。


 「俺はあんまり好きじゃなかったんだけどな、最近はあだ名で呼んでくれる人ができたんだ。」
 「あだ名?愛称のことですね?」


 嬉しそうにお兄さんは笑います。きっとその愛称を彼はとても気に入っているのでしょう。誰かに言いたくて仕方がない、この喜びを誰かと共有したいというお顔です。幸せをおすそ分けしてもらおうと私もドキドキしながら愛称を待ちます。


 「“ディア”って呼んでくれるんだ。スペルは違うけど“親愛なる”のディアとよく似てるだろ?」
 「ディアさん!素敵な愛称ですね?」
 「だろ?もしお嬢ちゃんの知り合いのディアヴォロに会うことがあったら、提案してみると良い。喜ぶかもしれない。」
 「わかりました!最近お会いできていませんが、探して呼んでみせます!」


 妙な使命感にかられながら、手を振り去っていくディアさんの背中を見送ります。
 きっと愛称を付けてくれた人のことが、ディアさんは大好きなのでしょう。好きな人からもらった名前は本当に宝物のようで、呼ばれるたびに幸せになることを私は知っています。


 「シロ!」
 「クラウス様!」
 「部屋で待っているようにと言っただろう。」
 「申し訳ございませ、ん。」


 そこでハッとしました。蝶はいつの間にかどこかへ行ってしまったようで、すでに影も形もありませんでした。


 「……クラウス様に蝶を捕まえてお見せしたかったのですが、取り逃がしてしまいました……。」
 「……いや、蝶は良いよ。でも突然いなくなると心配になる。どこかへ行く時は一声かけてくれ。」


 困ったように少し笑いながら私を抱き上げてくださいました。高い視界のままお屋敷の方へと向かっていきます。正直周りの人間で誰かに抱き上げてもらっているのを見たことがないので、人としてどうなのかと思いますが、猫であった時のように抱っこしてくれたり撫でてくれたりするのが変わらなくてうれしいです。


 「クラウス様、お願いがあるのです。」
 「なんだ?」


 シロという名前も呼ばれ慣れました。しかしやはり、たまにはキラキラと輝くような、あの柔らかい音の名前を呼ばれたいのです。


 「……名前を呼んでいただけませんか?」


 クラウス様は少し虚を突かれたような顔をしましたが、すぐに優しく笑いました。


 「ぱいにゃん。私のかわいい子。」



***********



 「ディア、」
 「はあい。なんだ?やっぱ長く暮らした土地を離れるのは寂しいか?」
 「……まあ多少の感慨がないこともないわ。」


 小さな馬車には人が二人だけ乗れるスペース。美しく愛らしい魔女の膝にはガラスケースに入った一輪のヘリクリサムが乗せられていた。ベルを埋葬した場所にエーヴァが咲かせた花。


 「ただここは狭かった、とても。離れればよく分かるわ。あの中にいたころはあの場所がすべてだと思っていたのに。」
 「そうかい、エーヴァ。この世界は君の思っているよりもずっとずっと広く大きい。」

 小さな世界は異なることを許さない。
 人と違う文化を。人と違う見た目を。人と違う知識を。
 小さな世界は、大義名分を得るとどこまでも残酷になる。

 まったくもって醜いものだ。
 けれどその中でも美しい、稀有なものを見つけられたなら、きっとそれで十分だった。


 「さあ、じゃあその世界どこから見て回れば良いものかしら。」
 「まずは南から。夏に向かう南の国々は、太陽に愛された民が住む。それから東へ向かおうか。時間は無限。可愛い魔女がこの世のすべてを見たいのなら、すべての国を、街を訪れよう。いつまでもどこまでも、俺は君の手を引くよ。」
 「……物好きな悪魔ね、ディア。」


 馬車はイチジク、馬は鼠、御者は木人形、乗り込んでいるのは魔女と悪魔。魔法でできた不思議な馬車は、誰に気づかれることもなく南へ南へ進んでいた。
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