胡蝶の夢

秋澤えで

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高等部編

美術教師

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すでに行き慣れた人気のない学習室。実技教科棟の四階の端、もう使用されていない第二学習室はきっともう多くの人から存在を忘れられているのだろう。掃除をされることもなく、生徒が使うこともなく、授業を行うこともない。もともと実技教科棟は移動教室の先として使われるばかりで、実技科目の教師も基本的にはそれぞれの準備室に引きこもるうえに教諭によってはほとんど使用しない者もいる。その党の中の最上階の学習室だ。生徒棟にも学習室や自習室があるためわざわざこんな遠いところまで来ない。実技教科の授業もそれぞれ専門の設備のある教室で行われる。そのためこの部屋は全く使われていない。生徒に至っては認知している者はいるのだろうか。

全体的に埃っぽく薄汚れている。約40ほどの机や椅子はどれも痛んでおりささくれができている。教室前方の教壇は黴臭く足を掛ければミシリと心もとない音を立てる。忘れ去られた部屋。物置にすら利用されない。

そんな教室だが、僕はかなり重宝していた。ここは誰も来ない。一人になりたい時、静かに考えたいとき、この部屋は僕にとってなくてはならないものだった。黄ばんだカーテンの隙間から、部活動に勤しむ生徒たちの声が聞こえてくる。隔離されたこの場所は、淀んだ思いを沈めるのにも最適だった。

不安も、後悔も、罪悪感も誰に見られることも、誰に知られることもない。ここですべてを吐き出してしまうから、普段僕は完璧な僕でいられた。



忘れ去られ居場所を失ったものが、誰も知らないところで、誰も知らないうちに、掬い上げられることがあるのだろうか。

救われることが、あるのだろうか。


それは不安なのか、予感なのか、僕は判断できなかった。



******



「あ、」
「お、赤霧!」


学習室から生徒棟に戻ろうと、四階の階段を下りる途中いったい国語科の彼が何の用なのか、藤本教諭と出くわした。彼の第一声に次ぐ言葉を予期し、脇をすり抜け逃げようとするがやはり捕まった。


「ちょうどいいところに!」
「やっぱり……、」


首根っこをがっしりとつかまれ、抵抗する気さえ奪われる。中学の三年間で彼に目をつけられたら逃げられないことは身に染みている。


「にしても、優等生の赤霧君がどうしてこんな一般生徒に関係ない棟の人気のない最上階から一人でおりてくるのかな?ん?何してたんだ?」

「っ……、何、迷子になった末に開き直って校内をぶらぶらしていただけですよ。藤本先生こそ実技科目棟に用はないでしょうに、どうかしたんですか?」


苦しいながら一応言い訳を口にしておく。四階には学習室以外に使われていない木工教室や被服教室などがあるのだが、下手に言うと掘り下げたときにボロがでる。だからと言って本当のことをわざわざ吐く必要はない。校則に抵触しているわけもないため隠さなくても良いのだが、なんとなく言う気になれなかった。


「ほお、完璧と名高い赤霧君が迷子とはねえ、珍しいこともあるもんだ。先生は新任君を探しに来たんだよ。あの、紫頭の派手な若いの、入学式の時に見ただろ。ちょっと用があるから探してんだ。専門科目が美術だからこっちの棟にいると思ってきたんだけどよ、美術ってことしか知らねえからどこの教室にいるかさっぱりで……。俺も高校で教えるのは10年ぶりくらいで教室に位置とか大分変わっちまっててよ、全然場所わかんねえの。」

「貴方も迷子なんじゃないですか……。」
「ほっとけ。」


藤本教諭に拘束されたまま結局僕も新任教師、紫の若いのこと、紫崎教諭の捜索道中に強制参加させられることとなった。

どこにいるかも分からない紫崎教諭を探すのはどれほど骨が折れるかと思ったが、たまたま四階の階段を降りてすぐ、三階奥の彫刻室から出てきたところを目撃したのであった。


「……先生、まさか四階から探そうと思ったんですか?何で一階から順番に探さないんですか……。」
「そうすれば俺に見つからなかったのに、ってか?」


ジトリと恨みがましい視線を向けるも、ニヤつきながら図星を突いてくるため、黙ることしかできずむすっとする。


「紫崎ぃ!こんなとこにいたのかよ、探したぞ!」

「あ、えっ、藤本先生!」


無遠慮な藤本教諭の声に慌ててこちらを振り向き、バタバタとせわしない様子でこちらへ走ってくる紫崎教諭。そしてもう紫崎教諭が見つかったのなら僕は帰りたい。しかしもちろん藤本教諭の右手は僕の制服の襟をつかんだままなので逃げることはできない。


「どうかしましたか?なんか忘れてたりしましたか!?」
「忘れたりしましたか、じゃねえよ。思いっきり忘れてんなお前……。放課後生徒会に資料を持って行きたいから俺についでに校内の案内頼んだのはどこのどいつだ、ああん?」

