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紫苑とハーブのクラムチャウダー 12
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一歩外に踏み出すと地面が凍り付いていた。
木々の間から見える空はどこまでも高く青い。昨日の豪雨などまるで知らないかのように晴れ渡っていた。冴えた空気が目に痛くて涙がにじむ。雨で凍った地面を拭いつけると薄氷が小気味良い音を立てた。
紫苑は夜明けとともに姿を消した。きっとまだこの山のどこかに一人、いるのだろう。
飛梅は奥の座敷で寝ている。本来であれば座敷童である彼女に睡眠は必要ない。ただ、今の彼女には睡眠という行為が必要だったのだろう。飛梅が彼女とどんな話をしたのか、私は知らない。
橘は夜が明けるとともに自室へ引っ込んで寝ている。今日はもう店は開けないと言っていた。仕込みはしてあったところを考えると、いつもは翌朝には通常営業に戻っているのだろう。
「私のせいかな……?」
余計なことをしたかもしれない、という思いがぬぐい切れない。いつもなら二人はきっと粛々と彼女のことを迎え、そうして送るのだろう。なのに今年に限って何の事情も知らない私が乱入してしまった。
話を聞いたのも、紫苑に会ったのも、私の意志だ。誰のためでもなく、私がそうしたかったからだ。もしかしたら私が余計に二人を疲れさせてしまったかもしれない。だとしたら申し訳ない、とは思う。けれど後悔はしていなかった。
冷え切った手をこすり合わせる。
二人はよく眠っている。私が起きだしてあれこれと歩き回っているが二人の部屋からは何の音もしない。一晩中起きていて、身も心も疲れたのだろう。かくいう私もとても眠い。けれど私にはやることがあった。
冷たい空気を深く深く吸い込む。
「槐さん! どこですか! いますよね!」
いまだかつてないほどの大声を上げる。近くにいた雀が驚いて飛んで行った。早朝の山に私の声が響くが、幸い花橘の中からは何の音も聞こえない。彼らには聞こえていないと信じている。
突然ひゅっと背後から音がした。
「俺を呼んだか?」
「……お久しぶりです、槐さん」
どこからともなく現れた槐は、もう軽薄な笑みさえ浮かべていなかった。
「朝っぱらから何の用だ? そう暇でもないんだが」
「徹夜明けですもんね、ごめんなさい」
「徹夜も何も、俺には睡眠の必要がない」
ぴりぴりとした緊張感が鳩尾に刺さる。
以前会った時、月の祭りで会った時とは明確に違う。あの時は突如として現れ私を揶揄い、楽しんでいた槐。だが今は違う。私が呼び出しそして問い詰めようとしている。今の槐には、私に対する敵意も害意もある。震えそうになる足に力を入れて地面を踏みしめた。
「紫苑さんを、ご存じですか?」
「ああ」
「あの人が亡くなっていることも?」
「ああ」
「その方が、いまだに彼岸へ行くこともできず此岸を彷徨っていることも、ご存じですか?」
「…………」
「動き続ける死体として、昨日花橘を訪れていたことも、ご存知ですよね」
紫色の目が私を冷たく見下ろした。その目からは感情が読み取れない。いつ爆発してもおかしくない地雷原を歩いている自覚はあった。
「……紫苑さんを縛っているのは、あなたですよね、槐さん」
「だからどうした」
誤魔化すでも狼狽えるでもなく、槐は答えた。飛び出しそうな心臓を飲み込むように唾を飲み込む。
「……どうして、そんなことを?」
「生きていてほしいと願って何が悪い。だから香を焚いた。その魂を、躰に結んだ」
大きな口が不満げに歪む。
「あいつは俺のものだ。幼いころから人の間で生きられず、逃げてばかりの紫苑に、俺はすべてを与えた。居場所を与え、知識を与えた。知りたいと言うものはすべてを教え、見たいと言うものはすべてを見せた」
怒鳴られているわけでもないのにびりびりと身体が痺れた。直接言葉に乗せられてぶつけられる「不満」。紫苑という人への不満だ。すでに行き場を失った怒り、悲しみ、不服、不完全燃焼感、そのすべてが煮詰められ凝縮された“不満”。対象が自身でなくとも身が竦んだ。
「すべてを教えたつもりだった。だが足りなかったと気づいた」
「……何が、足りなかったんですか?」
「死への恐怖だ」
三つ目は私をとらえた。ふと苦しくなり息ができなくなる。
「ひゅっ……」
気づけば大きな手が私の首に掛かっていた。
