当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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三章 炎は時に激しく、時に儚く、時に普遍して燃える

150話 『彩り』

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 久し振りの地上は、『向こう』とは似ても似つかず、とても新鮮で斬新で、けれども懐かしさの篭ったその景色達が流れていく様が愛おしくて堪らないと思えるほど、ミズキはこの、生まれ育った環境を想っていた。

 事の始まりはそう、小学生低学年の頃、あの子と出会った事だった。
 親が転勤三昧で仲の良い友達が少なかった──凡そ全くと言ってもいいほどにいなかった当時のミズキは、教室でも自分の席でただ本を読むなど、一人で過ごす事が多かった。

 少しずつ色褪せていく世界の光景に失望して、嘆いて、けれども面には出さずに本の世界に入り浸っていたミズキには、その時の世界はセピア色に見えていた。
 その世界に、しっかりとした明確な彩りを与えてくれたのが、彼──もとい、『彼女』だった。

 赤、青、黄、緑、白、黒、橙、紫、桃、茶、空、灰──……。

 ありとあらゆる物に色が付き始め、それを見るのが楽しくなっていった。

 その始まりが、彼女との出会いだった。

 ……──その日も、何事も変わらず、教室の隅の方でミズキは持参した本を読み、勉強をしていた。苦しみも悲しみも寂しさも、何もかもを忘れようとするように、ただひたすらに勉強にのめり込んでいた。

 カッカッカッカッ──。

 鉛筆がノートを走る音が──薄暗い感情に飲まれた筆先が机の上に広げられる紙の上を走り、叩く音が鼓膜を震わせる。震えた鼓膜と一緒に視界と脳みそが揺れ動いている気がして、けれど無言で、ただひたすらに鉛筆を走らせる作業に夢中になる。

 辛い事も寂しい事も、ありとあらゆる被ったはずの不利益を全て鉛筆に乗せて、強くなっていく筆圧に気付かずにただただ無言で滑るように走り続ける鉛筆に手を任せて綴り続ける。覚えた事を自分なりにまとめ、知った事を一つずつ、ノートのありとあらゆる箇所に、端から端、どこかしこも小さな丸い文字で埋め尽くされ、それでも鉛筆の走る場所を求めてノートのページをめくる。

 ぶどうやみかん、様々なフルーツのイラストのオンパレード。
 そこには下敷きがあった。
 下敷きを先程まで鉛筆を走らせていたページに挟み込もうとして──、

「死んでるです」

「──っ!?」

 突如として右側からそう言われて驚きに目を見開きながら顔を釣られたように上げ、警戒心をその瞳に宿し、彼女を見詰めた。
 いちごが最初に目に入り、それが髪留めだと気が付いたのは数秒の後だ。絡まりつく猜疑心と耳の奥底で響く警鐘が時が経つに連れて大きくなっていっているのが、自分でも分かるほどだった。

「──なんで、そんな風に怒ってるです?」

「なんですか……? 私、何もしてない、じゃ、ないですか」

「怒ってるです。……岩倉さん、ですよね? 何かあるなら、言ってくださいです。聞くですから」

「何も、ない。……何もない。何もしてない。──だから、関わらないで」

「……分かったです」

 ただ──、とノートに手をつけようとした途端に聞こえた声に息を呑んで彼女の顔を見上げた。彼女は真っ直ぐにこちらを見詰めていて、少し蔑んだような目付きで、溜め息混じりにこう言った。

「そんなに寂しそうにしている子を見て、放っておけるわけないじゃないですか」

 ドクン、と心臓の鼓動が高く跳ね上がった。そこからこれまでとはまるで違うリズムで脈が頭の中を反芻し、そして何よりも、その言葉の意味するものが虚を突かれたものであり、核心でもあるから、その言葉には嫌に恐怖が詰まって聞こえた。

「──ッ!?」

「どうして、って顔をしてるですけど、バレバレです。悲しそうで寂しそうで、見てもいられなくなって」

 肩をすくめ、首を左右に振る彼女の事が少しずつ恐怖で鬼のように思えてきて、だがしかし、泣くこと能わず彼女のそのしっかりと前を見据える目から目を背けて逃れるので精一杯だ。

「あなたに、なんで……そんな、事が……」

「簡単です。それは、私が双子の姉だから。妹と同じ目をしてる──寂しそうな目をしてるあなたを見ていると手を差し出したくなるのが姉ですから」

「私の、姉じゃないでしょう……?」

「ええ。ですけど、同じ顔をしていたら分かります。それは──そうですね、最近の記憶の中なら……夜、一人で寂しいと言って布団に入ってきた妹のようで──」

「そっ、そんな顔してないもん!」

 ガタッ、と音を立てて立ち上がったミズキの顔は、酷く赤くなっていてさながらゆでダコのようだと自分で思いながら羞恥心に晒され、この後の行動を白紙に塗り替えたように固まってしまい、ぺたっ、と椅子に座ってからキッと鋭くした視線で話しかけてきた彼女を突き刺す。