「えああっ!!す、すいません!忘れてました!」
「宣告されんでもわかってるっつの!」


持っていた厚めの茶封筒でバシン、と紫崎教諭の頭を叩く。すると紫色の頭からパラパラと木くずのようなものが落ちてきた。
よくよく紫崎教諭を見てみると、黒のパンツに白のシャツ、ここまでは模範的教師なのだが、その上からふくらはぎほどまでの長さの深緑色のエプロンをかけていた。そしてエプロンには細かい木くずや大鋸屑、木の粉などが付着しており、団子に結われた紫色の髪にも木片や茶色の粉が絡んでいた。彼が身じろぐたびに廊下に木片が落下する。


「……紫崎先生。藤本先生に謝るのは道理ですが、まずその格好をどうにかしてはいかがでしょうか?生徒会室は生徒棟にあります。この実技科目棟ならまだしも、生徒棟や職員室を汚すわけにはいかないでしょう。そして髪に大鋸屑をつけているのは少々みっともないですよ。何より廊下が汚れます。教室で払うなりなんなりしてはどうでしょう?」
「え、あ、はいっ!すいません、ちょっと待っててください!」


こちら来た時と同じようにあわただしく元いた彫刻教室へと姿を消す。相変わらず彼の通った場所は一直線の茶色い道ができており、ため息を吐く。ある意味新任らしいといえば新任らしいのだろうが。


「……随分おっちょこちょいな先生なんですね。僕は美術を選択していないので初めて近くで見ましたが、あれでは生徒になめられそうです。」

「いや、まあ極度のおっちょこちょいってのは認めるなぁ……。職員室じゃあ基本的にあの調子だぜ?忙しないといえば忙しないが、この学校の教員ってみんな年食ってるからよ、華やぐって結構高評価だ。それに授業中はもっともまともだぞ?あと、授業後に生徒と話してるのも見たが、ちゃんと教師してたしな。堂々としてるが生徒からも人気。……見たところ、年上には基本あんな感じで、自分よりも年下だとしっかりした態度で対応できるらしい。」


そこまで言って僕にニヤニヤと非常に不愉快な視線を投げてくる藤本教諭の言わんとするところを理解して、爪先で教諭のすねを軽く蹴りつけた。僕にとっては、軽く、だ。


「いっ……!何しやがんだこのクソガキっ、」
「ちょ、痛っ、握力強すぎです!」


急所を蹴られ無様に悶絶した腹いせか仕返しか、無駄に大きな大人の掌で僕の頭をぎゅっと掴んできた。ギリギリと力を加えられ、圧迫されるこ米神が地味に痛い。自他ともに認めるタフさを持つが、直接血管への攻撃をされると普通に苦しいし痛い。


「事実だろうが!まだ高校一年のくせに老練しやがって……!もっとも若々しく!女子高生らしく生活してみろ!」
「いたたたたっ!米神!血管圧迫するのやめてくださいって!それと論点ずれてます!女子高生?何それ美味しいの?ですよ!」


涙目になりかけながらもせめてもの抵抗にだらしなく緩んだネクタイを引っ張ってみるが。あまり効果はない。


「ちょっ!ええ!?何してるんですか、藤本先生!!流石にそれは、た、体罰とかになったりは……!?」

「よし紫崎ぃ、覚えとけ。生意気なクソガキを止めるにはこれくらい必要なんだ。躾だよ。躾。」
「何が躾ですか!?人の血管を圧迫して揚句、脳への血液循環を停止させ壊死させ、殺すつもりだったんですよね!!」
「人聞き悪いこと言ってんなよ赤霧ぃ!!」


紫崎教諭の登場によってやっと血管圧迫の刑から解放される。ジンジンとする頭を抱え、いろいろと盛りながら紫崎教諭に訴えてみる。状況としてはどちらもどちらなのであろうが、紫崎教諭はどうしたらよいのかわからずあたふたとしている。この人が教師然としているところは想像もつかない。


「あ、えっと、ところでそっちの生徒は……?」


ようやく落ち着いた場で紫崎教諭が藤本教諭にもっともな質問をする。相も変わらず僕の襟には教諭の右手がかかっている。


「ああ、こいつは俺のパシリだ。」
「ふざけた紹介をしないでもらえませんか?毎回毎回先生が無理やり連れてきてるんでしょう!」


やいのやいのと再び収集が付かなくなる前にわざとらしく声を上げた。


「あ、ああ!ええっと。もしかして赤霧翡翠君ですか?少しほかの先生から話は聞いています。」
「ぶっぶー外れー。正解は、赤霧翡翠君の妹の赤霧涼ちゃんでしたー!」
「は……?え、いも……?」


想像通りの反応に内心ため息を吐く。

だがひとまず、紫崎教諭の暴走する想像を冗長させる藤本教諭を止めることに尽力することにする。
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