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残酷な君は何度でも私を消し去る。

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壁にかかった時計を見上げると7時少し前を指していた。ため息をつきながら彼女の分の朝食の準備をした。

週はじめ、この時間。私にとって二番目に嫌なものだ。何をするにも億劫で、何もかもを投げ捨てて眠りについてしまいたいと思う。けれど私にはやらなければならないことがある。この屋敷の主のためにありとあらゆる仕事をこなす。最初こそまるでうまくいかなかったが、今では身体にすべて染み付いていて私の意思と関係なくそつなく身体は働く。今ではこの屋敷のすべてを私一人で執り行っていた。一瞬、自分は何をしてるんだろうと思うがそれも自重する。そもそもは自分の所為なのだから。



ソラルティエ・ヴァン・ウォルター。ヴァルテリア王国軍大尉であったはずなのに、今では戦敗国の令嬢の世話係をしている。それもこれも、すべては私の罪の所為なのだ。



ああ、今頃部屋でパニックを起こしているだろう、可哀想で愚かな女主人を迎えに行こう。

この時間。この時間が一週間で二番目に憂鬱だ。

これほど無為なことがあるだろうか。これほど不必要なことがあるだろうか。



何も生まない。何も生まれない。どこまでも無駄で非生産的な生活。誰も幸せになることはない。

唯一、唯一私たちが解放されるとき、それはきっと彼女が死を迎える時に他ならない。

いつか私は、死を与えることになるのだろうか。





「ああ、ステラ様起きていらしたんですね。」

「……貴方は、だれ」





ああ今日もまた、





「はじめましてステラ様。」





私たちのはじめましてが交わされるのだ。







***********







大陸の北に位置するヴァルテリア王国。国は歓喜に湧いていた。何十年もの確執のあった南の国クィントゥス王国をこの戦いで破ったのだ。国民は笑い、祝いの酒を呑む。2年近くに及ぶ戦争が勝利に終わり、ようやくぎすぎすした戦時中の空気から解放されたのだ。しかも戦勝国たるこの国は新たに領地を手に入れ、豊富な資源も手中に収めた。喜ばぬ者はいまい。

しかし、この戦争の火種となった男の存在を、彼らはちらりとも脳裏には浮かべていないのだろう。





「大尉ソラルティエ・ヴァン・ウォルター。」

「はっ、」





他でもない、私以外は。





「――貴殿に長期任務を申し渡す。」





上官からの辞令。華やぐヴァルテリア王都からクィントゥスに向かう馬車の中、歯を食いしばった。

蔑み、憐れみ、嘲り、不躾な視線は私に向けられていた。だがそれに反駁できる要素を私は何も持っていなかった。



戦争が終わり、国はあらゆるものを手に入れた。勝利を、富を、人民を、領地を。

それに対して私はあらゆるものを失った。手元に残ったものと言えば2階級昇進した部下たちくらいだ。

戦争は、完全なる勝利ではなかった。もちろん多数の戦死者、負傷者が出た。一部の戦いでは撤退を余儀なくされた。その戦いの一つ、ある一部隊の指揮を執っていたが私だった。それだけの話だ。

斃れ伏す部下たちを後目に、うっかり生き残ってしまった私を待っていたのは蔑みの視線だった。



『死んでしまえばよかったのに。』



その視線たちは如実に語っていた。

そうだろう、ああそうだろう。私だってそう思っている。なのにむざむざと無様に生き残ってしまった。かろうじて生き残った他の部下たちを自軍まで撤退させる仕事が私にはあったのだ。指揮官がいなくなれば、軍隊などよっぽど烏合の衆となり果てる。だから走ったのだ。無様にも敵軍から逃げ出したのだ。今でも私は、それが間違いだったなぞと微塵も思っていない。あれが最適解だったのだ。生き残った部下を見て、そう思った。

しかし失態は失態である。私は兵を消耗させ大事な軍の駒を失ったのだ。



そしてそれだけではない。



知らず唇を噛んでいた。愚かなる我が兄。戦争の引き金をただ一人の判断で引いた愚物。あれさえいなければ私がこんなことになることはなかった。少なくとももう少しましな処遇だったろうに。恨み言をつぶやけど、なしの礫。死人が謝罪することも開き直ることもない。





「――ステラ、フォン・ハインゼン。」





口の中で呟いた名前は一度も舌の上に乗ったことのない音をしていた。

クィントゥス王国王族、唯一の生き残り。いや正式には王族ではなく、王家に嫁いだ娘の姉。記憶障害を患った、憐れな女。故に一族郎党処刑から免れた、幸運な女。

そしてこの戦争の火種となり、すべてを失った被害者。



それとなく思いを馳せてみるものの何の感慨も浮かばず、渡された指令書から目を離した。

感慨なぞ、人並みなものだった。そんな私は冷血漢なのだろうか。

ステラ・フォン・ハインゼン。それは私の兄が2年前殺そうとした娘だった。





約2年前の冬、軍人である私の兄は勝手に国境を越えて、クィントゥスへと入り込んだ。農民の姿に身を窶し、その懐に小銃を抱えて。そしてとある田舎の娘を撃ち殺そうとした。それは当時のクィントゥス王国第一王子に嫁ぐはずの令嬢であった。しかし愚兄は仕損じた。それも中途半端に。勝手な行動は開戦の意とされ、冷戦状態からあっという間に加熱したのだ。そしてその原因たる愚兄は気が付けば殺されていた。それに対して大した興味はない。むしろ当然だ。勝手な行動をし、数多の命が失われたのだから。だからこそ思うのだ。



