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紫苑とハーブのクラムチャウダー 11
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何の前触れもなく、一際冷たい風が吹いた。
背筋を悪寒が駆け抜け、足元は氷水に浸されたように凍り付く。
「橘さんっ……!」
「ああ、来たみたいだ」
開け放たれたままの戸の向こう。どこまでも広がる夜とすべてを飲み込むような鋭い雨の。その中に彼女は立っていた。
黒々とした影。雨に打たれまとわりつく襤褸。上げられた顔。
「紫苑」
彼女は顔を上げた。目はなくとも、私たちのことをしっかりと見ていた。
「久しぶりだな、紫苑。まだあっちには行けないのか」
「…………」
「ああ、こいつは今年の春からここにいるバイトだ。記憶喪失でどこにも行けないから、記憶が戻るまでここで働いてる。お前の置いていった本が役に立ってるよ」
「…………」
視線を固定させられたまま一歩も動けない私の脇を抜けて、橘は入り口へと歩み寄った。
「いい加減、山の中を歩き続けるのも疲れたろう。今日みたいに雨が降れば寒い」
「…………」
「昼、地獄に住む獄卒が来てたんだ。そいつはもう帰ったが、お前も一緒に連れて行ってやればよかった。罪がなければ、あの世はそんなに悪いものじゃないらしいぞ」
返事をしない、いやできない紫苑に対して、橘はつらつらと話す。私からは後ろ姿しか見ることができない。
異形と化した最愛の人を前にしているには、あまりにも淡々としていた。嘆くでも泣き崩れるでもなく、まるでそれが当然のように、橘は紫苑に語り掛けている。
「……あぁ」
呼吸の仕方を思い出した私の身体から、息が漏れた。
あの人はもはや嘆くことさえできないのだと。
何をしても、何も変わらない。自分も誰も、彼女を助けることはできない。
ならばこの日、冬の雨の日訪れる彼女と逢瀬を重ねよう。何もできなくともただ、待っていようと。
「お前はまだ俺のことを覚えてくれてるか?」
崩れた脳はとうになく、低い声を響かせる鼓膜など残ってはいないだろう。
それでも橘は待つ。言葉をかける。
「お前が忘れても俺は絶対に忘れたりしない。俺はいつまでもここで待ってる。お前がここへ戻ってくるのを、お前がいつかここへ来なくなるのを、必ず待ってる」
あと一歩先、その先に紫苑はいる。けれど橘はその一歩を踏み出すことはなかった。
そして紫苑もまた、花橘の入り口に立ちながらその敷居を跨ぐことはない。戸に置かれた南天とヒイラギが、この店自体にかけられた守りが、それを許さない。
「お前が来そうな日はクラムチャウダーを作ってる。ハーブの入ったクラムチャウダーが好きだったよな。店の料理の中で一番こだわってたレシピだ。匂いでわかるだろ」
橘は決してそれを食べるようにと、彼女を招かない。その正体を知っていても、どれだけ傍にいたいと思っても、同じ轍を踏みはしない。それは総じて、招き入れてはいけないものだから。
「お前がレシピを残してたからその通りに作れるようになった。お前がいなくなってから練習したんだ。お前の作った味を、忘れる前に」
それはどんな時間だったんだろうか。
紫苑の始めた花橘を、橘はどんな思いで引き継いだのか、どんな思いで妖たちを迎えたのか。紫苑のいない花橘に一人残されたただの人間である橘は、何を思って薬膳を作っていたのだろう。
「だから紫苑、もうお前がいなくても、俺も花橘も大丈夫だ。お前がいなくてもお前の残したものはここにある。お前が生きていた証拠はここにあり続ける。だから」
紫苑が欠けてばかりの顔を戸に寄せた。
「もう大丈夫だ」
震えても、涙ぐんでもいない声は静かに花橘の中に落ちた。
その言葉とともに紫苑が突然泥の中に崩れ落ちた。
「…………」
橘はただ膝をついた紫苑を眺め、そうして歪に蠢きながら再び立ち上がる彼女を黙って見つめていた。
「声が、聞こえたんでしょうか……?」
「……さあな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
そうであったら良い、という希望は口にしなかった。
ふと蠢く彼女が入り口から離れる素振りを見せた。
「た、橘さん、行っちゃいます! 飛梅を呼んでこないと……!」
あまりの衝撃にすっかり忘れていたが、飛梅もまた彼女の来訪を待っていたのだ。このままでは今年飛梅は彼女と会えないこととなってしまう。
