胡蝶の夢

秋澤えで

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小学生

傷跡

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朝6時、空が白み始めた頃に家を出て家の近くを走る。

真冬の空気が肌に刺さる。なんでもないのに涙目になるのが情けないが、残念ながら涙腺の鍛え方は知らない。手にもっていたタオルで目元を拭いつつも足は止めない。寒い地域だと朝や夜に濡れたタオルを振り回すと凍るという話をなにかで読んだことがあったが、この辺りでも冬なら凍るだろうか。くだらないことを考えながらランニングを続ける。我ながら、ちょっとしたジョギングやランニングではない。一般で言う全力疾走のレベルだ。なおのこと風が辛い。


「……はぁっ、……、」


入院していて動けなかったせいで見事に身体が鈍っている。まあ小学校上がる前から毎日鍛えていたのが急になくなれば当然なのだろうが。肺活量も筋力も落ちてる。退院した直後にトレーニングを再開したところ数年ぶりの筋肉痛を味わうことになってしまい衝撃をうけた。年かな……。

少しずつ距離やタイムを調節しながら体力をもとに戻していく。こんなことをしている場合じゃないのだ。今よりも強くなりたい。


走り続けていると後ろから追いかけてくる足音が聞こえた。音からして運動靴をはいた子供。スピードは僕と同じかそれ以上。予想をつけるが僕はさっきよりも少しスピードを上げて走る。すると後ろの足音も早まる。抜けそうで抜けないくらいの速さを保つつもりであったが、お互い際限なくスピードを上げ続ける。正直ここまで来たら絶対抜かれたくない。別に競っているわけでもないのだけど。一瞬だけ自分のものではない赤い前髪が見え焦る。


「はっ、……はぁ、」


昔なら僕と比べると翡翠とはかなり差があった。しかしまだ本調子ではないとはいえ、僕と同じペースで走り続けていると翡翠に焦りと共に感嘆を覚えた。もっとも、抜かされる気は全くないのだけども。

冷えきっていた身体はみるみる熱くなる。一定のペースを保っていたため乱れなかった呼吸も若干乱れつつあった。しかしそれは翡翠も同じ、寧ろ追いかけているぶん僕よりも辛いだろう。

そんな終わりのない意地の張り合いがどれ程続けられただろうか。ずいぶん走った後、後ろで歩調が乱れたような音がした。かなり食いついてきたけどここまでかな。内心勝ったような気でいたのが悪かったのかもしれない。足がもつれ躓くような音と共に背中に衝撃。


「っ!うわぁ?!」

「…………、」


すぐ後ろをピッタリとくっついて走っていた翡翠にモロでタックルを受け、翡翠もろとも地面に伏した。


「~~~っ!!な、何を、するんですかっ!」


強かに打ち付けた膝が痛い。冬の寒さとアスファルトのコンボは最強だと思う。擦りむけた足から血が流れるので慌てて持っていたタオルで圧迫する。

僕の抗議に返答はせずゼイゼイと息を整える兄に溜め息をついた。


「い、行かせて、たまるかっ……、」

「別に、勝負とかじゃ、ないんですが……。」


未だ僕のジャージの端を掴んで起き上がらない翡翠を振り払うわけにもいかず彼が落ち着くのを待った。


「試合には負けたけど、勝負には、勝った!」

「よく分からないのですが。いえ、そもそもこの状況で、貴方が勝ったという、要素が、見つかりません……。」

「お、お前の方が、先に、倒れた。」

「そりゃ貴方が僕に衝突した上に僕をクッションにしたからでしょう……。」


力尽きたのは翡翠なのに何で僕だけ負傷するんだ腹立たしい、とぶつぶつと言っていると、今頃僕の怪我に気づいたらしく真っ赤に上気していた顔を器用にも真っ青にしてみせた。

あたふたとしながら「あぅ、それ、えっと……、」と意味をなさない言葉の羅列を紡ぐ。呼吸も落ち着いたし怪我もそこまで痛くもないので余裕が出てきてニヤリと笑う。


「あれ?心配してくれてるんですか?」

「んなっ!ばっ、違うし!ザマミロッ!」


からかうと青かった顔を真っ赤にして立ち上がり走り出す。が、足がもつれたらしくて10メートルほど先で派手に転んでいた。

話すきっかけさえあれば冗談を言うくらいの余裕があり、扱い方も少し分かってきた。

血が止まったのを確認して立ち上がる。慌ただしく走り去っていった翡翠の後を追うようにランニングを再開した。





「~~~~っ!」

家に戻り消毒液を膝に掛けて一人悶絶する。ガーゼとかを浸して丁寧にやればまた違うのかもしれないが、あれは時間がかかる上にうまく出来ないと傷口にガーゼの繊維が残ったりするのでやりたくないのだ。