どうせ処刑されるのならきっちり仕留めてから死ねばよかったのに。

奴が仕留め損ねたせいで未だかつて聞いたこともない任務が言い渡されたのだ。長期任務という名をした実質期間無期限の任務。



生き残ったステラ・フォン・ハインゼンの見張り。

書類によると、ステラ・フォン・ハインゼンは記憶障害で2年前撃たれた日、私の兄に殺されそうになった日の前日で記憶が止まっており、長期記憶は一週間もたないという。

つまり憐れな記憶障害の女は永遠に2年前の一週間を過ごしているらしい。



自分が殺されかけたことを覚えていない。

妹が王家に嫁いだことも覚えていない。

戦争が起きたことを覚えていない。

戦争に負けたことも覚えていない。

自分の家族が一人残らず斬首されたことも覚えていない。



ここまでくるといっそ滑稽だ。

失ったものを、失ったことすら忘れ。忘れたことさえも忘れる。その原因が自分の兄だとしてもまるで喜劇のようじゃないか。



何も覚えていないとは、お幸せなことだ。

辛いことから、現実から逃げ出して、平和で幸せで穏やかだった過去の中にだけ生き続ける滑稽な女。

永遠の一週間を繰り返し続けるピエロ。

舞台とあらば手をたたいて笑ってやろう。しかしながらこれがこれから私が面倒を見なければならない娘となると苦虫を嚙み潰したようで、笑いの一つも出てこない。





 「大尉殿、そろそろクィントゥス王国に入ります。」

 「はっ、クィントゥス王国だろ、アルバトロス。」





 クィントゥス王国はもうない。いややたらと広いせいで統治の手こそ回っていないが、すでに王族の一人もいない国は、王国などと名乗ることはできない。

 馬車の窓から見たステラ・フォン・ハインゼンの住む領地は見渡す限りの白だった。深々と降る雪は影も見せず積もった雪たちと同化していく。かろうじてレンガの見えている細い道を馬車が走っていく。真白い丘をいくつか超えていくと尖塔が遠くに見えた。





 「もう、間もなくです。」

 「……ああ。」





 雪の丘を越えると、少しずつ街の全貌が明らかになる。やはり館付近は栄えているらしい。いや、きっと栄えていたらしいが正しいのだろう。もうその館に住むのは廃忘の娘ただ一人なのだから。街並みの向こうにはひたすらの灰が広がっている。そこでやっと、あの灰色が海なのだと気が付いた。重たげな雲と渦巻く海は境界線もあいまいにして降り注ぐ白を飲み込んでいた。





 「……こちらではどうなさるつもりですか?」

 「……指示としては、使用人として館に潜り込め、と。」

 「それは……、」

 「言うな。」





 アルバトロスの言葉を遮る。

 王国軍大尉から、廃忘の娘の使用人とは、屈辱というほかない。けれどきっとあのまま国に残り続けたとしてこれと等しい屈辱を味わったことだろう。



 私の処遇も処遇だが、アルバトロスもまた左遷されている。

 アルバトロスは私の部下であり、負傷しながらも戦場から帰還した。生きて帰ってきた部下たちは散り散りに、他の部隊へと異動していった。その中で、アルバトロスだけが私の下に残り続けた。何か考えがあるのか、それとも負傷により片目を失ったことで軍人としての自身に見切りをつけたのか、真意はきけていない。私に追従したアルバトロス・ジニストークスは伝令係として左遷された。

 私はこの地で廃忘の娘に関する報告書を書き、アルバトロスが週に一度これを受け取りにヴァルテリアから訪れることになる。アルバトロスもまた、無期限且つほとんど無意味な仕事に就くこととなった。





 「……無意味、」





 ふと口から零れ落ちる言葉はその意味の通り、何を誰に伝えるでもなく、冷たい空気の中に消えていった。

 無意味、私はそう感じている。だがしかしむしろ今の私にとって意味ある、有意義足ることが果たしてあるだろうか。私がここにいる意味は、私が生きている意味は、私が生き残ってしまっている意味は。

 意味などない、なにも。



 ただ生きてしまっているからその生を続行するだけだ。この生を捨てることに意味はなく、さりとて続けることにも意味はない。



 まったくお似合いではないだろうか。これから向かう屋敷の主とは。

 戦争により、争いにより何もかも失った。

 周囲の人間、地位、生きる意味。

 強いていうなれば、それを知覚し記憶できているかどうか。それだけ。



 何もかも失ったことを、思い出す度暗澹たる気分に突き落とされる私と、記憶することも思い出すこともなくただのうのうと生きる廃忘の娘。

 果たしてどちらの方がましだろうか。





 「……くだらん。」





 所詮は世間に捨てられた者同士、どんぐりに過ぎないのだ。







**********







 使用人、使用人、そんな言葉を頭の中に唱えながらハインゼン家の屋敷の廊下を歩いていた。廊下には質のよさそうな調度品が置かれ、扉には意匠を凝らしたような彫刻がなされている。きっとそれは美しいのだろうが、あいにくとそう言った心得など軍人にあるわけもなく、ただ無駄な貴族の道楽であると心の中で吐き捨てる以外にない。