「ああ、呼ばなくていい」
「でも、」
「紫苑は夜が明けるまで、もしくは雨が止むまで花橘の周りを歩き続ける。一晩中雨はやまないはずだ。夜明けまで紫苑はここにいる。別の入り口を探しに行くだけだ」
「あっ……」
言われてみれば、飛梅はただ窓の方を見つめていた。彼女は紫苑がそこに現れるのを知っていたのだ。きっと二人は、ずっとそうして紫苑と会ってきたのだ。橘は玄関で紫苑を迎え、飛梅は窓越しに彼女と会う。決して二人そろって彼女を迎えないのは、二人が人間と妖だからだ。同じ悲しみを抱えていても、その隔たりは大きく深い。
紫苑はずるりと身体を引き摺りながら庭の方へと回りこもうとしていた。
「あ、あの!」
とっさに出た声は震えて中途半端にひっくり返っていた。バクバクと心臓が音を立てて、まとわりつく冷気を振り払うように息を吐いた。
「今年からここでお世話になってるベニです! ここで薬膳の勉強をさせてもらってます!」
「ベニ、どうした」
「橘さんにはとてもよくしてもらってます! 行く当てのない私を拾ってくれました! 飛梅も、無知な私にいろんなことを教えてくれます!」
声を振り絞る。たとえ聞こえていなくても、たとえ理解されなくても。
「私は二人が大好きです! あなたの作った花橘が大好きです! まだ作れるものは少ないし、勉強だって足りないけど、あなたの作ったものを作れるようになります! 誰もあなたのことを忘れないし、あなたのものを作る人がいる限り、あなたの欠片はずっと花橘にあります! あなたがここにいなくても、橘さんも飛梅も、みんな大丈夫です。だからどうか、」
紫苑は倒れこむように一歩踏み込む。
「どうか心配しないでください、紫苑さん!」
私の言葉なんかに、彼女を救う力はない。未練でも後悔でもなくなく、骨董屋の手によって今も動き続ける彼女に、慰めの言葉も激励の言葉も意味などない。
それでももし、ほんの少しでも彼女に声が届いているなら、ほんの一欠片でも彼女の心が残っているなら、伝えたかった。
誰よりも優しくて、自分の危険よりも困っている妖を優先させるような人なら、きっと残された橘たちのことを、とても心配しているだろうから。
一瞬だけ、彼女がこちらを振り向いたような気がした。
それはたぶん、気のせいだろうけど。
背筋を悪寒が駆け抜け、足元は氷水に浸されたように凍り付く。
「橘さんっ……!」
「ああ、来たみたいだ」
開け放たれたままの戸の向こう。どこまでも広がる夜とすべてを飲み込むような鋭い雨の。その中に彼女は立っていた。
黒々とした影。雨に打たれまとわりつく襤褸。上げられた顔。
「紫苑」
彼女は顔を上げた。目はなくとも、私たちのことをしっかりと見ていた。
「久しぶりだな、紫苑。まだあっちには行けないのか」
「…………」
「ああ、こいつは今年の春からここにいるバイトだ。記憶喪失でどこにも行けないから、記憶が戻るまでここで働いてる。お前の置いていった本が役に立ってるよ」
「…………」
視線を固定させられたまま一歩も動けない私の脇を抜けて、橘は入り口へと歩み寄った。
「いい加減、山の中を歩き続けるのも疲れたろう。今日みたいに雨が降れば寒い」
「…………」
「昼、地獄に住む獄卒が来てたんだ。そいつはもう帰ったが、お前も一緒に連れて行ってやればよかった。罪がなければ、あの世はそんなに悪いものじゃないらしいぞ」
返事をしない、いやできない紫苑に対して、橘はつらつらと話す。私からは後ろ姿しか見ることができない。
異形と化した最愛の人を前にしているには、あまりにも淡々としていた。嘆くでも泣き崩れるでもなく、まるでそれが当然のように、橘は紫苑に語り掛けている。
「……あぁ」
呼吸の仕方を思い出した私の身体から、息が漏れた。
あの人はもはや嘆くことさえできないのだと。
何をしても、何も変わらない。自分も誰も、彼女を助けることはできない。
ならばこの日、冬の雨の日訪れる彼女と逢瀬を重ねよう。何もできなくともただ、待っていようと。
「お前はまだ俺のことを覚えてくれてるか?」
崩れた脳はとうになく、低い声を響かせる鼓膜など残ってはいないだろう。
それでも橘は待つ。言葉をかける。
「お前が忘れても俺は絶対に忘れたりしない。俺はいつまでもここで待ってる。お前がここへ戻ってくるのを、お前がいつかここへ来なくなるのを、必ず待ってる」
