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2,拾われ令嬢、お屋敷へ
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黒塗りの車は夜の舗装道を滑るように走った。革張りの座席に横たえられた桜歌は、朦朧とした意識の中でぼうっと天井を見ていた。
「ほら、もうすぐ着くよ。安心して」
助手席から振り返った紫苑の声には、変わらず軽い響きがあった。桜歌は何も返せなかった。口が動かない。喉も声も、何かが張り付いたようだった。やがて車は門をくぐり、柔らかな灯に照らされた屋敷に滑り込む。格子の奥に光る障子。木と石の重みが空気に染み、静謐な風が庭を撫でていた。
紫苑は運転手に軽く合図し、後部座席から桜歌を抱え上げた。
「ほら、着いた。僕の家にようこそ!」
その声がやけに冗談めいていたのは、桜歌の不安を読んでいたからかもしれない。
屋敷の中に入ると、紫苑の声色は一変、冷静で静かなものになった。
「湯を。温度は四十二度、十七分漬ける。傷の確認を先に。消毒と止血は僕も見る。頭は洗って、爪も整えて。飯は流動食、薬膳のものを用意しなさい。寝かせる部屋は離れのほう、日が当たる場所に。急げ」
使用人たちはスッと頭を下げると黙々と動き始めた。無駄のない連携は、命じられるより前に理解していたような動きだった。やがて湯の香りと布の感触が桜歌を包む。荒れた肌を丁寧に拭う手。爪の間に溜まった泥を、布越しにこそぎ取る指の感触。熱い湯が髪を流れ、優しく梳かれる。誰かが額に布を当て、静かに「はい、少し楽にしますからね」とささやいた。
気が付けば、綿の柔らかい浴衣を着せられていた。口元にそっと匙が運ばれる。恐る恐る口を開くと、優しい味が喉を通る。栄養が身体に染み渡る感覚が、どこか遠いところでかすかにあった。
「横にするときは、明かりは一つ残しなさい。目が覚めても、誰か一人はそばにいるように。僕も見に来る」
紫苑の声が遠ざかっていく。だが、その響きはどこまでも鮮やかに耳に残っていた。そのまま現実は夢へと移行していった。重い泥の中に沈んでいた体が、少しずつ浮き上がっていくような夢だった。
――そして、朝。
静かな光が障子を透して室内に満ちていた。薄い布団。香の香り。何より、身体が温かい。
痛みはまだある。
けれど、それよりも先に気づいたのは、自分の体が清潔であるということだった。
桜歌は、ゆっくりと手を持ち上げた。
包帯の下から覗く皮膚はまだ赤かったが、洗われ、整えられていた。見回す。あまりに静かで、穏やかだ。
「……っ」
ここはどこだ。どうして自分はまだ生きている。
目を瞬かせた桜歌は、まるで夢から醒めたばかりのように、ぽつりと漏らした。
「……売られるのかと、思ったのに……」
障子がゆっくりと開き、桜歌は即座に身構えた――と言っても、弱った身体は思うように動かず、わずかに肩が震えただけだった。それでも、その目だけは鋭く、まるで獣が威嚇するような光を宿していた。
紫苑はそんな桜歌の警戒を一目で見抜き、軽く手を上げる。
「こらこら。大丈夫だよ、僕は君から何も奪わない。君を傷つけない。ほら、そんな顔しないで、ねえ?」
呆れるでも、怒るでもない。彼の声は、ただ楽しげだった。
「……」
「だんまりとは。すっかり人間不信かな。まー、仕方ないか。あんな目に遭ったんだから」
桜歌は言葉を返さない。ただその目で、紫苑の動きを見ていた。椅子に腰掛けるでもなく、床に膝をつくでもなく、紫苑はただ立ったまま、少しだけ距離を取ってそこにいた。
「いやあ、本当に何もしないよ? ただ様子を見に来ただけ。君が無理に暴れたりしてないか、体調に問題はないかってね。ん、まー、どうやら、暴れる元気もなさそうだ」
桜歌の喉が、かすかに動いた。けれど声にはならない。紫苑の言葉がどこまで本気で、どこまでが『商人としての演技』なのか、見極めることができない。ただその存在すべてが信じられず、体の奥がぎゅっと縮むようだった。
「さて、ではお世話といこう! はい、使用人の皆~、手伝ってね!」
「!?」