 尤も、すでに軍人などではない。軍服は着替えいかにもそれらしいといえる使用人の服を着ている。制服を変えたからと言って傷つくようなプライドでもないのは幸いした。きっと生まれながらの純正軍人など、憤死するに違いない。飾り気のない燕尾服は、思ったよりも身に馴染んでいる。

 家令だという壮年の男はひどくびくびくしながら私の前を歩き、この家の主のもとへと先導している。この屋敷においてはこの臆病な男が私の上司となるわけだが、去勢が張り切れず時折小動物のような怯えを見せる灰髪はとてもではないが敬うに値しないと判断を下してしまう。もっとも、使用人の心得などない私はこの男に一からすべてを教わらなくてはならないのだが。単純な力で上下関係が決まらないのは随分と面倒だが、その単純さゆえに軍社会から放逐された私の言えることではない。





 「今からお嬢様のお部屋へ挨拶へ行く。知っているとは思うが彼女の記憶は一週間しか保たれない。古くからいる私たちのことは良いが君のことを新しく記憶することはないだろう。そこは留意してほしい。」

 「問題ない。」





 記憶されようと忘れられようと、それはどうでも良いことだ。私はただ監視し、報告をするだけ。記憶しては忘れていく、そんな哀れな娘の記憶から私の存在が消されようとも、都合のいいことこそあれど困ることはない。





 「……彼女は普通の女の子だ。そう言った尊大な物言いも直してもらいたいものだな。」



 汗をかきながら私に苦言を小男を見下ろすと何も言っていないにも関わらず焦ったように目を落ち着きなく彷徨わせた。怯えるくらいならばいっそ言わなければ良いものを。



 「……善処しよう。」





 できないことはないだろう。どうせ時間はいくらでもあるのだから。







 「クロッカス、彼は?」





 淡いドレスを着た女が、そこにいた。髪と揃いの金目が不思議そうに私を見ていた。手入れされた髪、傷のない指先、邪気の無い目。

 守られて守られて、痛みも苦労も何も無いままに生きてきたお嬢様。いや痛みも苦労も忘れてしまった、いびつな少女がいた。





 「……本日よりこちらで勤めさせていただく、ソラルティエ・ヴァン・ウォルターと申します。お見知りおきくださいませ。」

 「愛想の無い人ね。私はステラ・フォン・ハインゼン。よろしくお願いするわ。」





 さしたる興味も無いように彼女は片手を振った。下がっていいという合図であったが自分よりはるか年下の小娘にこのように扱われるのは、頭では理解しているが腹に据えるものがある。一瞬歪んだ顔を見ていたのか、隣にいる小男が跳ねた。知ってか知らずか、少女は再びこちらに視線を投げた。その金目はじっと私をみていた。思わずたじろぎそうになる。そうだ、これはあの感覚と似ている。軍人だからとじろじろとぶしつけに投げられる視線でも、道行く少年から憧憬の眼差しを送られるものでもない。





 「あなた、冬の空みたいな目をしているのね。」





 抱えられ母親の背中越しにこちらを見る、赤子の目だ。興味があるのかないのか、私を見ているのか見ていないのが、そんなよくわからないけれど、ただただ無垢な目。





 「ああ、今みたいな灰色の空じゃないわ。晴れた朝の空はとても高くてすんでいて、きれいなの。貴方の目はそれによく似てる。」





 何がうれしいのか楽しいのか、少女は笑う。





 「ソラルティエって長いし呼びづらいわ。貴方のこと、ソラって呼んでもいいかしら?」

 「……ええ、お好きにどうぞ、お嬢様。」





 ソラ、そんな愛称で呼ばれたことが幼いころにあったかもしれない。

 大尉ソラルティエ・ヴァン・ウォルターは先の戦争で死んだ。

 今ここに居るのはハインゼン家の使用人である”ソラ”だ。

 別人であると思えば、少しだけ心が軽くなった。

 どうせこれから長い長い時間を過ごすことになる。







*********







 「お疲れ様です、大尉。」

 「ああ、アルバトロスも。こんな辺境までご苦労。」





 一週間後、午後10時に見覚えのある馬車が止まる。報告書を受け取りに来たアルバトロスだ。封筒に入った報告書を渡す。



 『王妃の実姉、ステラ・フォン・ハインゼンに関する観察報告』



 書いてみればまったく馬鹿馬鹿しいことだ。本当に書くことがない。一週目ということで未だ彼女が記憶を失うところを目の当たりにしていないという理由もあるだろうが、彼女はただ日常を過ごしているだけだ。使用人たちに世話をされながら、この辺境で何不自由なく暮らしている。そんな少女の日常を記して上司に提出するのはなんとも言えない気分になる。





 「どんな娘でしたか?」

 「苦労も何も知らなそうな娘だ。生活自体は恵まれすぎているくらい。王妃の血族らしい、貴族の娘だ。」





 苦労はしているだろう、ただそれを覚えていないだけで。アルバトロスもそれはわかっていて、それに言及することはなかった。

 少女を見ていて思うのが、一週間というのはある意味ちょうどいい。使用人たちに少女があれやこれやと聞くのだ。妹のこと、親の子と、領地のこと、国のこと。彼らはそれを必死にごまかしたりお茶を濁したりする。その限界が一週間なのだ。記憶がなくなるまであと一日だが、彼女はかなり現状を訝しがっている。それはそうだろう。使用人たちはごまかし方を細かく指定していない。つまり複数に聞くことで綻びが出てしまっているのだ。詰めが甘いのは彼らが能無しであるからか、それともどうせ忘れるのだからと高を括っているからなのか。