「本当に、何がしたいの……?」

「私はただ、寂しそうな子がいるから放っておけない。そう言ってるんです」

「寂しくなんてないよ。だから、あっち行ってよ」

 追い払うようにそう言って、落ち着きを取り戻さんと鉛筆を再び握ると持参した辞書と教科書とを引き寄せる。愚直に、嫌になるほどに眺め、読んで、繰り返し続けた同じ作業を、自分が理解できるまで──理解のその向こう側まで知るまで続けよう。そう決め込んでいた。

 家に帰っても、お父さんは家を荒らして外に遊びに行く事しかしない。たまに帰って来てはお金を根こそぎ持って行って数日は帰って来ない。
 お母さんは逆に、知らない人を家に呼び込んでその間は少しのお金を渡されて家を追い出される。だから私は、苦しみを忘れたくて、嫌な気持ちを吐き出したくて──捌け口が欲しかった。それがたまたま、私はこれだっただけ。

 だから私は、寂しくなんてないし、ましてや愛に飢えているなんて、考えるだけでおぞましく感じる事なんてこれっぽっちも思ったことなんてない。

 私は人が嫌いだ。信用ならない。だって、少し前に上履きが無くなった。
 先生に言ってスリッパを貸してもらって椅子に座ると、机の中に満身創痍のそれが入っているのが見えた。一緒に紙切れが入っていて、それを取って見ると『死ねよクソやろー。勉強ばっかしてて気持ち悪いんだよ』と少し前の新聞だろうそれを切り取った文字で作られたものだとすぐに分かった。

 そんなふざけた手口を使う人達を見つけようとして辺りを見回すと、そこにはくすくすと笑う女子が四人、集まってこちらを尻目で見詰めていた。しかもそれは、私と仲良くしていたはずの女の子達で。

 陰険、陰湿、不明朗。そう言った言葉が似合うであろう彼女達から目を逸らし、ボロボロになってしまったその上履きを机の中から少し引き出し、そのまま握り潰すように握り締めた。

 その時から、人の信用のなさを疑った事など一つとてない。
 だからこの人もきっと……。

 そうだ。この人もきっと嘯いている。はぐらかしている。騙している。騙っている。
 それが人の本質で、核心で、本性なんだから。

「なんで、最初からそうだと決めつけるんです? 自分の事なんて、意識しなきゃ自分が一番分かっていないのに」

 目を細めて机の上に両手を体重をかけるように置く彼女がこれまでの感情を抜き去ったように視線を背けたのを見て、ミズキは目を鋭くして語勢を強めて言った。

「……分かるよ、自分の事なんて」

「じゃあ、何に怒ってるんです?」

 溜まっていた感情を吐き出すように長く大きく深い溜め息を吐きながら鉛筆を握り直し、教科書に目を向ける。

「怒ってない。何にも怒ってない」

「じゃあ、そんな怒ったみたいに言わないで欲しいです」

 カチャリと鉛筆を机に転がすように──投げ捨てるように置き、机の下の太腿の上に置いた手はそこへ深く爪を立てていた。

「……別に、普通だし」

「嘘です」

「嘘じゃない。……だから、もう黙ってよ」

 今にも泣き出しそうな顔で、だがしかし、視線を鋭利に研ぎ澄まして言葉を乗せて、その勢いで彼女を刺突する。──しかし彼女はその言葉を、視線を、受け止めた上で無傷でその場に立ってミズキに憐れむような目を向ける。

「ああ……。信じられないのですか」

「──っ!?」

「そういう人は、そこそこいますし別段怖がる事なんてないです」

「やめて」

「はい?」

 震える吐息が零れ、ミズキはぽろぽろと泣き始めた。
 恨み、妬み、悲しみ。全てがぐるぐる、ぐちゃぐちゃとないまぜにされて零れた涙が、彼女の瞳からぽろぽろと出る。溢れ出る。

「やめてよ」

 吐き捨てるように、しかし嫌に強調されたその言葉が、ミズキを見詰める彼女の鼓膜を震わせる。
 ミズキはゆっくりと机から顔を上げて、幼い顔を悲哀に滲ませながら、濁しながら、途切れ途切れ、言葉を紡いでいく。

「……私が、何したの? 何も、してないじゃない。やめてよ、やめてよぉ……」

「怖いです? 与太話だと、一蹴できないから?」

「う、ぅぅうぅ……」

「何が怖いです? 私自身? 捨てられるのが? それとも──」

 ──信じてしまう事が?

