胡蝶の夢

秋澤えで

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小学生

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衣装室から移動しホールの前で蓮様たちと落ち合った。蓮様はスレイトグレイのストライプベストにえんじ色のネクタイ、翡翠はダークグレイのブレザースーツに白と紺のネクタイを着けていた。まだまだ服に着られている感が出ていて微笑ましい。今なら翡翠ですら僕の癒しになる。


「ええっ!涼か!?」
「はい、涼です。」
「髪の毛染めたのか!?」
「染めたとしても髪は伸びませんよ。これはウィッグです。」
「本物の髪みたいだな……。」


しばらくワタワタと僕の方を見た後ぶわあ、と顔を赤くした。


「あの、蓮様?大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ!その……す、すごく似合ってる、かわいい。」
「ははははは、何言ってるんですか。蓮様の方がずっと可愛いに決まってるじゃないですか。」
「!?か、かわいくないしっ!」


ちょっと怒ったような素振りをしていたが、顔の赤みが引いたころ、不安そうに僕の顔を覗き込んだ。


「涼……機嫌悪い?」
「いえ、そういう訳では……。」


どうやら僕が完全に表情の削ぎ落された顔をしていたので怒っているのかと勘違いしたらしい。


「これから中に入ったらずっと笑顔でいなきゃならないので今のうちに表情筋休ませてるんです。」
「そ、そうか。頑張れ。」


まだ始まってもいないが精神的に疲労困憊なので蓮様のふわふわの頭を撫でまわして癒しを求める。恥ずかしいらしく顔が真っ赤になっているが、知ったことじゃない。僕はこれからに向けて癒しが欲しい。居心地悪そうにしてがいるが抵抗しないのがかわいすぎる。


「あ、そういえば何で涼はウィッグつけてるんだ?」

「あーそのことなんだが。」


雲雀様や母様と話していた嘉人様がこちらに寄ってきて僕の代わりに質問に答える。どうやら僕の設定や役割などを伝えていたらしい。嘉人様が入ってきたからか、蓮様の表情が少し硬くなった。


「涼には今日一日お前のそばにいてもらうことになった。ただ赤霧の者であることが周りに知れると少々不味くてな……。ばれないように変装をしてもらい、会の最中だけ自称お前の妹になる。」

「……は?」


呆然としたような顔に苦笑いする。それはそうだ。いろいろ説明を吹っ飛ばして妹。まあ思考は追いつかないだろう。


「まあとりあえず涼が妹のように振る舞ってもらうが、いいか?もしほかの人間に妹なのか聞かれたら何も答えずに笑って流せ。あとは涼が適当にはぐらかすことになってるからな。」


簡単に言ってしまえば蓮様は何も言わなくていいということだ。まあ僕としても蓮様に必要以上に喋らせたらすぐにボロが出るのが目に見えているためぜひともその方向で頼みたい。


「あ、はい……。」


たぶんしっかりとは飲み込めていないだろうがとりあえず、といった風に頷くと嘉人様が満足そうに笑い蓮様の頭にその大きな手を乗せた。


「……っぁ……!」


自分の頭へ伸ばされた手に一瞬それを恐れるように首をすくめたが、優しく撫でるその手つきに恐る恐る目を開け微笑む嘉人様を見て、赤い目が大きく見開かれ、放心したように小さく開いた口からほんの少しだけ声が漏れた。その表情は驚愕と呆然、戸惑いが綯い交ぜにされたものだったが、ややあって状況を把握したらしく緩やかに口の端が上がった。

そんな二人の様子を見て僕も思わず目を瞠ったが、ぎこちなく頭を撫でる嘉人様に笑みがこぼれる。あの方はあの方なりに、近づこうと頑張ってるんだ。

しかし少しだけ笑みを見せ見上げる蓮様に今度は嘉人様が目を見開き、らしくもなく頬を染めあたふたとし始めた。どうやら頭を撫でたは良いが、手を放すタイミングが分からないらしい。蓮様が抵抗するなりすれば外せるのだろうが、微かに笑い嬉しそうにしているから尚更手を外しにくいらしい。