 暗い雪道を行く馬車を見送った。







 「ねえソラ、みんな何か嘘をついてない?」





 不満げに唇を尖らせる少女にへたくそな愛想笑いを返す。





 「申し訳ございません。私はここに来たばかりで、何が嘘で何が本当で、どのように貴女様が違和感を抱いているのかわからないのです。」





 嘘は、割と得意だ。





 「家族みんながいないのは、寂しいわ。」





 十代の娘らしい萎れた様子に、特に憐れみは抱かなかった。

 当然の感情だろう。





 「……家族のところへ、送って差し上げましょうか?」





 気が付けばそう言っていた。何の感慨もなく、淡々と。

 彼女が死ねば、私はこのくだらない仕事から解放される。国に帰ってもまともな仕事はあまりもらえないだろうが、こんな死にかけた国の廃忘の娘の無為な世話より酷い仕事はないだろう。

 何より、この娘が死んでも誰も困らないのだ。誰もがこの娘を持て余している。哀れな被害者、殺す理由も大義名分もないため生かされているだけの籠の鳥。使用人たちの仕事はなくなるが、この無為な世話から解放される。

 それにこの娘だって一人家族に取り残されて生きるのはつらいだろう。



 つらつらとそれらしい言い訳が頭の中に溢れる。

 懐に入れたままの短銃に手が伸びた。

 せめて、あの愚兄のような間違いは起こさないよう、確実にいかせてあげよう。





 「……いいわ。私は確かに現状が不満だわ。けれど私をここに置いていったのも、何か理由があるのよ、きっと。お父様もお母様も、マリアも。なら私はここに居るのが仕事、ここにいなければならないのよ。」





 娘はそう毅然とした態度で答えた。

 自然、懐に伸びていた手が下へと落ちた。





 「……差し出がましいことをいって、申し訳ありませんステラ様。」

 「いいえ、心配してくれたんでしょう?そんなことを言ってくれたのは貴方だけだったからうれしかったわ。」





 くすくすと朗らかに笑う少女に一礼して、部屋を出た。

 彼女に会って一週間、初めてステラに心からの憐れみの情を抱いた。

 家族がどこかで生きていると信じている。

 いつか帰ってくると信じている。

 自分にも役割があるのだと気丈にふるまっている。

 いつかこの現状は変わると信じ、待っている。



 彼女は今日の夜眠りにつき、この一週間を忘れることとなる。

 どれだけ帰ってこない家族のことを待っているのか、それさえも忘れて。

 一週間生きて、そしてこれから無に帰す彼女を、憐れに思った。







**********







 「クロッカス、彼は?」





 淡いドレスを着た女が、そこにいた。髪と揃いの金目が不思議そうに私を見ていた。手入れされた髪、傷のない指先、邪気の無い目。





 「……はじめまして、本日よりこちらで勤めさせていただく、ソラルティエ・ヴァン・ウォルターと申します。お見知りおきくださいませ。」

 「愛想の無い人ね。私はステラ・フォン・ハインゼン。よろしくお願いするわ。」





 さしたる興味も無いように彼女は片手を振った。けれど少女は再びこちらに視線を投げた。その金目はじっと私をみていた。





 「あなた、冬の空みたいな目をしているのね。」





 ただただ無垢な目。





 「ああ、今みたいな灰色の空じゃないわ。晴れた朝の空はとても高くて澄んでいて、きれいなの。貴方の目はそれによく似てる。」





 何がうれしいのか楽しいのか、少女は笑う。





 「ソラルティエって長いし呼びづらいわ。貴方のこと、ソラって呼んでもいいかしら?」

 「……ええ、お好きにどうぞ、お嬢様。」





 この会話はもう何回目であっただろう。





 何度でも私にソラという名前を与える彼女は知らない。



 昨日私に一つ歌を歌って聞かせてくれたことを。

 先週珍しく空が晴れて、満点の星空を眺めたことを。

 3週間前氷柱の下がった木に硬い蕾を見つけたことを。

 彼女は何も覚えていない。



 ああ、小さなツバメが巣立っていくところを私と見ていたステラは、





 「ステラ様、」

 「なあに?」





 一体何週間目の彼女だっただろうか。







 「ねえ、ハンナとリチャード知らない?」

 「ええ、お聞きしております。ハンナは実家の母親の体調が芳しくなく、暇をいただいたと。リチャードは旦那様について新しい領地の方で向かったようです。」

 「あらそうなの?せめて挨拶くらいしたかったわ。」





 挨拶などできなかっただろう。二人とも、誰にも黙って姿を消した。半年以上前に。

 二人だけではない。一人二人、次々と姿を消していく。皆耐え切れなくなるのだ。この終わりのない日常に。保たれる平穏に。死んでいく国で時を止めたまま朗らかに暮らすステラの様子に。

 気が付けばここに来た時の半数に使用人の数は減っていた。皆表立って彼らを批判したりしない、できない。その気持ちが皆わかるためだ。そしていなくなった者を思いながら、一人残されるハインゼンの娘を思いながら、自分はいつこの家を出て行こうと、考えるのだ。

