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宵の狸とパンケーキ 2
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「知りたいか?」
愉快そうに口角が吊り上がった。
心臓が早鐘を鳴らす。そうだ、もう半年近くになるのだ。にも拘わらず記憶は何一つ戻ってきていない。夏には一応山から下りてはみたものの、これといった収穫はなかった。
本当にこのままこの花橘にいて、私の記憶は戻ってくるのだろうか。
「本当に、」
「骨董屋、うちのバイトを揶揄うのはやめろ」
気が付けば橘が私の背後に立っていた。迷惑そうな表情をあからさまに客へ向けるのは珍しい。それにしても足音はしていたはずなのに橘が店に戻ってくるのに全く気が付かなかった。
「やあい、銀杏臭いぞ橘」
悪ガキのような野次を飛ばす客はころりと態度を変えた。
「骨董屋?」
「挨拶が遅れたなぁ。俺は“骨董屋”の槐。人の世と妖の世、彼岸と此岸を渡り歩き、変わった品々を売っては買い、買っては売る、しがない商人だ。よろしく頼むぜ、お嬢ちゃん」
芝居がかった様子で一礼する骨董屋に橘は底冷えするような視線を送っている。
「みっともなく子供を揶揄うな。勝手な興味で人間を引っ掻き回すな」
「揶揄ってはいない。ただ面白そうだと思っただけだ。橘こそ珍しいじゃないか。なぜこの娘を花橘に置いている? 何か琴線ふれたかお前にしてはらしくない判断だ」
骨董屋と呼ばれた男がへらへらと笑いながら言う。
「この娘が望むならすぐにでも記憶を戻してやればいい」
「……無理にすれば禍根を残す可能性もある。あくまでも日々の中から記憶を取り戻すべきだ。記憶を失うにはそれ相応の理由がある。記憶だけ戻せばいいものじゃない」
橘の言葉にはっとする。
始めから、少しずつ思い出していけばいいと言っていた。そして進展がないことに焦りを覚えていたが、彼の言うことはもっともだ。何もないのに記憶喪失になるはずがない。私にはきっと、何かがあった。それこそ、記憶がなくしてしまった方がいいようなショッキングなことだとか、あるいは何かの事件に巻き込まれてしまっただとか。そして記憶を取り戻させるためにその衝撃的な事実をぶつけでもしたら、記憶が戻っても私の心が無事とも限らない。
「お優しいことだ。だがそれは本当に優しさか? この娘のことを思えば早々に記憶を戻して叩き出してやった方がいいだろう。ここにいることは、少なくとも最適解じゃあない。それともなんだ、先代と重ねでもしているのか」
「黙れ」
鳥肌が立ち嫌な汗が流れる。すぐそばから立ち上る怒気に息の仕方を忘れた。その怒りは私に向いているわけじゃない。もう笑みを消した骨董屋に向けられているが、それでも逃げ出したくなるほどの圧を感じた。骨董屋は地雷を踏んだのだ。しかもおそらく、確信犯。
「無駄口叩きに来ただけなら帰れ。お前の暇つぶしに付き合ってやるほど俺は寛容じゃないし、花橘は暇じゃない」
「まさかあ、仕事さ。商売をしに来たんだ。まあその前にこのケーキと茶ぁ飲んでるうちは、俺も客さ」
威嚇するように睨みつけていたが、骨董屋はどこ吹く風と言わんばかりにティーカップを煽った。
一体何が地雷だったのか、想像もできない私は身のやり場がなく、視線を宙に彷徨わせた。説明を乞えばきっと骨董屋はべらべらと話すだろうし、橘を再び怒らせるだろう。だが橘にそれを聞く勇気はない。わざわざ怒らせようとは思えないし、傷つけるかもしれないことを聞いていい立場でもない。
もう一切れのパウンドケーキを一飲みにして、骨董屋は立ち上がると脇に置いてあった木箪笥を開けた。橘は彼を見張るように睨みつけ言葉を発することなく私の隣で仁王立ちしていた。
「さて、一心地ついた。仕事といこうじゃないか。橘、金に換えたいもんがあるなら持ってきな。見てやる」
一瞬橘は私の方を見やるが、ふいと店の奥へと引っ込んだ。
「お嬢ちゃん、ベニといったか。さてこれだけアイツのことを煽り倒しておいて、俺が追い出されることなく、しぶしぶながら俺の言うことを橘が聞くのはなんでだと思う?」