頑張って一歩踏み出せたことを称して助け舟を出すことにした。それにいつまでもここに突っ立てるわけにも行かない。


「嘉人様、少々聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」
「あ、ああっ!なんだ?」


バッと手を離し、僕の方へ寄ってくる。突然に手を離された蓮様の様子だが、それについては気にしてる風はなく余韻をかみしめるように撫でられた頭に右手を触れていた。

よくよく見てみると嘉人様たちの後ろに立っていた父様が口元を抑えて笑いをこらえていたのが見えた。肩がぷるぷると震えている。雲雀様や母様も微笑みながら不器用な父親と子を眺めていた。

少しだけ声を低くして尋ねる。


「神楽様のお話です。」


そう言うとスッと顔が引き締められる。


「神楽はいつごろここに来るかは分からないが、必ず出席するように言い含めてある。来たならこちらに来るはずだ。」
「その、神楽様には赤霧であることはお伝えしてもよろしいのでしょうか?」


聞くと少しだけ考えるような顔をしたのち言う。


「……ああ、神楽とその連れには別に伝えても構わない。ただ他の者には例外なく伝えてはいけない。良いか?」
「はい、承知しました。」


僕がそう返事すると満足そうに頷くが、次にちょっとだけ眉を下げて申し訳なさそうに口を開いた。


「涼……、その格好をすることについて伝えてなくて悪かったな。」
「ははは、悪いとは思ってらっしゃるかもしれませんが、後悔などは微塵もないのでしょう?」
「ああ、全くない。……久しぶりに見た、あの二人があんなに楽しそうにしているのを。」


未だに余韻に浸っている蓮様を眺めている二人の方へ目を向けた。


「ええ、僕もです。……母様もよく笑ってはおられますが、いつもそれは少し無理をしているような笑顔なので……。」


いつからかギスギスしだした家の中で母様や父様はいつも笑おうとしている。でも僕は父様はともかく母様が屈託なく笑うところを最後に見たのがいつだったか思い出すことができないでいた。


「お前にこのことを伝えれば抵抗するなり、なにかの理由をつけて男装しようとするだろうと思ってお前には言わなかったのだ。」

「はは、そんなことしませんよ。母様には親不孝な子供であると自覚しておりますので。むしろこんな機会を作ってくださりありがとうございました。ここまで追い込まれていないと僕もきっとこんな可愛らしい格好をすることはなかったでしょう。」


ありがとうございました、と蓮様たちには見えないように少し頭を下げる。本当に言葉では足りないくらいに感謝している。


「ははは、追い込まれるって……そんなに嫌だったのかい。」
「まあ嫌、というか……お側付になった時点で男も同然なので。」
「……伝えておきたいことがある。別にお側付だからといって無理に男装する必要はないんだぞ?女の子の格好をしていても違いはないんだから。」


少し寂しそうに言う嘉人様に僕は最低限の笑顔で対応する。


「いえ、それは僕のけじめですから。……それに、男装してなくてはできないことがどうしてもあるんですよ。」


後半が嘉人様に聞こえたかどうかはわからない。声を低めたのは本心ではあまり伝えたくないが、一応伝えておいた方がいいと理性で思ったからだろう。


「それと、私も礼を言っておきたい。」
「礼?僕にですか?」


礼、と言われてもその理由が分からない。嘉人様に礼を言われる心あたりがないのだが。


「今言うことでもないかもしれないが、私は今まで蓮のことを涼に丸投げしていた。向き合う勇気がない意気地なしだった。」


そういう嘉人様はつきものが落ちたように清々しい顔、父親の顔をしていた。


「さっき初めて気づいたんだ。」

”あいつはもうあんなに大きくなってたんだな。”


感慨深そうにそういうと髪が乱れないくらいにそっと僕の頭に手を乗せた。


「今日は頼むぞ。」
「はい。尽力いたします。」


何もなかったように僕から離れにやにやと笑う父様小突きに行った。

ヘタレ様から立派な父親に昇格しようと偉そうなことを思いながら僕は蓮様の隣まで行く。


「ふふふ、蓮様嬉しそうですねぇ。」
「う……まあ、な。」


珍しく素直な蓮様の頭をこれでもかと撫でてやると照れながらもまた嬉しそうに笑った。それを見て僕も心から嬉しく思うのに心のどこかで疼く、得体のしれない空白から僕は目を逸らした。まだ知らなくていいんだと自分自身に言い聞かせて。
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