最低限の処置だけして今度はジャージの裾を捲り腿の傷を見てみる。


「うわぁ……、」


傷自体は治っているのだが、跡はしっかり残ってしまっていてグロい。入院中は気にならなかったが改めて見ると、これはちょっとないな、と我ながら思ってしまう。

日にあたらないため真っ白な腿から膝辺りまで赤黒く太い線が走っている。その上に薄く新しい皮膚が覆っているのが気持ち悪さを助長させている。これからどの程度傷跡が薄らぐか分からないが、当分半ズボンははけないだろう。

そういえばだけどこれ、中学上がっても男装する理由とかにならないか。女子のスカートじゃ多分傷見えちゃうし。正直非常に個人的だけど、余程の事態にならない限りスカートははきたくない。万が一にも制服がセーラー服だったら……。考えるだけでおぞましい。どう見てもコスプレしてる変態男子にしか見えない。視界の暴力、通報物だ。無差別テロになる。

若干痺れた足をマッサージしながら、男装する丁度良い理由を見つけてホクホクする。痺れたり疼いたりする足ではあるが、案外悪くないのかもしれない。

ただ足の方は役に立つのだが、肩と腹はどうにも。特に肩。足や腹や腕は刃物で切られたため割と傷は綺麗、いや綺麗ではないけどましなのだが、肩がひどい。

警棒で激しく殴打された際、肩の骨を砕くと共に肉も潰された。その上砕けた骨が筋肉に刺さり、とまあ凄惨な状態だ。後からお医者さんに聞いた話だが、その状態で数分間応戦した過去の自分の根性を褒め称えたい。まあそんな壮絶な状態の肩だが今では驚異的な回復力により普通に動かせるようになった。

動かせるように、なったのだが。着替える度に肩から眼を逸らしたくなる。肩は破壊された部分だけ浅黒く変色し潰された肉もしっかりと跡になっており指で撫でなくともボコボコとしているのが分かる。


かなり今更だけど、今更言うのもアレだけど、女子として完全に終わってる。


母様はしきりに傷跡を消す治療を勧めていたが、これは、うん、納得のグロさだ。進められた際は、傷跡なんてどうでも良いから一刻も早く退院を!と訴えていたが、した方が良かったとは今更口が裂けても言えない。まあ足以外は服で隠れて見えないだろう。




午後になってから道場に向かう。今までは午後はいつも白樺邸にいたのだがここのところその時刻何故か蓮様が不在なのである。さよさんや雲雀様に聞いたところ訳知り顔でニコニコしていたが、結局何故いないのか、どこへ行っているのか分からないままであった。腑に落ちないと思いながらも雲雀様やさよさんは知っているようなので心配はないだろうと納得させていた。

いつも道場に行くのは午前中なのだが、今朝は足の調子が芳しくなかったので予定を少し変えて、午前は勉強、午後から道場という形にしたのだ。午後には無事に足の痺れはとれ、道着を携え東雲道場へと向かう。今日は柔道の日なのできっと道場は寒いだろう。剣道でも寒いのたが防具のためか心なしか暖かい気がするのだ。



いつものように道場の扉を開ける。


「おはようごさいま、す……?」

「もうおはようございますの時間帯ではありませんよ。こんにちは、涼さん。」


いつもと変わらずニコニコとした爽やかな笑顔を浮かべる豪さん。

ただいつもと違い、ニコニコする豪さんの隣に道着を着た蓮様がいた。


「なっ、何故蓮様がここに……?」


若干放心しながらも問いかける。僕の姿を見るやいなや、目に見えて焦りだす蓮様に怪訝な視線を投げ掛ける。


「さ、散歩だっ!?」

「何故に疑問系!?……道着を着て散歩ですか。」

「ひ、拾った!道で!」

「道に落ちてるものを拾わないでください……。」


なんか誤魔化し方が翡翠と似てる気がする。言い訳しすぎて自爆するタイプだ。呆れ混じりの僕としどろもどろに狼狽える蓮様を見て豪さんは相変わらず楽しそうにニコニコしている。


「蓮くん、別に隠す必要はないのではありませんか?」

「豪さんは何でしれっと隠し事してるって言っちゃうんだよ!?」

「あ、それは別に豪さんが言わずとも分かります。」


キャンキャンと吠える蓮様を気にした様子もなく、楽しげかつ、話してしまいたそうに眼を泳がせる。前から思ってたけど、豪さんいつもニコニコした笑顔なのにすごい表情読み取りやすい。


「それで、どうして貴方がここに?そんな話は聞いていなかったのてすが。」

「っお前こそ!午後に来たことなかったろ?!」

「ああ、今日は午前中足が少し痺れていたので収まるのを待って午後からにしたんですよ。」

「えっ!今日来て大丈夫なのですか?無理はしないでください?」


傍観していた豪さんがあたふたとしながら僕を気遣う。


「ええ、今は収まっていますので。それよりも僕はどうして蓮様がここにいるのかを聞きたいのですが?」


蓮様に視線を投げると全力で明後日の方角を見ている。誤魔化しきれると思っているのだろうか?次に事情を知っているらしい豪さんに眼を向ける。じっと見つめる。するとニコニコしながらも冷や汗をかきだし目は泳ぎまくっている。