「えっと、古い知り合いだから、ですか?」
彼らの様子を見ていると気心知れた仲のように見える。ただただこの骨董屋の性格が悪いだけで、橘は彼のことを心底嫌悪したり警戒したりはしてない。
「ふはは、それもあるな。だがそれ以上に橘は俺を邪険にできない理由がある」
悪戯をする子供のようににんまりと笑うとひどく幼く見えた。
「骨董屋の俺は花橘に集まる変わったものを買い取って、これまた変わり者にそれを売る。……花橘での飲食や薬の代金は大抵の場合が物々交換だ。現世で使われる人の通貨での支払いは狸や狐、人の世で生活している奴らに限られる。俺がいるから花橘はやっていけている側面もある」
徐に箪笥の下段を引くとそこには大量の札束が入っていた。びっしりと敷き詰められた紙幣、いったいいくら持ち歩いているというのか。
「俺は花橘でしか手に入らない珍品を高値で買い取る。そして価値のわからん変人にこれまた高値で売りつける。win-winの関係さ」
お金のハンドサインをする骨董屋だが、どことなく胡散臭い。ただ初見で人間だと思ってしまった理由はわかった。彼の身に着けるものどれもが古さを感じさせない現代のものだ。ただ組み合わせと趣味の悪さで浮世離れした変人に見える。
奥から戻ってきた橘の手にはいくつかの木箱が重ねられている。思えば半年間この骨董屋は来ていなかったのだ。であれば売るものも溜まっているだろう。なにより今まで人間の通貨をほとんど受け取らないで花橘を経営できていたことに驚愕だ。
「濡れ女の鱗、アラクネの糸、送り狼の牙」
「本当にお前のところは変わったものが集まるなあ。来た甲斐があるってもんだ」
骨董屋の言い値で売っているらしく、余計な言葉の一つも交わされず珍品たちはぽんぽんと紙幣に姿を変えていく。それらの価値をわからない私からしたら卒倒しそうだ。ただ橘もその価値を理解しているか怪しいし、骨董屋自身も正しい価格で買い取っているとも限らない。そもそもこういった珍品は需要と供給で金額が動くと思えば適正価格という概念すらないのかもしれない。次々と紙幣と引き換えに箪笥の中へ珍品が吸い込まれていく。体積を無視したキャパシティにもはや驚いたりはしない。彼らは私たちとは違うルールの中で生きているのだ。
「それじゃあま、今回はこんなもんか」
箪笥を閉めた骨董屋と橘の間には空になった木箱と積みあがる札束がある。二人の浮世離れした風体も相まって、札束は映画のセットの小物のように見える。けれどそれがすべて本物だというとなんとも言えない緊張感が背筋を走る。今このタイミングでほかの客に来てほしくない。
「あれ、槐のおじさんだ!」
「おじさんはやめてくれ。とんでもねえ爺とは自覚してるが、おじさんと呼ばれるとえも言われないダメージを受ける」
遅れて店の奥から姿を現した飛梅を骨董屋は慣れた様子で抱き上げる。一瞬親子か兄妹のようにも見えたが骨董屋の奇抜な衣装のせいで誘拐現場にしか見えなくなってしまった。そもそも二人とも見た目と年齢がかけ離れているのだが。
「どこ行ってたの? お土産ある?」
「ねだり上手だなあ飛梅は。しばらく知人の元を訪ねまわっててな、そっちで手に入れた海の木の根付だ。これからもここにいてくれよー」
姪っ子におもちゃを買い与える叔父のようだが、実際福の神でもある座敷童が花橘から出て行ってしまうとほぼ間違いなく潰れてしまうので取引先でもある骨董屋からすれば切実な願いだろう。
「あの、海の木って何ですか?」
こっそり橘に耳打ちする。
「通常、珊瑚のことだ。かつてそう呼ばれていたことがあった、が」
「が?」
「本当にあれが珊瑚なのか、それともまた別の海の中に生える特殊な木なのか、それは奴にしかわからん」
なるほど、二人は楽し気に話しているが片や何を扱っているわからない者なのだ。何を渡していてもおかしくない。それこそ人間が知らない特殊なものでも。
「それじゃあ、ベニのお嬢ちゃんも手ぇ出しな」
「え、は、はい!」
ほとんど反射的に両手を出すとその中にペンダントが落とされた。
「ペンダント、ですか?」
「そうだがそうじゃない。蓋ぁずらしてみな」