 先日、家令であるクロッカスが荷物をこっそりまとめているところを見た。

 私は彼に何も言わなかった。







 冬以外の季節が巡ってくると、彼女との会話には変化が生まれる。最後の記憶と窓の外の景色が違うことに気が付くのだ。こうなると、彼女の記憶喪失のことについて話さざるを得ない。

 彼女が日記を書いているのは状況の把握に役立った。この日記は冬の間は片付けられ、春になると彼女の机の上に置かれることになる。膨大な量のそれに、冬の描写がないとしても気に留めないだろう。





 「初めましてステラ様、私は貴女様の世話係をしている者です。どうぞお見知りおきください。」





 クロッカスという小男がいなくなったため私は自分で自己紹介をする必要がある。

 怪訝な顔で私を見るステラには慣れた。

 執事らしい小綺麗な笑顔を浮かべるのにも慣れた。

 けれど”はじめまして”という言葉を彼女に投げかけるのは、どうしても慣れなかった。



 いつからだろう、この屋敷に住むのがステラと私だけになったのは。

 いつからだろう、この家の雑事がすべてこなせるようになったのは。

 いつからだろう、はじめましてがうまく言えなくなったのは。

 いつからだろう、ソラルティエ・ヴァン・ウォルターと本名で名乗らなくなったのは。

 いつからだろう、ステラに忘れられたくないと思うようになったのは。





 「ステラ様、旦那様も奥様も、マリア様も、殿下も、もう皆さま亡くなられております。」

 「嘘っ、嘘よ!そんなはずないわ!だってみんな昨日まで元気に……!」

 「戦争に負けたこの国の上層部は皆処刑されたのです。貴方一人残して。」

 「やめて!貴方なんて嫌い!出てって!」





 「ステラ様、寂しいかもしれませんが来週には皆さまこのお屋敷に帰ってこられます。」

 「本当!?」

 「ええ、貴女様がご家族に会えないのと同じように、皆様もステラ様とお会いできないのは寂しいのですよ。」

 「うれしいわ!皆が帰ってきたらどんな話をしましょう。」





 「クロッカスたちはどこ?使用人は貴方しかいないの?」

 「ええ、流行り病のせいで今こうして貴女様のお世話ができるのは私しかいないのです。」

 「あらそう、大変ね。お見舞いに行った方が良いかしら?」

 「お控えくださいませ。皆決して貴女様に移すことのないように姿を見せないのですから。」





 「ねえ、皆いないなら、私も殺して。家族のいない世界に生きている意味なんてないわ。」

 「…………、」

 「ねえソラお願い、私はもう生きていたくないの。」





 「ソラ、貴方がいてくれてよかったわ。」

 「勿体ないお言葉です。」

 「婚約者がいなくて、私がもっと自由だったら貴方のことを好きになったかもしれない。」





 たくさんたくさん、話をした。

 どんなことを言えばどんな反応をするのか。嘘をついたり真実を教えたり、少し隠して少し見せて。

 ステラは泣いた。怒った。笑った。心配した。悲しんだ。喜んだ。感謝した。

 けれどどんなことをしたって、どんな話をしたって、





 「……貴方は、だれ」





 結局ここへ戻ってきてしまうのだ。





 「はじめましてステラ様、私は貴女様の世話係をしている者です。どうぞお見知りおきください。」





 週の始め、土曜日の朝は、世界で二番目に嫌いなもの。











 静かな部屋。カーテンは閉められ、一人の娘が穏やかに眠る。

 何の憂いもないように。何の恐れもないように。娘は寝ている。

 いつしか少女と呼べなくなった彼女は、次眠りから覚める時すべてを忘れている。

 もう彼女の周りには誰もいない。私以外。傍にいるのが自身をこんな状況にした人間の弟だけとは、なんという皮肉だろう。



 何もかもが不毛だ。彼女はただ生きている。何かを生むこともなく、どこへ行くでもなく、ただ永遠の一週間の繰り返し。

 苦しくはないだろうか。苦しくはないだろう、何もかも忘れてしまっているのだから。

 泣いた彼女も笑った彼女も、すべて今週の彼女に殺されてしまった。たくさんの亡骸の上に立っていることを、彼女は知らない。



 悲しくて仕方がない。何を、と聞かれてもきっとうまく語れない。けれどステラの傍に居続けてきた人間ならきっと、この悲しみを理解できるだろう。

 ただ、もう終わらせてあげたいと思ったのだ。

 私がここから去ればステラは死ぬ。現状を理解することなく、ただ一人死んでいくだろう。そんなみじめな終わり方にするくらいであれば、この嫋やかな命に終止符を打つのは自分でありたいと思うのだ。

 警戒心なんて知らないような安らかな表情。静かにベッドに近づいて、白く丸い額に銃口を当てた。



 死ぬことこそ、ステラの最上の救いだと思うのだ。

 この引き金を引いた時、それは甘美なものなのか、それとも今まで通り無機質なものなのか、それはどちらも想像できた。



 彼女の死に顔は、どうか穏やかなものであれと、身勝手にもそう願う。永遠の夢の終わりが、絶望であるなどと思いたくない。静かに、静かに、永遠と思われた夢はあえかな泡となり、消えていく。