 囁かれるように酷く近くで──耳元で聞こえてきたその声が核心を衝いていて、ミズキの中で何かが壊れる音がした。パキッと。もとい、ガシャンと。そんな風にガラスが砕けるような音が頭の中で響いた。

「私は、裏切らない」

 何もない、ただ硝子の欠片が転がっているそこへ、流れるようにその言葉がするりと入ってきた。これまで自分を守っていた壁が無くなり、これまでの自分が全て、その言葉に押し流されていく感覚に自分が気付く前にどっぷりと浸かってしまい──、

「ほん、と……?」

 思考の変更を知らぬ間に強制させられていた事すら、過去の傷にすら気が付かず、ただ彼女だけ、彼女のみが、その思考の底にはあった。と言うより、それしか無くなった。

「だから、私を頼って。お友達になりましょう。きっと楽しくしてみせるです」

 声の無い、渇いた笑みがミズキから零れ──それは縋るような笑みで。
 涙が目元を腫らし、頬を濡らしている。それは伸ばした手が掴まれた瞬間に満面の笑みに変わった。

 ……──ふと、過去の残影に想いを馳せていたミズキはうっすらと、寝起きのような目を開け、眼前に青空がある事を確認して、その眩しさにまじろいだ。

 ふと周囲を見渡し、ああ、と心の中で呟き、今の状況と記憶とを繋げて、結んで、理解する。
 今は二弥の父親を探している最中で、しかし日当たりの良い夢見心地のせいでうたた寝をしてしまった。という状況に置かれている。

「……探さないと」

 空中でくるりと体を丸く折り曲げて下を向いたミズキは、目を細めて少し遠くに見える街の至る所に目を向けた。ベッドに寝転がるような姿勢で、彼女は下に下りていき、やがて道路スレスレにまで下りて来ると立って歩くような姿勢になる。
 そこで人々の話を聞きながら探して行こうと言う魂胆だ。
 道を歩きながら、人々の会話に注視ならぬ注聴する。

「ねーねー聞いたー?」「何がー?」「アイツの彼氏、二股してたってー」「まじー?」「ふんふふーんふんふふーん♪」「もうすぐ修学旅行かー」「美味いもん食いてぇー!」「彼女もほしー!」「バス、遅いなぁ」「おかーさーん。おもちゃ買ってよ~」「だーめ」「ケチー」「あのクライアントを待たせるなよ」「分かってますって! あの人怖いしなぁ……」「ねえニュース見たー?」「見た見た! アレでしょ? 父娘蒸発したやつ!」「そーそー。んでさぁ……」「あっちで事故が起こったらしいぜ」「マジかよ。俺、そっちから来たのに見てねーわー」「そーいや、さっきケモミミの女の子見たんだよ」「マジか」「俺はニュースで見たあの男見たぜ」「え? あの殺人犯?」「違うくて、あの父娘の父親の方」「あー。あの蛇みたいな顔の……」「あんな父親いたら怖えよ」「ホントに怖かったぜ。あとなんか、子供の方がいなくなったっぽくてさ、探してたぜ」

 耳を澄ますと、様々な声が入って来る。その中の一つに気になるものがあり、その方向へ目を向けると同時に一人の少女が目に映る。

 異彩を放ちその場に佇む白いワンピースに身を包んだ彼女の、その周囲の世界が歪んでいるようにさえ見え、まるで世界にそのまま貼り付けたような、そんな違和感を醸し出していた。それは、一様に括るなら──殺気と呼ばれるもので。

 その少女の存在に背筋が凍り付くような怖じ気を感じたミズキは、彼女を見詰めながら後ろに下がっていき、人混みに彼女が隠れた瞬間に雷よりも速い速度でその場から飛び去る。

 さながらそれは、瞬間移動とも呼べる速度を叩き上げ、その最中に振り向くと追いかけて来ようとしている少女はミズキに向かって止まったような世界の中で一人、身軽にスキップしていた。
 その姿に酷く恐怖が煽られ、加速していく。

 ──すぐにレイの部屋に戻り、レイを大声を張り上げて起こす。

「ど、どうしたの、ミズキさん……?」

「私と、契約を結んで下さい」



[あとがき]
 ついに百五十話到達!それなのに話はまだ半分も終わってない……!
 そんなに長くならないはずだと、いつかそう言ったのを憶えていますが、それ、嘘でしたね。すみません。
 ともかく、もうすぐ三章終わります。
 まあまあ長かった三章。楽しかった三章。思い入れの激しい三章。
 途中で週一更新になった事もあったけれど、その分話を考えられました。ありがとう。
 いつも長くなるけれど、まあ、うん。まだまだ話は続きます。三章ももうちょっと続きます。……一年くらいで終わるつもりだったのになぁ……。
 色々、予想外があり過ぎて驚いている作者はまだまだ未熟者ですかね。
 さて、ではでは。拙作ですが、どうぞお楽しみ下さい。

 あっ、これからは週一で更新していきます。
 時間的、もとい執筆速度的に丁度良さげなので。
 なので次回は十三日ですね。
 あと一、二年続きそうな雰囲気はあるけれど、流石に長くてもあと半年くらいだと思いたい。それではまた次回。
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