気道が閉まり、何かが潰れたような音を立てる。自分の思っていたよりも紫の三つ目は私の眼前まで迫っていて、草食動物らしい歯列がよく見えた。
「死への恐怖が足りなかった。死の知識が足りなかったんだ。死んだらどうなるのか。魂が、魄がどこへ行くのか、残された死体がどうなるのか。……残された者がどうなるのか」
手に力が籠められ両足から地面が離れる。生理的な涙で景色が滲んだ。
「お前もそうだろう? 俺の遊びが過ぎたようだ。花橘でのうのうと暮らしているうちに死の恐怖を忘れたと見える」
「う、ぐぅ……、は……」
「他人の過去の心配などしていないで、自分の記憶をもう少し探したらどうだ臆病者。お前のそれは自分の問題から逃げているだけだ。人に構っている暇などないぞ」
ぱっと手を離され地面に崩れ落ちる。ようやく広がった気道に目いっぱい空気を取り込む。酸素が足りずくらくらする頭を何とか起こし、私を見下ろす槐を見上げた。
「橘や飛梅じゃないな。あいつらは俺を疑ってはない。……さてはあの兎の小僧か。あれがお前に入れ知恵したか」
「げっほげほ……見る人が見れば、すぐにわかるそう、で」
「なるほど余計なことを」
機嫌悪そうに髭も何もないつるりとした顎を撫でる。
私はこの神獣の骨董屋がどれだけ強いのかを知らない。けれど危険なことだけは私でもわかった。
「馬鹿な紅於に、良いことを教えてやろう」
「いい、こと……?」
今日初めて槐はその顔に笑みを浮かべた。
酷薄で恐ろしい、ただ口角が上がっているだけの笑み。
「お前には時間がない。いつまでも花橘にはいられない」
「それは、」
「いいやわかってない。もってあと数か月。そうなればもうお前は戻れない」
「戻れない……?」
「ああ、記憶が戻ったとしてもお前に帰る場所はない。そして記憶が戻った時、ずっとここにいることもできない。あとはただ、」
じゃら、と大きな錫杖が低い音を立てた。夢から覚めるように、目の前にいたはずの槐は姿を消していた。まるで最初から怪しげな骨董屋などいなかったというように。
けれどきっと、まだこの近くにいるのだろう。
紫苑の魂を死体に縛る槐は、同時に紫苑から縛られどこかへ行ってしまうことはできない。
どこへもいけない、どこへも行かない。
あの恐ろしい妖が、何を考えているか私にはわからなかった。
「あとはただ、地獄へ落ちるだけだ」
井戸の淵から突き落とすように骨董屋槐は私にそう囁いた。
木々の間から見える空はどこまでも高く青い。昨日の豪雨などまるで知らないかのように晴れ渡っていた。冴えた空気が目に痛くて涙がにじむ。雨で凍った地面を拭いつけると薄氷が小気味良い音を立てた。
紫苑は夜明けとともに姿を消した。きっとまだこの山のどこかに一人、いるのだろう。
飛梅は奥の座敷で寝ている。本来であれば座敷童である彼女に睡眠は必要ない。ただ、今の彼女には睡眠という行為が必要だったのだろう。飛梅が彼女とどんな話をしたのか、私は知らない。
橘は夜が明けるとともに自室へ引っ込んで寝ている。今日はもう店は開けないと言っていた。仕込みはしてあったところを考えると、いつもは翌朝には通常営業に戻っているのだろう。
「私のせいかな……?」
余計なことをしたかもしれない、という思いがぬぐい切れない。いつもなら二人はきっと粛々と彼女のことを迎え、そうして送るのだろう。なのに今年に限って何の事情も知らない私が乱入してしまった。
話を聞いたのも、紫苑に会ったのも、私の意志だ。誰のためでもなく、私がそうしたかったからだ。もしかしたら私が余計に二人を疲れさせてしまったかもしれない。だとしたら申し訳ない、とは思う。けれど後悔はしていなかった。
冷え切った手をこすり合わせる。
二人はよく眠っている。私が起きだしてあれこれと歩き回っているが二人の部屋からは何の音もしない。一晩中起きていて、身も心も疲れたのだろう。かくいう私もとても眠い。けれど私にはやることがあった。
冷たい空気を深く深く吸い込む。
「槐さん! どこですか! いますよね!」
いまだかつてないほどの大声を上げる。近くにいた雀が驚いて飛んで行った。早朝の山に私の声が響くが、幸い花橘の中からは何の音も聞こえない。彼らには聞こえていないと信じている。
突然ひゅっと背後から音がした。
「俺を呼んだか?」
「……お久しぶりです、槐さん」
どこからともなく現れた槐は、もう軽薄な笑みさえ浮かべていなかった。
「朝っぱらから何の用だ? そう暇でもないんだが」