 訪れる人など誰もいない、海の見える街で、大きな館を棺にして、本当の眠りについてくれ。

 引き金に掛けた指が震えた。





 「……?」





 まるで力が入らない指に、内心首を傾げた。

 これで良いはずだ。

 これが誰にとっても幸せな終わりなのだ。それなのに、指が震える。

 彼女がやめてくれと言ったわけでも抵抗したわけでもない。彼女は変わらず寝息を立てているだけ。



 最初から、殺すつもりだった。こんな辺境から早く引き上げて、少しでも早く元の地位に戻れるよう邁進するつもりだった。

 誰もいなくなったとき、ついてると思ったのだ。誰にもばれずに、ステラを殺すことができると。私一人、いくらでも偽装できると。

 それなのに、殺せない。

 ふと、頬が濡れていることに気が付いた。

 銃を下ろす。





 「……ああ、そうか。」





 いつからだろう。彼女を殺せないと思ってしまったのは。

 いつからだろう。彼女に死んでほしくないと思ってしまったのは。

 いつからだろう。彼女に幸せになってほしいと、願ってしまったのは。

 それはもう、憐れみの気持なんかじゃなかった。





 「……愛してしまっていたのか。」





 嘲り交じりのその言葉が、彼女に届くことはない。







 「……貴方は、だれ」

 「はじめましてステラ様、私は貴女様の世話係をしている者です。どうぞお見知りおきください。」





 もういい。もう何でもよかった。

 その朝から、あれこれとステラに話すことをやめた。今まで試してきた会話の中で、彼女が最も穏やかに過ごせる話題だけを選んだ。彼女が取り乱さない程度の真実を、嘘にくるんで彼女に伝えた。

 何も知らなくていい。何も覚えてなくていい。

 たとえこの時間が無為だとしても、どうか一週間が君にとって平穏なものであるように。



 無為で良い。



 「……貴方は、ソラっていうの?」



 無駄で良い。



 「そう、ソラはここが好き?」



 嘘で良い。



 「……昨日まで真冬だった。雪が積もっていて息が白くなるような。なのに今は真夏みたい。それに部屋の中のものも見覚えがないものばかりだわ。それに、」



 忘れて良い。



 「みんなはどこに居るの?」



 知らなくて良い。



 「ええ、好きよ。」



 どうか時を刻むことを忘れたこの箱庭で、笑っていて。







 ステラ。

 微かな晴れ間から、満点の星を見た。

 ステラ。

 麗らかな日の中、淡く咲く木蓮の花を見た。

 ステラ。

 注ぐ日差しを反射させる、紺碧の海と入道雲を見た。

 ステラ。

 涼やかな風に吹かれる、囁きあう森の紅葉を見た。



 今はいない愛しい君たちは、幸せな時を刻めていただろうか。







**********







 どうも、今週の彼女はおかしい。





 「……貴方は、だれ」

 「はじめましてステラ様、私は貴女様の世話係をしている者です。どうぞお見知りおきください。」





 はじめはいつも通りだった。真冬から真夏に変わった季節にパニックを起こす。落ち着くように宥めながら、この記憶障害について話、嘘にまみれた彼女の家族の話をする。そうすると三日目あたりは落ち着いてくれ、残りの四日間を比較的穏やかに過ごしてくれる。

 けれど今週の彼女は違う。いつもより落ち着くのが早く、私にあれやこれやと探りを入れるような発言をする。





 「ソラ、雨の日に海に入ったことはある?」

 「雨の日の海は天国に近いらしいわ。」

 「雨一つ一つが空から糸を垂らすの。いつも空とつながってる海からなら、その糸をつたって天国へ行けるそうよ。」





 いまだかつて、彼女がこんな話をしたことは一度もなかった。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が流れる。ステラの表情を伺ってみても、何を考えて話しているのかわからない。

 いつもと違う彼女を警戒しながら、今は亡き父親の部屋へと向かう彼女の後を追った。

 今週は、何か起きるかもしれない。絶対に避けなくてはならない、何かが。

 激しい雨の降る木曜日、何も起こってくれるなと願いながら封筒に報告書を入れた。





 悪天候であろうと、アルバトロスは時間通りやってくる。この時間帯ステラはすでに寝ていて、この屋敷で活動しているのは私だけとなる。

 雨よけのコートを着たアルバトロスが怪訝な顔をしていることに気が付いた。





 「……なんだ。ヴァルテリアで何かあったか?」

 「いえ、ヴァルテリアは何も変わりなく。……今こちらに来させていただいて、窓が一つ開いておりましたので。何なのか、と。」

 「窓?こんな天気で窓など開けるわけ、」 





 この屋敷の中にいるのは私とステラだけ。そして私は窓を開けてなどいない。





 「どういうことだ、ちょっと待て!開いていたのは二階の窓か!?」

 「え、ええ。二階の窓です。カーテンがはためいているほど大きく開けられていました。」





 二階の窓はいくつもある。けれど開いているのはステラの部屋で間違いないと確信した。

 状況を把握できていないアルバトロスを玄関に残し、二階へと駆け上がる。





 「ステラ様、ステラ様!いらっしゃいますか!」





 扉の前で叫ぶも返事はない。一枚の板越しでも風と雨音が聞こえてきた。

 マスターキーを使い鍵のかかった扉をこじ開けると、大きく開け放たれた窓と豪雨に濡れる部屋が飛び込んできた。





 「ステラ様っ……!」





 明かりの落とされた部屋に彼女の姿はない。二階の窓は決して低くない。けれど飛び降りられないわけではない。たとえそれが運動することとは無縁の令嬢であれ、本気になればあり得ないことではないだろう。頭に上っていた血が一気に足元へ落ちていくのを感じた。





