当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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三章 炎は時に激しく、時に儚く、時に普遍して燃える

125話 『心のドアを開いてあげて』

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 朝焼けが目に当たり、レイはうっすらと目を開けた。まだ微睡みの中を彷徨っている瞳は瞼に見え隠れしている。口が無作為に開き、微睡みの中を停滞しているふにゃふにゃな意識が少しずつ現実味を帯びて固くなっていく。

 その固くなりつつある意識の手が伸ばされた右目は、まだ重たそうな瞼をなんとか持ち堪え、ぐるりと周囲を見回していく。

 横を向いて眠っていたレイの視界に入ったのは、机、クローゼット、頭の向いている先にあったはずのカーテン、壁、そして上にしかないはずの天井へ──

「ぎにゃぅ──ッ!?」

 ──それは唐突に、背中の下から聞こえてきた。

「んー……?」

 朝方特有の気怠そうな眼で、右腕を上げて脇から覗くようにその下を見やる。

「レイカちゃん……?」

「いだだだだだだ……っ! は、早くぅ~……ど、どいてぇ……」

 慌ててベッドから下りたレイは布団に引っかかって、何かを掴んで大勢を立て直そうとした手が中空を掻き、何にも縋ることができずにそのまま床に頭から突っ込んでしまった。

「ぃ、づ──ッ!」

「なっ、えっ、えっ!?」

 突然、鈍く響いた音がレイカの頭を劈き、慌てて起き上がったレイカはバッ、と首を高速で回転させて周囲を見回し、そこでようやく理解する。

 レイがベッドから落ちていることに。

「ど、どうしたのレイくん!? ──あ、私の……って! ああああああ! ごめんねレイくん! 大丈夫!?」

「あ、あはははは……。大丈夫、だいじょーぶ……」

「鼻から血が出てるよ!?」

 そんな一悶着があってから、レイカが階下に下りて行くのを見送ると、レイは白いシャツとカーキの短パンと言った部屋着に着替え、その後に続いた。

「珍しいわね、レイカちゃんよりも後に起きるなんて」

 そう言ったのはリビングにて料理を配膳しているネネだ。コオロギもレイカも、共に動いている。そこへレイも混ざろうとしたのだが既に全部運ばれた後のようで、後ろめたさがレイの右目に居座った。

「あはは……そうですね……」

「そうそう、今日ね、お向かいの女の子が遊びに来るから、仲良くしてあげてね」

「はい、わか──……? 女の子?」

「ええ。お向かいさんの所の娘さんなんだけど、友達を作るのが苦手らしくてね。それでレイくん達に協力してもらおうって思ったわけ」

「私は一瞬で友達になれるよ!」と、レイカが勢い良く手を上げた。

「はいはい、頼もしいわね」

 それを軽く流したネネはレイに手招きして食卓に誘い、それに釣られたレイが居心地が悪そうに眉尻を下げながら歩いて行く。

「それじゃあ……いただきます」

「「「いただきまーす」」」

 ※※※

 ──それから約数十分後、レイカは背筋を伸ばし、緊張に引き攣るほっぺたを揉みほぐしながらソファの上で手を膝の上に置いて正座していた。

 今現在、リビングにはレイとレイカの二人のみだ。ネネは既に出かけてしまっている。昔の友人と飲みに行く、と笑いながら言っていたのをレイは記憶しているが、コオロギはと言えば、彼は近くのゲームセンターに新台が……、と青い革財布を片手に走って行ったのがまだ記憶に新しい。

 ──レイの隣に座るレイカは、んうぅ~……、と何か、思い詰めている様子で昼ドラ真っ最中のテレビを睨みつけ、更に目を細めて顔をしかめている。

「どうしたの?」

「いやぁー、時間が経ってきちゃうとなんだか緊張しちゃって……」

「はは、たしかに緊張するね。でもね、きっとこっちに来る子も緊張してると思うんだ。──ボク達が何もできないなんてことになるのは、嫌でしょ?」

「うん、イヤっ! 絶対に気まずくなるもん!」

「だから、ボク達がしっかりしなきゃね」

「けどなぁ……どーしたらいーのか分かんないぃぃー……」

「ボクが来た時みたいに、すれば良いんじゃないかな?」

「あー……あの時はね、ちょっと気合入れてたの。男の子と戦う──じゃなかった。話すのって、授業とかじゃなかったら小学校以来だったからさー……。なんか、うにゃー! って感じでやってたんだけど、それが上手くいったみたいな? うーん、でも、それだと男の子じゃないと……むむむ……うにゃあぁあぁァァ……」

 頭を抱えて塞ぎ込むレイカを見て取り、レイは視線をぐるりと上に引き上げて唇に人差し指を当てて考える素振りをする。

 どうしたら、なんて言えばレイカちゃんが緊張しなくなるかなぁ……。ボクと初めて会った時、レイカちゃんはどうしてたんだっけ……? 思い出せないや。
 じゃあ、別の方法を……うーん……。