言われるがままに銀色のペンダントを指でずらすと中から鏡が現れた。
「きれいな鏡ですね……」
「ああ、水晶でできた鏡だ」
ロケットの中の小さな鏡に思わず見とれる。ロケットの表面や裏側には繊細な彫金細工が施されていて、水晶でできた鏡面は普通の鏡とは違う輝きを放っていた。どこか不思議な心地のする鏡だが、手放したくなるような異様さはない。
「お近づきの印だ、取っておいてくれ」
「ありがとうございます!」
答えてからはっとする。ここは一度遠慮したり辞退するものだったのではないだろうか。けれど骨董屋は気にした風もなくにこにこしている。そして相変わらず不機嫌な橘は私の手からパッと鏡を攫っていって鏡を眺め透かしている。おそらく不審な点や危険なものではないか見極めているのだろう。必要なことであることはわかるのでいい子で待つ。
ふ、と骨董屋が身を屈ませて私の耳元に口を寄せた。
「本当に記憶を取り戻したいと思ったら、その鏡に向かって『真実を映し出せ』と言え」
「っ、」
ほんの一瞬、たった一言で、橘ですら気づいていない。笑ってもいない、淡々とした声で骨董屋は私にささやくとすっと離れた。
「……妙なもんではなさそうだな」
「無礼な奴だな。お近づきの印に変なもの渡すわけがないだろう。鏡は悪意から守ってくれる。お守りとしては上出来だろ」
再び私の手に戻ってくる水晶の鏡。よく見てみるもこれと言って変わったところはない、素敵な鏡だ。けれどさっきとは違う。ばくばくと心臓が大きな音を立てた。
これに向かって、一言呟くだけで、私の消えた記憶が戻ってくるのだろうか。
「それじゃ、俺はそろそろ行くぜ。面白いもん見せてもらったな」
「次は金丹を持ってこい」
「やだね。まだやれん。まあまた遊びには来るぜ。楽しみにしておいてくれ」
巨大な箪笥をまるで重さなど感じないようにひょいと背負うと、骨董屋はさっさと暖簾をくぐり出て行った。そして店の外からシャン、と金属音がしたと思うと濛々と白い煙が立ち込め店の中にまで入り込んできた。
「げほっげほ……! なんですか今の……!?」
「骨董屋が帰っただけだ。徒歩でも帰れるくせに、お前に派手なところを見せたかったんだろうよ」
煙が晴れるとそこにはもう骨董屋の姿はなかった。
愉快そうに口角が吊り上がった。
心臓が早鐘を鳴らす。そうだ、もう半年近くになるのだ。にも拘わらず記憶は何一つ戻ってきていない。夏には一応山から下りてはみたものの、これといった収穫はなかった。
本当にこのままこの花橘にいて、私の記憶は戻ってくるのだろうか。
「本当に、」
「骨董屋、うちのバイトを揶揄うのはやめろ」
気が付けば橘が私の背後に立っていた。迷惑そうな表情をあからさまに客へ向けるのは珍しい。それにしても足音はしていたはずなのに橘が店に戻ってくるのに全く気が付かなかった。
「やあい、銀杏臭いぞ橘」
悪ガキのような野次を飛ばす客はころりと態度を変えた。
「骨董屋?」
「挨拶が遅れたなぁ。俺は“骨董屋”の槐。人の世と妖の世、彼岸と此岸を渡り歩き、変わった品々を売っては買い、買っては売る、しがない商人だ。よろしく頼むぜ、お嬢ちゃん」
芝居がかった様子で一礼する骨董屋に橘は底冷えするような視線を送っている。
「みっともなく子供を揶揄うな。勝手な興味で人間を引っ掻き回すな」
「揶揄ってはいない。ただ面白そうだと思っただけだ。橘こそ珍しいじゃないか。なぜこの娘を花橘に置いている? 何か琴線ふれたかお前にしてはらしくない判断だ」
骨董屋と呼ばれた男がへらへらと笑いながら言う。
「この娘が望むならすぐにでも記憶を戻してやればいい」
「……無理にすれば禍根を残す可能性もある。あくまでも日々の中から記憶を取り戻すべきだ。記憶を失うにはそれ相応の理由がある。記憶だけ戻せばいいものじゃない」
橘の言葉にはっとする。
始めから、少しずつ思い出していけばいいと言っていた。そして進展がないことに焦りを覚えていたが、彼の言うことはもっともだ。何もないのに記憶喪失になるはずがない。私にはきっと、何かがあった。それこそ、記憶がなくしてしまった方がいいようなショッキングなことだとか、あるいは何かの事件に巻き込まれてしまっただとか。そして記憶を取り戻させるためにその衝撃的な事実をぶつけでもしたら、記憶が戻っても私の心が無事とも限らない。