 「いない、まさか……!」





 『雨一つ一つが空から糸を垂らすの。いつも空とつながってる海からなら、その糸をつたって天国へ行けるそうよ。』

 昼間の彼女の言葉を思い出した。





 「た、大尉!まさかハインゼンの娘がいなく……!?」





 遅れて部屋に入ってきたアルバトロスを我もなく怒鳴りつける。





 「っ海だ!行くぞ、彼女は海へ向かったかもしれない!」

 「は、こんな天気の中海って、そんな正気じゃ、」

 「話はあとだ、さっさと来い!手遅れになる前に探すぞ!」





 傘も持たず屋敷から飛び出す。夜の上に雨、視界も足元も悪い。海までは全力で走ったとしても10分はかかるだろう。けれどこの街で生きてきた彼女なら、視界の悪さもものともせず、向かうことができるだろう。

 もしかしたら彼女は、すべてを知ってしまったのかもしれない。

 戦争に負けたこと、家族が自分以外全員処刑されたことも、もう誰も自分の傍にはいないということも。

 すべてを知って、家族のもとへ行こうとしたのかもしれない。





 「ステラ様っどこですか!いるなら返事をして下さい!」





 雨と風に荒れる海は夏であろうとも身をさすように冷たい。真っ黒い波の間から、人のようなものは見えやしないか、波打ち際に流れ着いてはいないか、血眼になって探す。





 「……ステラッ!!」





 死んだ方が彼女にとっては幸せかもしれない。いつか、すべてを伝えた時死にたいと、殺してくれと懇願した。

 けれどもう、彼女に死んでもいいとは思えなかった。

 私のわがままだ。彼女に生きていてほしい。どうか笑っていてほしい。全部、私のエゴでしかない。

 赤の他人、それも自分を傷つけた人間の弟。私が彼女の人生に口出しする権利なんてない。

 それでも、





 「死なないでくれっ……!」





 こんな終わりは認められない。

 暗く冷たい海の中、誰にも見送られることなく、苦悶のまま、ひたすらの悲しみの中、絶望に満たされたまま、その命が終わりを迎えるなんて、そんなものは認められない。

 もしも彼女に終わりが来るとするなら、どうか安らかなものあってほしいと、傲慢な私は願うばかりなのだ。

 あの気丈な娘に、こんな冷たくて荒れた死は似合わない。





 夜が明けるまで駆けずり回って、結局ステラは見つからなかった。夜明けとともに止んだ雨、晴れ間から梯子のように光が海に降りてきていた。

 あの梯子があるのなら冷たく濁った海から逃れ、彼女も天へと昇れるだろうか。





 「お帰りなさい、ソラ。」

 「す、ステラ様……!?」





 満身創痍で、屋敷に戻ってきた私を迎えたのはけろっとしたステラだった。思わず膝から崩れそうになる。





 「いつの間にお戻りに……、いえ、昨晩は一体どこへ!?」

 「何を言ってるの?私は昨日ずっと屋敷の中にいたわ。雨の中、それも夜更けにどこかへ行くはずないじゃない。」

 「で、でも窓が、」

 「ごめんなさい、窓を閉め忘れて寝ちゃったみたいで。」

 「そんな……、」





 安堵と徒労感が背中に伸し掛かってくる。けれどやはり、無事でよかったと泣きたくなった。

 今も彼女は生きている。生きていてくれている。





 「そう、それとちょっと話したいことがあるの。」

 「はあ……なんでしょうか。」

 「その前に着替えね。そのままじゃあ風邪をひいてしまうわ。お茶も入れましょう。それと軽食は何かも用意しましょう。」

 「い、いえそこまでせずとも、食事の方は着替えたらすぐに準備しますので、お嬢さまはお部屋でお待ちを、」

 「いえ。」





 彼女は私が今までに見たことがない表情を浮かべていた。天真爛漫な顔でも憂うような顔でもない。綺麗な笑顔。





 「お客様にそんなことをさせるわけにはいきませんわ。」



 「――は、」



 「ハインゼン家長子、ステラ・フォン・ハインゼン。至らぬところもございましょうが家長としておもてなしさせていただきます、ソラルティエ・ヴァン・ウォルター大尉殿。」





 ああ、彼女はすべてを知ってしまったのだ。







********







 一人の部屋で腹を括る。私と同じく訳も分からず濡れネズミになったアルバトロスを返し、私室で彼女が来るのを待っていた。





 「お待たせいたしました。」

 「……お構いなく。」





 きっちりとした敬語でステラは私に話す。思えば彼女に敬語を使われたことは一度たりともなかった。最初彼女に会ったとき、遥か年下の小娘に片手で使われることに不満を抱いていたが今はあの気安さが懐かしい。



 つらつらと、何を知ったのか、昨日の騒動は何だったのかと話を聞く。彼女は落ち着いていた。何もかも受け入れたように。

 もっとパニックになるのではないかと思っていた。少なくともかつてはそうだった。何度か彼女にすべてを教えたことがあった。どれも漏れず、恐慌状態になっていた。けれど今の彼女はまるで動揺を見せない。淡々と、まるで答え合わせをするように。



