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#13遂行の変化
しおりを挟む<カリス>
羽を広げて飛び立った男の背中が黄昏空に溶けいったのを確認すると、カリスはようやく男から目線を外した。
揺れる水面から覗く自身の手を凝視する。どうということもない。ただの筋張った自身の手だ。何も変わりはしない。
だが先ほどつきつけられた指先を思い起こすと、何か収まりのつかない感覚が舞い戻った。自身の手より幾分弾力ののある、分厚い手。
人形のカリスから見ても、あれは人間の手にしか見えなかった。だというのに、どうしてか注視するのを止められなかったという事実。
自身の感覚に変容をもたらした要因を推測するのならば……――
――あの時。
任務の遂行をすべく竜の妨害をかわし、骨の剣を振りかざした時だ。
冷えた溶岩で造られたような黒竜の巨躯に飛びかかり、剣の切っ先を紅い光を放つ瞳に突きたてた、その時。
『愚か者がァ――ッ!』
絶叫の如き罵倒と共に頭蓋を揺さぶるような衝撃でカリスの視界が回った。
『おのれ……木偶の分際で、我物に傷をつけるとは何事か。分を弁えよ、目しか能のない傀儡めがッ』
頭の中で反響し続ける怒鳴り声の持ち主がカリスの脳味噌を鷲掴みにし、ぷちぷちと音を立ててひり出していく。
幼少期以来の襲い来る激痛。吐き気。視点の定まらない視界。指先の感覚はとうにない。呼吸すら、覚束ない。
『人の形をした肉よ。かつての地獄を味わうが良い!』
かちり、と耳元で何かが開錠される金属音が鳴ったと同時に、今まで堰き止められていた五感が一気に雪崩れ込んできた。
「……あ、がッ!?」
回転する視界の中、黒竜の激痛に悶える叫びが全身を打った。
空気の震え。溢れかえる金属臭。骨を握る感触。洞窟の湿気。肌を刺す冷気。そして胸の奥底から湧き出でる死への恐怖。
遅れて幾重にも重なる記憶がカリスの脳髄に叩き込まれていく。
無数の赤いひっかき筋が残る壁も、こちらを指差し嘲笑う男たちの性器も、幼き兄が流す高潔な涙も、全てカリスが手放したはずの光景だった。
酸鼻極まる記憶と、心臓を毟り出したくなる泥の絶望が、研ぎ澄まされた五感を得たカリスを容易く極限まで追い詰める。
息ができない。頭が発火したように熱い。眼球の裏側がじくじくと膿んでいく。正常の境界が逸してしまう。心が、死を迎える。
その狂騒の極致点に届く直前。
――綺麗だ……。
耳障りの良い何かの言語が空気を震わせたと同時に、記憶と五感の一切が消えた。
あれだけ騒がしく忌まわしい感覚が綺麗になくなり、視界は全てが灰色のように均一になる。
真下から赤い瞳を輝かせる褐色の男を除いては。
川の水面から自身の手を出して見つめる。やはり何もない。川も山も石も自身の右手も全て同じ。ただ空気の中にあるもの。全ての事象は一律である。
それなのにあの竜なのか人間なのか分からない、男としか称することができないものだけが鮮やかに発色して見えた。
確かに人形に戻ったというのに、何かの不具合なのかあの男に対してだけ感覚が取り残されている。
その感覚を呼び水に、いつまた五感が復活するか分からない。
完璧な人形に戻るにあたり最良の処置は、あの男を殺すことだろう。そうすれば全てが均一である人形の視界が手に入る。
しかし、あの男が竜なのか人間なのかまだ分からない。
騎士は自身より上の身分の人間から許可を与えられない限り、勝手に人を殺してはならないという規律がある。
騎士団の人形であるカリスでは、竜は殺せても人は殺せないのだ。
その上、待てという命令を受けた。命令を受けたならば遂行しなければならない。
竜の命令ならば無視できるが、人の命令では受けざるを得ない。
あの男は必ず戻ってくると言っていた。その時に再度、問いを投げかけねばならない。
もしあの男が人間と答えるなら、男を伴い団長の許へ戻って判断を仰げばいい。
もしあの男が竜と答えるなら、その場で首を斬り落とそう。
今後の方向性が定まり、こくこくと肯くとカリスはまた無機質に黄昏の空を見上げた。
真っ黒なくせにやたら鮮やかな男が平坦で均一な空から現れるかと思うと、不思議と心臓がざわめいてくる。
早く戻ってくれば良い。もし男が竜ならば、ちゃんと殺そう。肉片一つ残さず、しっかり切り潰してから火にかけて、残った骨は火山の噴火口に蹴落として……微塵も残さず殺し尽くそう。
その光景は、男に関してだけ五感の残ったカリスに何かをもたらしてくれるに違いない。
自然と頬を火照らせたカリスの金色は、男の翼を延々と探し続けた。
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