更に見つめ続けると諦めたようにチラリと蓮様にアイコンタクトを送る。ガッツリそれを受け取ったらしい蓮様は高速で横に首を振り、NOの意を示していた。困ったようにさっとこちらを見るのでにーっこり笑っておく。もう一度蓮様に顔を向け申し訳なさそうに笑ったので自分の勝ちを確信した。


「ええっと、それが、涼さんが入院してから、蓮くんが単身で、」

「あーーっあーーっあーーっ!!」

「ちょ、蓮様聞こえませんから黙ってください。」

「むがっ?!」


折れた豪さんがせっかく話だそうとしているのに、蓮様は奇声をあげながら僕の耳にそれが届くのを阻止しようとしてくる。ので、足をかけてバランスを崩させてもらい、後ろからホールドしつつ口を塞がせてもらった。

もう少し抵抗されるかと思ったが、予想を反して僕の腕の中でおとなしくしている。まあ静かならなんであれ、それに越したものはないと、豪さんに続きを促す。僕らを見て苦笑いするも話始めた。


「手加減はしてくださいね?……貴方が入院してるときに私の元に蓮くんが来たんです。ある程度の話は聞いているので一目で嘉人さんのところの子だと分かりました。」


思い出しつつ微笑ましげに僕ら、否蓮様を見る。居心地悪げに身動いだ。


「私が居るところはさよから聞いたようです。赤霧の子を指南するのはこの道場の通習でしたので、別に白樺の方が来てもおかしくはないのですが、案内も誰も連れず訪れたのは驚きました。」


誘拐未遂にあってすぐの時に一人で出歩くなど……。無言の抗議としてホールドを心なしか強めた。


「更に自分に稽古をつけてほしいだなんてよもや言われるなんて考えていませんでした。本当に晴天の霹靂ですよ。」


クスクス笑いながら話すがこちらからすれば笑い事じゃない。そこまで言うとこれ以上言われたくないのかなんなのか、大人しくしていた蓮様がまたジタバタし始める。諦めの悪い。手加減しつつ腕に力を込める。


「む、むぅーっ!」

「お気になさらず、続けてください。」

「ははは、で理由を聞いてみたんです。赤霧の護衛を付けてるなら特に自身が強くなる必要はありませんし、今赤霧のお側付きがいたら……、いえこれは別に違いますね、すいません。無理して力をつけるのはどうしてか、」


ニッコリと少し嬉しそうな色を見せた。蓮様は諦めたらしくぐったりとしている。僕は豪さんの言いかけた言葉を理解し、一人青ざめた。


「貴方を、涼さんを守りたいから、だそうです。……最初はよくわかりませんでした、自分を守るはずのお側付きを自分が守るということが。でも、詳しく話を聞いて理解しましたよ。」


以上ですよ、と楽しそうにする豪さんを恨めしげに睨む蓮様を解放してやった。


僕は特になにも言わず道着に着替えるべく、更衣室に向かう。


「……涼?」


気遣わしげに背中に声を受ける。僕は何も言うことができず、振り向いて何でもないようにただ、笑った。




更衣室に入り、いつもより重く感じる扉を締める。とたんに力が抜けて膝から崩れた。

バクバクと心臓は鳴り、寒気が襲う。肩は何かが乗ったように重かった。真冬だというのに冷や汗が背を伝う。

恐らく血の気の失せた僕の顔を見て、豪さんは言葉を止めたのだ。そんなにも、僕は分かりやすく動揺していた。


どうして貴方は強くなろうとするんですか?

そんなに僕のことが嫌いですか?


全く的はずれな質問だと理解してる。そして彼が強くなろうととしているのは、目が覚めたとき彼の言った言葉を現実にするため。


『お前を守れるくらい、強くなる。』


それは僕を側に置くために言ってくれた言葉。
でも違う、違うんです。僕が欲しいのはそれ・・じゃないんです。


自己嫌悪と焦燥感に吐き気がする。

だってもし。もし彼が僕よりも強くなってしまったら、そうしたら僕は……、


――本当は気づいてるんだろう?


いつかの言葉が頭の中で反響する。


ああ気づいてたさ。本当はずっと前から。


でも、それでも。

それを僕が真正面から見たならば、僕はきっと


****てしまうから。


自分の思考なのに、靄がかかったようにそこだけ聞こえない。多分僕はその聞こえない部分も既に知っている。

でもそこが僕に聞こえないということは、間違えようもなく、まだその時でないからだ。


僕は何かに謝りながら、響く言葉と聞こえない思考に鍵をかけて意識の深みに沈めていった。

その時が来たとき、底ではどれ程の言葉と思考が堆積しているだろうか。



僕は道着に着替え、道場へ足を踏み入れた。


「涼、何かあったか……?」

「え?いえ、特に何もありませんが。」


どうしてですか?と問うと彼の中ではそれは気のせいとなったらしい。


「いや、別に何でもないや。」


もし、僕の中の言葉と思考を知ったなら、彼は僕を軽蔑するだろうか。

ふと浮いてきた疑問を沈めるため、僕は強く帯を締めた。
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