 彼女がもし、すべてを知り、記憶を取り戻し、ヴァルテリア王国に対して犯行の意思を見せた場合殺すように命令をされていた。





 「ではどうぞ。」

 「……どうぞ、とはなんだ。」

 「痛いのは苦手なので、一思いに殺していただけるとありがたいです。」

 「なにをっ……!」





 淡々と、彼女は殺してくれと言った。かつての懇願ではない。それがまるで当然かのように。

 私の怒りなど、動揺などまるで意に介さずステラは言う。





 「私は死ねば、きっと家族に会いに行けます。私は死ねば、永遠の無為な1週間に終止符を打つことができます。そして何より、私が死ねば貴方はきっと母国へ帰れるでしょう?」





 それが、願いのはずだった。一番の結末じゃないか。彼女は死んで家族に会える。私は意味のないこの仕事から解放される。

 違うんだ。そうじゃないんだ。

 確かに願っていた。そうなることを。けれど今は違う。今私の一番の願いは、





 「…………駄目だ。」

 「……なぜ、」

 「駄目だ。私は、君を殺さない。私は君を、殺せない。私は、」



 君に生きていてほしいんだ。







 夜が来る。

 金曜日の夜。彼女が再びすべてを忘れる時。今はそれだけが救いだった。

 何の問題はない彼女はまたすべてを忘れる。そしたらまた、あの意味はないけれど、偽りの者であるけれど、幸せだと感じられる一週間が来る。何の情報も与えなければ殺してくれなどと言わない。日記も片付けてしまおう。彼女が余計なことに気が付かないように。

 そうすれば、この変わらない時間は続くのだ。



 いつもなら寝ている時間、彼女はまだ起きていた。





 「まだ、起きていたのか。」

 「眠りたく、ないので。」



 「でも眠いのだろう?」

 「……ええ、でも眠りたくないんです。」





 怖いのだろう、また忘れてしまうことが。すべてを知って、受け止めたのに、また振り出しに戻されるのが口惜しいのだろう。

 けれど彼女は、眠らなければならない。細い腕をつかみ、ベッドの上へと転がす。





 「ちょっと何をっ……!」

 「……良いから、寝ろ。寝てしまえ。」





 押さえつけてしまえば、非力な身体の抵抗なんてものはあってないようなものだ。そうでなくとも怒涛の情報の処理に疲れ切っているに違いない。眠ってしまうのも時間の問題だ。





 「忘れてしまえ、すべて。何も気にすることはない。何も憂うことはない。ただ君は、生きていればいい。」

 「嫌……私は、」





 我がままだとわかっている。自分勝手だとわかっている。君の幸せを私は共に願えない。





 「愛してる。だから、」





 可哀想な子よ、忘れてしまえ。





 「だから、何もかも忘れると良い。真実も、私の思いも、すべて。」

 「ソラ、」





 ああ名前を呼んでくれるのも最後だ。明日には、彼女は私に向かって誰だと問うだろう。





 「おやすみ。さようならステラ、また明日。」





 今日のステラには、きっともう二度と会えない。明日会うステラは、もう別の彼女なのだ。

 彼女の身体から力が抜けていく、瞼が重く閉じていく。彼女はもう、目をあけなかった。





 「……さよならステラ、愛してる。」





 彼女が私の言葉を覚えていることは決してない。

 暗い部屋の中、彼女の寝息だけが聞こえる。





 朝、彼女に会う土曜の朝が、この世で二番目に嫌いなものだ。

 そして金曜日の夜、眠りに落ちる彼女を見送るこの時間が、世界で何よりも、嫌いだった。





 どうか明日の朝生まれるステラよ。悲しみも絶望も知らない、無垢な娘であってくれ。

 臆病で小狡い俺はそんなことを願わないではいられない。

 彼女の記憶を奪うように、机の上から日記を持ち去った。







*********







 日が昇る前に動き出す。

 今日もまた土曜日の朝が来てしまった。彼女の部屋へ向かわなければならない。

 きっと彼女はパニックになっているだろう。何もわからず、反転した季節。日記も何も情報のない部屋。



 日が昇るころ、彼女の部屋へと向かう、起きているような気配がした。

 ノックをする前に気合を入れる。

 今日もまた、代り映えのない一週間が始まるのだ。

 悟られてはいけない。平然と、執事のソラとして彼女の前に立つのだ。

 言わなければならない自己紹介が、舌の上で苦かった。





 「ああ、ステラ様起きていらしたんですね。」



 「貴方は、」



 「初めましてステラ様、私は貴女様の世話係をしている者です。どうぞお見知りおきください。」





 笑顔ならもう慣れた。

 嘘をつくのももう慣れた。

 感情は殺してしまえ。

 すべてはこの箱庭の平穏のために





 「ああ、ひどい顔ね、ソラ。」





 知るはずもない名前を、ステラは呼んだ。

 息を飲み言葉を失う。



 忘れてくれ、何もかも。私のわがままのままにどうか生きていてくれ。

 すべてを忘れて、覚めない夢のような一週間を演じてくれ。



 そう願っていた。

 なのに、





 「ステラ……!」





 君が私の名前を呼んでくれることが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。

 滲んだ世界の向こうで、愛しい彼女が笑った気配がした。
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みんなの感想(1件)

りん
2018.04.04 りん

aftetがとても気になります!

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