「徹夜明けですもんね、ごめんなさい」
「徹夜も何も、俺には睡眠の必要がない」
ぴりぴりとした緊張感が鳩尾に刺さる。
以前会った時、月の祭りで会った時とは明確に違う。あの時は突如として現れ私を揶揄い、楽しんでいた槐。だが今は違う。私が呼び出しそして問い詰めようとしている。今の槐には、私に対する敵意も害意もある。震えそうになる足に力を入れて地面を踏みしめた。
「紫苑さんを、ご存じですか?」
「ああ」
「あの人が亡くなっていることも?」
「ああ」
「その方が、いまだに彼岸へ行くこともできず此岸を彷徨っていることも、ご存じですか?」
「…………」
「動き続ける死体として、昨日花橘を訪れていたことも、ご存知ですよね」
紫色の目が私を冷たく見下ろした。その目からは感情が読み取れない。いつ爆発してもおかしくない地雷原を歩いている自覚はあった。
「……紫苑さんを縛っているのは、あなたですよね、槐さん」
「だからどうした」
誤魔化すでも狼狽えるでもなく、槐は答えた。飛び出しそうな心臓を飲み込むように唾を飲み込む。
「……どうして、そんなことを?」
「生きていてほしいと願って何が悪い。だから香を焚いた。その魂を、躰に結んだ」
大きな口が不満げに歪む。
「あいつは俺のものだ。幼いころから人の間で生きられず、逃げてばかりの紫苑に、俺はすべてを与えた。居場所を与え、知識を与えた。知りたいと言うものはすべてを教え、見たいと言うものはすべてを見せた」
怒鳴られているわけでもないのにびりびりと身体が痺れた。直接言葉に乗せられてぶつけられる「不満」。紫苑という人への不満だ。すでに行き場を失った怒り、悲しみ、不服、不完全燃焼感、そのすべてが煮詰められ凝縮された“不満”。対象が自身でなくとも身が竦んだ。
「すべてを教えたつもりだった。だが足りなかったと気づいた」
「……何が、足りなかったんですか?」
「死への恐怖だ」
三つ目は私をとらえた。ふと苦しくなり息ができなくなる。
「ひゅっ……」
気づけば大きな手が私の首に掛かっていた。
気道が閉まり、何かが潰れたような音を立てる。自分の思っていたよりも紫の三つ目は私の眼前まで迫っていて、草食動物らしい歯列がよく見えた。
「死への恐怖が足りなかった。死の知識が足りなかったんだ。死んだらどうなるのか。魂が、魄がどこへ行くのか、残された死体がどうなるのか。……残された者がどうなるのか」
手に力が籠められ両足から地面が離れる。生理的な涙で景色が滲んだ。
「お前もそうだろう? 俺の遊びが過ぎたようだ。花橘でのうのうと暮らしているうちに死の恐怖を忘れたと見える」
「う、ぐぅ……、は……」
「他人の過去の心配などしていないで、自分の記憶をもう少し探したらどうだ臆病者。お前のそれは自分の問題から逃げているだけだ。人に構っている暇などないぞ」
ぱっと手を離され地面に崩れ落ちる。ようやく広がった気道に目いっぱい空気を取り込む。酸素が足りずくらくらする頭を何とか起こし、私を見下ろす槐を見上げた。
「橘や飛梅じゃないな。あいつらは俺を疑ってはない。……さてはあの兎の小僧か。あれがお前に入れ知恵したか」
「げっほげほ……見る人が見れば、すぐにわかるそう、で」
「なるほど余計なことを」
機嫌悪そうに髭も何もないつるりとした顎を撫でる。
私はこの神獣の骨董屋がどれだけ強いのかを知らない。けれど危険なことだけは私でもわかった。
「馬鹿な紅於に、良いことを教えてやろう」
「いい、こと……?」
今日初めて槐はその顔に笑みを浮かべた。
酷薄で恐ろしい、ただ口角が上がっているだけの笑み。
「お前には時間がない。いつまでも花橘にはいられない」
「それは、」
「いいやわかってない。もってあと数か月。そうなればもうお前は戻れない」
「戻れない……?」
「ああ、記憶が戻ったとしてもお前に帰る場所はない。そして記憶が戻った時、ずっとここにいることもできない。あとはただ、」
じゃら、と大きな錫杖が低い音を立てた。夢から覚めるように、目の前にいたはずの槐は姿を消していた。まるで最初から怪しげな骨董屋などいなかったというように。
けれどきっと、まだこの近くにいるのだろう。
紫苑の魂を死体に縛る槐は、同時に紫苑から縛られどこかへ行ってしまうことはできない。
どこへもいけない、どこへも行かない。
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