当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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二章 無意味の象徴

90話 『誓約』

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「……」

 大きな溜息を吐いた。その後すぐに曲げていた膝を伸ばして少し向こうの山の中を見据える

「捨てられましたか……」

 赤が侵食し始めたまだ青々しい空を瞳に映し、目を細めてへの字を作るその表情は深い思案と黄昏た雰囲気を印象付ける

「──嬉しい誤算と、嬉しくない誤算ができましたね」

 落胆や披露の色の濃い血塗れの顔をその白い袖で拭い、近くに脱ぎ捨てる。その装いの下から白日の下へ晒されたのは少し血の付着した黒いストッキングと黒いロングTシャツの下着セットだ

「思いがけず剣崎さんを無力化できた事には素直に喜びましょう。ただし、これから降り掛かる災難についてはまたもや頭を捻らなければなりませんね……」

 カエデは少しだけ気怠そうに肩を回してから視線をレイに向けて髪を弄り始めた

「さくらさん」

 と気持ちを切り替えるように身を翻して車椅子へと近づいていく

「──一つ、提案があるのですが。聞いていただけますか?」

 そう、さくらの肩に手をかけて背中越しに耳元でむせ返るほど甘く冷たい口調で、妖艶を孕んだ薄ら笑みを浮かべた

「現在、私の仲間が彼らの内何人かを捕縛し情報を提供して頂いています。これが正しければ彼らは『とあるモノ』を私達に仕向け、自分達は退避するようです。出口に配置していた『門番』達は何処かに消え、このままでは彼らに逃げられる上に私達はどうすることも出来ない。まさにこれまでに無いピンチです。だからこそ協力いたしましょう? この間だけ。私はあなた方に情報を。そして私達に無い力をあなた達に補っていただきたい。それでどうでしょうか?」

「……一つ、約束を」

 そう言うさくらの頬を脂汗が伝い、しかし緊張が全身を縛り付けて顎を拭う事すらも許さない

「なんでしょうか?」

「私達に、これから先、危害を加えないと、『誓約』を、してください」

「──了承しました」

 押し出すように離した手はついたゴミを払うように叩かれ、弾くように翻りそうになる体はカエデに数歩の後退を強制させる
 振り向いたさくらの震える瞳には親戚の女性が近所でばったり会ったかのような笑みを浮かべているカエデが映り込んでいた

「では『誓約』を始めましょう」

 ──小さく笑みを浮かべるカエデの傍ら、うつ伏せたまま虫の息は続いていた

 背中の裂傷は未だに黒い液体を気泡を体の内側から浮上させ、破裂させながら漏れているが傷口は最初期と比べて幾らか幼く見えるが、重症だという事に依然として変わり無しだ

「はっ、ぁっ、ぅっ……。ふぅ、ぅぅっ、ぁぁあ……」

 こひゅっ──と息を吸い込む音が鳴り、瞼の奥まで移動していた瞳が瞼から小さくはみ出るようにして現れた

「ひゅぅ、ひゅぅ、ぁっひゅ、ぁひゅぅ、ぅっぁぁ……」

 ゆっくりと、ピクピクと、痙攣するように瞳が揺れ動いて下りてくる。肉体に魂が戻るかの如く、冷たい体に熱が灯るかの如く、果ては生き返るが如く、瞳が正気を確かめるように瞼を上下させる

「あ、れ……? ここ……」

 視界の半分を埋め尽くす壁と頬や全身を支える硬く冷ややかな掌がレイの意識と思考を奪い去ってしまう
 少しの間隙、混乱しつつも右目を動かして辺りを見回す。その時、自分の背後で薄っすらと会話のようなものがレイの耳に入ってきた

「──さて、…………。誓約を」

「ないよ──、傷つけ……。……、………………で、よろし…………?」

「はい」

 囁くようなほど、小さく鈍く聞こえる音に神経を巡らせて情報を暇無く集める。落ちた情報は予測と推測で補正していく。
 その度に、加速する頭は激痛と共に情報を提供してくれた。

「──さて、それで……。誓約を」

「内容は私達を、傷つけないこと。……、そしてそれは──において……──で、よろしい──……?」

「はい」

 ↓↓↓

「──さて、それでは始め──か。誓約を」

「内容は私達を、傷つけないこと。そしてそれは全てにおいて、私達に……──で、よろしい──ょうか?」

 ↓↓↓

「──さて、それでは始めましょうか。誓約を」

「内容は私達を、傷つけないこと。そしてそれは全てにおいて、私達に干渉しないことと。これで、よろしいでしょうか?」

「はい」

 ようやく話している内容が予測できたわかった
 でも、考えるのは後にしよう。一度、周りを確認しないと……。

 起き上がって確認しようとした。けれど──、

「ッッッ──!?」

 ──崩れ落ちた。

 そうだ。そうだった。背中を切られたんだ、ナイフで。あの階段が長くてつい忘れていたのか。違うだろう。なら別の要因だろうけど、先にこの状況をどうにか──、

「起きたのですか?」

 声をかけられて、覗き込むようにして見えたその人の目を見つめ返した。にィッと笑っている。その顔を見て、顔が熱くなってきた。
 煮える煮える煮える。体中に熱が向かう。暑くて暑くて、背中が疼き続けている。これ以上熱くなったらこれを抑えられない。堪えろ。堪えろ。

 足下を掬われたのは自分のせいだ。油断しなければ勝っていた。倒していた。それでもボクは、油断した。この力を手に入れて、鼻が高くなっていたんだ。さっきの予測で答えに辿り着いたんだろう? 傷つけないって。攻撃して来ないって。言っただろう? だからもう大丈夫だ。警戒も何もしなくても良い。

 ──しなくても良いのに、思考を焼き尽くすような熱がどうしても引いてくれない。

 さっきからずっと警戒してしまう。体をすぐに動かせるように全身に熱が行き渡っているけれど警戒と言うよりは怒っている感じがする。

「それほど怒りを顔に出しても良い事はありませんよ? 私はあなた達に手を出す事はもう出来ませんので」

 ──何を、と言いかけるが当然の如く激痛に喘ぐ息が漏れるだけで言葉は出て来なかった
 それを機と見たように瞳が細められ、カエデが矢継ぎ早に言葉を紡ぐ

「先程の件は本当に申し訳ありません。ですがもうご安心を。私はこれ以上あなた方に手出しは出来ないので」

 覗き込む黒い瞳が細められ、安堵を促すように仕向けて来るがレイの警戒は山の如く傾かない。それどころか屹立している

「剣崎くん。彼女の言っている事は本当です。信じても良いですよ」

 レイの視界の外から優しく、しかしながら良く通る声をかけたのはさくらなのだが、彼女の言葉に耳を傾ける事すら意識に許さない程に今のレイはカエデを虎視眈々と睨み続けている
 ふと、カエデが立ち上がってレイに背を向けるとさくらに大きく手を振って歩いて行く

 何かが、出てくる──。っ。君が……?
 マズい……! 出てくる……!

「お前が──ッ!」

「はい?」

 低い声で唸り、腕を立てて動き始めるレイを振り返って目に収めるカエデを首を曲げて睨みつけると、一言だけ吐き捨てた

「嘘つきめ──ッ!」

 瞬間、背中の傷からドス黒い液体が噴き出してレイの体を包むように飛び散る

「──これが」

 口元が歪む。闇に身を包んだレイを見つめて

「『精霊』の力……!」

 右腕に闇が纏わりつき、鋭い形状を構成し始めた。左腕にもその闇は纏わりつき、それが形作るものは──、

「それが、あなたの意思ですか」

 漆黒の盾。茨の文様を描いた黒の盾だった
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