 あれやこれやと考えながら、何度か人差し指を前後に揺らしてぺたぺた唇に当てていると、唐突にチャイム音が鳴り響き、レイカが「ひぎにゃあああああああああああッッッ!?」と肩を激しくビクビクびくぅっと震わせた。

「レイカちゃんはそこで待っていて。ボクが出るよ」

「お、驚き、過ぎて……腰、抜け、た……ぁ……」

 ソファからぴょんと立ち上がると、レイはソファを迂回して玄関廊下へと向かう。
 それをレイカはにゃわわわと心配そうにソファから首だけを傾けながら回してレイを見詰めている。それを少しでも柔らかくするべく、そっと、安らかな微笑みを浮かべて見せてから、玄関へと向かった。

 玄関へと進む足取りは、如何ともし難く重たい。レイは朝食を摂る際には少し──いや、物凄く考え込んでいたのだ。レイカと同じように。それを気取られずにここまで来たが、やはり仮面はいつか、脱いでしまうことを身に沁みて知るレイだが、それでも足は止まらない。止められない。

 やがて、ドアの把手に手をかけたレイは、一度だけ深呼吸をすることにした。後のことは、天に運を任せて。

 ──ドアを押し開いていく。

「いらっしゃ──っ!?」

 一瞬だけ、レイは固まってしまったが、すぐに正気を取り戻して気持ちを整えるように、一つ、息を吐いて視線を引き上げる。

 眼前には男性と少女。手を繋いで立っていた。

「あれ? お姉さんはいないのかな?」

 温和な表情──とは言い難い、爬虫類のような目をした、頬が痩せこけ、背筋が少し曲がっている男性が不気味に微笑む。それでもレイは、当初よりも驚きの波を幾らか鎮め、背中が粟立つほどの感情に堪えながらニコッと微笑んで見せた。

「……今はちょっと、買い物に行ってて居ないですね。良ければ、話を聞きますよ?」

「ああ、うん。ありがとう。それで、用事というのはね……」と言いながら、手を繋いでいる少女の手を少し前に持って行き、「少し、行かなきゃならない所があって……少しの間、この子を預かってくれるかな?」

「ああ、その子がそうなんですね。話は聞いてますよ。分かりました」

 父親とは似ても似つかない、どこか仔犬を思わせるような幼く、人形のような顔を俯かせて、彼女は、爬虫類の手を強く握り締めた。

「……にや、ほら、あいさつ」と、少し屈んで、彼女の耳元で囁くが、彼女は俯いてレイに顔を見せずにただ、何かを怖がるように握り締める手に力を込めた。

「ははは……この子、『二弥にや』って言うんです。ただ、どうにも人付き合いと言うものが苦手で……」

 見たことのある顔だな、とレイは思っていた。父と娘。レイはうっすらと温かい笑みを浮かべてしゃがむと、頭蓋を抉り、そこから溢れ出す脳髄のようにぬるりとした黒く細めた右目を向けて、

「にやちゃん、怖がらなくても大丈夫だよ?」

 そのぬるい言葉の応酬として顔を上げた少女──二弥は、目を丸くしてその瞳孔を震わせた。その瞳の奥に、紅く揺れる懐かしい『何か』が見えた気がして、しかしレイはそれを表面には出さずに笑顔を維持した。

 二弥は胡乱げなその笑顔に隠し切れない不安を目に宿して父親を見上げる。しかし彼は二弥の頭を撫でて微笑むと「お父さんは、仕事があるから……大丈夫。すぐに戻って来るからね。このお兄さんも、きっと優しいよ」そう言って安心させようとするが、二弥はその腰に虫のように引っ付いて俯いた。しかし無理矢理剥がすような事は、男には憚れるようで。

「にやちゃん、あのね、お父さんはお仕事があるから、少しの間だけ、ボク達といよう? お父さんもこうして、すぐに帰って来るって言ってるか──」

「こんにちはあああああ──っっ! 君が今日来るって言ってた女の子? 名前は? 私はねー、レイカって言うの! よろしくね!」

 ──レイカは、レイの上に倒れ込んできた。レイの上から伸ばす手には、つい先程までの迷いなど欠片もなく、ただただ、好奇心による友好的な笑顔があるのみだった。
 レイは、なんとかレイカが落ちないようにバランスを取っている。
 二弥の父親はギョッと、爬虫類のような目を左右に大きく揺らして酷く動揺を顕にしていた。

 それは二弥も同様で、小さな瞳を精一杯に見開いて一歩、後ずさっていた。それでもレイカは手を伸ばし、にゃはは、とあどけなく笑う。

 その無垢な表情を浮かべるレイカを、何度か強く瞬きをしてからまた、警戒気味に見て、それでも二弥は、ゆっくりと躊躇うように伸ばした手でレイカの手を握り返した。

「よ、よろしく……」

 俯いて、誰にも聞こえないような声で、そう言いながら。
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