薬膳茶寮・花橘のあやかし

秋澤えで

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反魂香と鶏生姜の粥 5

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 「紅於、紅於? そこにいるの? まだそこにいる?」

 私の肩のあたりに視線を彷徨わせる奈子に、はっきりと私が見えているわけではないとわかった。けれどさっきは確かに、私と彼女の目はあった。

 「奈子、私はここにいるよ」

 私の返事は揺蕩う香煙を揺らすこともない。吐いた息も音も、この大気を揺らすことはない。そんな当たり前の事実に自嘲した。声は聞こえていないだろう。けれど奈子ははじかれたように私を見た。

 「紅於、そこにいるなら聞いて。馬鹿みたいな私の言い訳を聞いて。怒っていいから、呆れていいから。それでいいから、帰ってきて」

 記憶の中にある彼女の姿よりずっとやつれていた。目の下には濃い隈が、明るい色の艶のない髪が、彼女の憔悴しきった心をうつす。けれどその両目は、私を見据えんとする両目だけは赤々と燃えていた。

 「私、ずっと紅於が欲しかった。紅於の1番になりたかった。紅於は優しいよ。私がしたいって言うことは大抵付き合ってくれる。一緒にいてくれる、笑ってくれる。……でもそれじゃ足りなくなった。ずっと一緒にいたかった。私が好きなのと同じくらい、紅於にも私を好きでいてほしかった」

 はっきりと見ることもできない私に対して、彼女は懺悔のように胸の内を吐き出した。

 「ずっと一緒にいたかったから、一緒にいられるようにしたよ。志望校も紅於が選んだところを、私も選んだ。でもそれももう無理なんだ。今だけじゃなくてこれからのことを見なきゃいけなくて、将来のことを考えなくちゃいけなくなった。きっと卒業したら別々の大学に行く。別のものを目指しながら、別のところに住んで、別の世界を歩くことになる。それが私は、怖くて怖くて仕方がなかった。あなたのことが好きな私だけがここに取り残されて、紅於はきっと一人で歩いて行けてしまうから。私のことなんかいつかの思い出にされてしまうから。だから」

 一瞬言葉を止めて、血を吐くような声で、呟いた。

 「だから私はわざと車道に向かって転んだ」

 大粒の涙がいくつもその目からあふれ出す。

 「紅於は、私のことを庇ってくれるってわかってたから、危ないって、気を付けてって、心配しながら怒ってくれるって思った。そうしたら、少しだけ私は安心できる気がしたから、でも」

 でも私は奈子の予想を裏切り、勢い余って車道に飛び出した。撥ねられるつもりなんて最初からなかった奈子の代わりに私はトラックに撥ねられた。

 「こんなことになると思ってなかったの。馬鹿だよね。謝って許されることなんかじゃない。私が馬鹿だった。身勝手に紅於に依存して、傷つけた」
 「奈子、」
 「馬鹿だ、私。救いようがないくらい」
 「違う、違うよ奈子、」

 自分の言葉で自分を傷つける幼馴染を止めようとする。けれど私の言葉は彼女には届かない。私の姿も声も、彼女は知りえない。

 「許さなくていい、恨んでいい。もう二度と私に会わなくていい。でもどうか生きていて。戻って、生きて。私のことを怒ってるから戻らないの? 二度と顔も見たくないから戻らないの? それでいいから。私のことなんて嫌いでいいから、生きていて。あなたが戻ってくるのを待ってる人がいる」
 「…………」
 「何年でも何十年でも待つよ。あなたが帰ってくるのを待ってる。ねえ、聞こえてる? それすら今の私にはわかんない。もう紅於も見えないの。でも聞いてるなら、見てるなら、お願いだから戻ってきて……! あなたが生きることだけを祈って待ってるから」

 反魂香が揺らぐ。ただでさえ細かった煙は風にかき消されかろうじて細い線を引くだけだ。真っ赤な夕日の中、練色の煙は私と奈子の間に立ち上る。

 「奈子、」

 私はほとんど無意識に彼女に駆け寄った。大粒の涙を流しながら、嗚咽交じりに叫ぶ彼女に。私がなんとかしなくては、そう思ったのだ。

 薄く小さな手を取ろうとして、私の半透明な手は宙を掻いた。

 「ああ、そっか」

 今の私じゃ彼女の涙を拭うことも頭を撫でることもできないんだ。
 一際強い風が吹いた。

 「奈子」

 消え行く反魂香の霞の中、もう一度、目が合った。

 「紅於、私待ってるから、絶対ずっと、待ってるから! あなたが戻ってくること、待ってるから。だって、約束したでしょう、一緒にお花見しようって」
 「奈子、私はっ」
 「大好きだから、待ってるよ」
 「奈子!」

 風が止むとともに、反魂香は燃え尽き、甘い香りは掻き消えた。
 糸が切れたように膝から崩れ落ちた奈子を、私はただ真正面から見ていた。

 もう彼女に私の姿は見えていない。

 「……桜良紅於は、見えたか」
 「いや、いました……紅於が、そこに……もういないけど、確かにいました」

 静かに問う橘は私のことなど見えないように奈子を抱き起した。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる彼女は痛々しいが、どこか晴れやかだった。

 「紅於と、話ができた気がします。……きっと戻ってきてくれます」
 「……そうか。もう直に暗くなる。麓まで送る」
 「ねえ橘さん。今日は本当ありがとうございました」

 愛想なく見下ろす橘に怯むことなく、彼女は笑った。

 「私、いつまでだって待てる気がします。今日のことがあったから、あの子がまだ近くにいてくれるって、わかりました。私の目には見えなくても、あの子はいるって。いつか戻ってきてくれるって」
 「…………」
 「その日まで私、生きていける気がするんです」

 麓へと向かう二人の背中を見送る。その背も木々も橙に染め上げる夕日は、目を焼くよう鋭さはなく、ただ温かく包み込むように花橘を照らしていた。

 どうしてあの子のことを忘れてしまったのか、何もかも忘れてしまったのか。今更になって静かに涙が溢れだす。頬を伝う涙は温かいのに、滴り落ちる粒は地面に染みを作る前に霧散していった。

 私は、私の身体は今も眠ったままなのだ。
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