「お優しいことだ。だがそれは本当に優しさか? この娘のことを思えば早々に記憶を戻して叩き出してやった方がいいだろう。ここにいることは、少なくとも最適解じゃあない。それともなんだ、先代と重ねでもしているのか」
「黙れ」
鳥肌が立ち嫌な汗が流れる。すぐそばから立ち上る怒気に息の仕方を忘れた。その怒りは私に向いているわけじゃない。もう笑みを消した骨董屋に向けられているが、それでも逃げ出したくなるほどの圧を感じた。骨董屋は地雷を踏んだのだ。しかもおそらく、確信犯。
「無駄口叩きに来ただけなら帰れ。お前の暇つぶしに付き合ってやるほど俺は寛容じゃないし、花橘は暇じゃない」
「まさかあ、仕事さ。商売をしに来たんだ。まあその前にこのケーキと茶ぁ飲んでるうちは、俺も客さ」
威嚇するように睨みつけていたが、骨董屋はどこ吹く風と言わんばかりにティーカップを煽った。
一体何が地雷だったのか、想像もできない私は身のやり場がなく、視線を宙に彷徨わせた。説明を乞えばきっと骨董屋はべらべらと話すだろうし、橘を再び怒らせるだろう。だが橘にそれを聞く勇気はない。わざわざ怒らせようとは思えないし、傷つけるかもしれないことを聞いていい立場でもない。
もう一切れのパウンドケーキを一飲みにして、骨董屋は立ち上がると脇に置いてあった木箪笥を開けた。橘は彼を見張るように睨みつけ言葉を発することなく私の隣で仁王立ちしていた。
「さて、一心地ついた。仕事といこうじゃないか。橘、金に換えたいもんがあるなら持ってきな。見てやる」
一瞬橘は私の方を見やるが、ふいと店の奥へと引っ込んだ。
「お嬢ちゃん、ベニといったか。さてこれだけアイツのことを煽り倒しておいて、俺が追い出されることなく、しぶしぶながら俺の言うことを橘が聞くのはなんでだと思う?」
「えっと、古い知り合いだから、ですか?」
彼らの様子を見ていると気心知れた仲のように見える。ただただこの骨董屋の性格が悪いだけで、橘は彼のことを心底嫌悪したり警戒したりはしてない。
「ふはは、それもあるな。だがそれ以上に橘は俺を邪険にできない理由がある」
悪戯をする子供のようににんまりと笑うとひどく幼く見えた。
「骨董屋の俺は花橘に集まる変わったものを買い取って、これまた変わり者にそれを売る。……花橘での飲食や薬の代金は大抵の場合が物々交換だ。現世で使われる人の通貨での支払いは狸や狐、人の世で生活している奴らに限られる。俺がいるから花橘はやっていけている側面もある」
徐に箪笥の下段を引くとそこには大量の札束が入っていた。びっしりと敷き詰められた紙幣、いったいいくら持ち歩いているというのか。
「俺は花橘でしか手に入らない珍品を高値で買い取る。そして価値のわからん変人にこれまた高値で売りつける。win-winの関係さ」
お金のハンドサインをする骨董屋だが、どことなく胡散臭い。ただ初見で人間だと思ってしまった理由はわかった。彼の身に着けるものどれもが古さを感じさせない現代のものだ。ただ組み合わせと趣味の悪さで浮世離れした変人に見える。
奥から戻ってきた橘の手にはいくつかの木箱が重ねられている。思えば半年間この骨董屋は来ていなかったのだ。であれば売るものも溜まっているだろう。なにより今まで人間の通貨をほとんど受け取らないで花橘を経営できていたことに驚愕だ。
「濡れ女の鱗、アラクネの糸、送り狼の牙」
「本当にお前のところは変わったものが集まるなあ。来た甲斐があるってもんだ」
骨董屋の言い値で売っているらしく、余計な言葉の一つも交わされず珍品たちはぽんぽんと紙幣に姿を変えていく。それらの価値をわからない私からしたら卒倒しそうだ。ただ橘もその価値を理解しているか怪しいし、骨董屋自身も正しい価格で買い取っているとも限らない。そもそもこういった珍品は需要と供給で金額が動くと思えば適正価格という概念すらないのかもしれない。次々と紙幣と引き換えに箪笥の中へ珍品が吸い込まれていく。体積を無視したキャパシティにもはや驚いたりはしない。彼らは私たちとは違うルールの中で生きているのだ。