あと一歩先、その先に紫苑はいる。けれど橘はその一歩を踏み出すことはなかった。
そして紫苑もまた、花橘の入り口に立ちながらその敷居を跨ぐことはない。戸に置かれた南天とヒイラギが、この店自体にかけられた守りが、それを許さない。
「お前が来そうな日はクラムチャウダーを作ってる。ハーブの入ったクラムチャウダーが好きだったよな。店の料理の中で一番こだわってたレシピだ。匂いでわかるだろ」
橘は決してそれを食べるようにと、彼女を招かない。その正体を知っていても、どれだけ傍にいたいと思っても、同じ轍を踏みはしない。それは総じて、招き入れてはいけないものだから。
「お前がレシピを残してたからその通りに作れるようになった。お前がいなくなってから練習したんだ。お前の作った味を、忘れる前に」
それはどんな時間だったんだろうか。
紫苑の始めた花橘を、橘はどんな思いで引き継いだのか、どんな思いで妖たちを迎えたのか。紫苑のいない花橘に一人残されたただの人間である橘は、何を思って薬膳を作っていたのだろう。
「だから紫苑、もうお前がいなくても、俺も花橘も大丈夫だ。お前がいなくてもお前の残したものはここにある。お前が生きていた証拠はここにあり続ける。だから」
紫苑が欠けてばかりの顔を戸に寄せた。
「もう大丈夫だ」
震えても、涙ぐんでもいない声は静かに花橘の中に落ちた。
その言葉とともに紫苑が突然泥の中に崩れ落ちた。
「…………」
橘はただ膝をついた紫苑を眺め、そうして歪に蠢きながら再び立ち上がる彼女を黙って見つめていた。
「声が、聞こえたんでしょうか……?」
「……さあな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
そうであったら良い、という希望は口にしなかった。
ふと蠢く彼女が入り口から離れる素振りを見せた。
「た、橘さん、行っちゃいます! 飛梅を呼んでこないと……!」
あまりの衝撃にすっかり忘れていたが、飛梅もまた彼女の来訪を待っていたのだ。このままでは今年飛梅は彼女と会えないこととなってしまう。
「ああ、呼ばなくていい」
「でも、」
「紫苑は夜が明けるまで、もしくは雨が止むまで花橘の周りを歩き続ける。一晩中雨はやまないはずだ。夜明けまで紫苑はここにいる。別の入り口を探しに行くだけだ」
「あっ……」
言われてみれば、飛梅はただ窓の方を見つめていた。彼女は紫苑がそこに現れるのを知っていたのだ。きっと二人は、ずっとそうして紫苑と会ってきたのだ。橘は玄関で紫苑を迎え、飛梅は窓越しに彼女と会う。決して二人そろって彼女を迎えないのは、二人が人間と妖だからだ。同じ悲しみを抱えていても、その隔たりは大きく深い。
紫苑はずるりと身体を引き摺りながら庭の方へと回りこもうとしていた。
「あ、あの!」
とっさに出た声は震えて中途半端にひっくり返っていた。バクバクと心臓が音を立てて、まとわりつく冷気を振り払うように息を吐いた。
「今年からここでお世話になってるベニです! ここで薬膳の勉強をさせてもらってます!」
「ベニ、どうした」
「橘さんにはとてもよくしてもらってます! 行く当てのない私を拾ってくれました! 飛梅も、無知な私にいろんなことを教えてくれます!」
声を振り絞る。たとえ聞こえていなくても、たとえ理解されなくても。
「私は二人が大好きです! あなたの作った花橘が大好きです! まだ作れるものは少ないし、勉強だって足りないけど、あなたの作ったものを作れるようになります! 誰もあなたのことを忘れないし、あなたのものを作る人がいる限り、あなたの欠片はずっと花橘にあります! あなたがここにいなくても、橘さんも飛梅も、みんな大丈夫です。だからどうか、」
紫苑は倒れこむように一歩踏み込む。
「どうか心配しないでください、紫苑さん!」
私の言葉なんかに、彼女を救う力はない。未練でも後悔でもなくなく、骨董屋の手によって今も動き続ける彼女に、慰めの言葉も激励の言葉も意味などない。
それでももし、ほんの少しでも彼女に声が届いているなら、ほんの一欠片でも彼女の心が残っているなら、伝えたかった。
誰よりも優しくて、自分の危険よりも困っている妖を優先させるような人なら、きっと残された橘たちのことを、とても心配しているだろうから。
一瞬だけ、彼女がこちらを振り向いたような気がした。
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