「それじゃあま、今回はこんなもんか」
箪笥を閉めた骨董屋と橘の間には空になった木箱と積みあがる札束がある。二人の浮世離れした風体も相まって、札束は映画のセットの小物のように見える。けれどそれがすべて本物だというとなんとも言えない緊張感が背筋を走る。今このタイミングでほかの客に来てほしくない。
「あれ、槐のおじさんだ!」
「おじさんはやめてくれ。とんでもねえ爺とは自覚してるが、おじさんと呼ばれるとえも言われないダメージを受ける」
遅れて店の奥から姿を現した飛梅を骨董屋は慣れた様子で抱き上げる。一瞬親子か兄妹のようにも見えたが骨董屋の奇抜な衣装のせいで誘拐現場にしか見えなくなってしまった。そもそも二人とも見た目と年齢がかけ離れているのだが。
「どこ行ってたの? お土産ある?」
「ねだり上手だなあ飛梅は。しばらく知人の元を訪ねまわっててな、そっちで手に入れた海の木の根付だ。これからもここにいてくれよー」
姪っ子におもちゃを買い与える叔父のようだが、実際福の神でもある座敷童が花橘から出て行ってしまうとほぼ間違いなく潰れてしまうので取引先でもある骨董屋からすれば切実な願いだろう。
「あの、海の木って何ですか?」
こっそり橘に耳打ちする。
「通常、珊瑚のことだ。かつてそう呼ばれていたことがあった、が」
「が?」
「本当にあれが珊瑚なのか、それともまた別の海の中に生える特殊な木なのか、それは奴にしかわからん」
なるほど、二人は楽し気に話しているが片や何を扱っているわからない者なのだ。何を渡していてもおかしくない。それこそ人間が知らない特殊なものでも。
「それじゃあ、ベニのお嬢ちゃんも手ぇ出しな」
「え、は、はい!」
ほとんど反射的に両手を出すとその中にペンダントが落とされた。
「ペンダント、ですか?」
「そうだがそうじゃない。蓋ぁずらしてみな」
言われるがままに銀色のペンダントを指でずらすと中から鏡が現れた。
「きれいな鏡ですね……」
「ああ、水晶でできた鏡だ」
ロケットの中の小さな鏡に思わず見とれる。ロケットの表面や裏側には繊細な彫金細工が施されていて、水晶でできた鏡面は普通の鏡とは違う輝きを放っていた。どこか不思議な心地のする鏡だが、手放したくなるような異様さはない。
「お近づきの印だ、取っておいてくれ」
「ありがとうございます!」
答えてからはっとする。ここは一度遠慮したり辞退するものだったのではないだろうか。けれど骨董屋は気にした風もなくにこにこしている。そして相変わらず不機嫌な橘は私の手からパッと鏡を攫っていって鏡を眺め透かしている。おそらく不審な点や危険なものではないか見極めているのだろう。必要なことであることはわかるのでいい子で待つ。
ふ、と骨董屋が身を屈ませて私の耳元に口を寄せた。
「本当に記憶を取り戻したいと思ったら、その鏡に向かって『真実を映し出せ』と言え」
「っ、」
ほんの一瞬、たった一言で、橘ですら気づいていない。笑ってもいない、淡々とした声で骨董屋は私にささやくとすっと離れた。
「……妙なもんではなさそうだな」
「無礼な奴だな。お近づきの印に変なもの渡すわけがないだろう。鏡は悪意から守ってくれる。お守りとしては上出来だろ」
再び私の手に戻ってくる水晶の鏡。よく見てみるもこれと言って変わったところはない、素敵な鏡だ。けれどさっきとは違う。ばくばくと心臓が大きな音を立てた。
これに向かって、一言呟くだけで、私の消えた記憶が戻ってくるのだろうか。
「それじゃ、俺はそろそろ行くぜ。面白いもん見せてもらったな」
「次は金丹を持ってこい」
「やだね。まだやれん。まあまた遊びには来るぜ。楽しみにしておいてくれ」
巨大な箪笥をまるで重さなど感じないようにひょいと背負うと、骨董屋はさっさと暖簾をくぐり出て行った。そして店の外からシャン、と金属音がしたと思うと濛々と白い煙が立ち込め店の中にまで入り込んできた。
「げほっげほ……! なんですか今の……!?」
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