驚く桜歌をよそに、あれよあれよという間に、栄養のある食事が運ばれ、腕の包帯を取り替えられ、髪を丁寧に梳かれ、背中まで蒸し布で拭かれ、夕方になれば再び風呂に入れられていた。
「……?」
ぽかん、とする彼女の皮膚に、湯の熱が染みる。香りの立ちのぼる湯気の中で、彼女はただ何が起きたか現状を理解できないまま、丁寧な世話をされていた。浴室の外で、その様子を見届けていた紫苑は、耐えきれないというように笑った。
「あっははっは。捨て猫みたいだ。突然拾われて、なにが起きてるかもわからず目を丸くしてる」
その声はからかい半分、だが、どこか静かにしみじみとしていた。
「……ま、でも……そういうの、嫌いじゃないんだよね、僕。一度壊れたものって、どこか純粋だ。無駄がない。信じる余裕も、疑う余裕もない。ただ、今を受け入れるしかない。その姿は案外、美しい」
風呂場からは、桜歌が湯の中で動くかすかな音だけが返ってくる。紫苑はそのまま、わずかに漏れる湯の香りが鼻をくすぐるのを感じて目を細めてから、使用人に向けて小さく頷いた。
「明日には少しは歩けるかな。練習させてあげて。ゆっくりでいいよ。焦る必要なんてないんだから」
「ほら、もうすぐ着くよ。安心して」
助手席から振り返った紫苑の声には、変わらず軽い響きがあった。桜歌は何も返せなかった。口が動かない。喉も声も、何かが張り付いたようだった。やがて車は門をくぐり、柔らかな灯に照らされた屋敷に滑り込む。格子の奥に光る障子。木と石の重みが空気に染み、静謐な風が庭を撫でていた。
紫苑は運転手に軽く合図し、後部座席から桜歌を抱え上げた。
「ほら、着いた。僕の家にようこそ!」
その声がやけに冗談めいていたのは、桜歌の不安を読んでいたからかもしれない。
屋敷の中に入ると、紫苑の声色は一変、冷静で静かなものになった。
「湯を。温度は四十二度、十七分漬ける。傷の確認を先に。消毒と止血は僕も見る。頭は洗って、爪も整えて。飯は流動食、薬膳のものを用意しなさい。寝かせる部屋は離れのほう、日が当たる場所に。急げ」
使用人たちはスッと頭を下げると黙々と動き始めた。無駄のない連携は、命じられるより前に理解していたような動きだった。やがて湯の香りと布の感触が桜歌を包む。荒れた肌を丁寧に拭う手。爪の間に溜まった泥を、布越しにこそぎ取る指の感触。熱い湯が髪を流れ、優しく梳かれる。誰かが額に布を当て、静かに「はい、少し楽にしますからね」とささやいた。
気が付けば、綿の柔らかい浴衣を着せられていた。口元にそっと匙が運ばれる。恐る恐る口を開くと、優しい味が喉を通る。栄養が身体に染み渡る感覚が、どこか遠いところでかすかにあった。
「横にするときは、明かりは一つ残しなさい。目が覚めても、誰か一人はそばにいるように。僕も見に来る」
紫苑の声が遠ざかっていく。だが、その響きはどこまでも鮮やかに耳に残っていた。そのまま現実は夢へと移行していった。重い泥の中に沈んでいた体が、少しずつ浮き上がっていくような夢だった。
――そして、朝。
静かな光が障子を透して室内に満ちていた。薄い布団。香の香り。何より、身体が温かい。
痛みはまだある。
けれど、それよりも先に気づいたのは、自分の体が清潔であるということだった。
桜歌は、ゆっくりと手を持ち上げた。
包帯の下から覗く皮膚はまだ赤かったが、洗われ、整えられていた。見回す。あまりに静かで、穏やかだ。
「……っ」
ここはどこだ。どうして自分はまだ生きている。
目を瞬かせた桜歌は、まるで夢から醒めたばかりのように、ぽつりと漏らした。
「……売られるのかと、思ったのに……」
障子がゆっくりと開き、桜歌は即座に身構えた――と言っても、弱った身体は思うように動かず、わずかに肩が震えただけだった。それでも、その目だけは鋭く、まるで獣が威嚇するような光を宿していた。
紫苑はそんな桜歌の警戒を一目で見抜き、軽く手を上げる。
「こらこら。大丈夫だよ、僕は君から何も奪わない。君を傷つけない。ほら、そんな顔しないで、ねえ?」
呆れるでも、怒るでもない。彼の声は、ただ楽しげだった。
「……」
「だんまりとは。すっかり人間不信かな。まー、仕方ないか。あんな目に遭ったんだから」
桜歌は言葉を返さない。ただその目で、紫苑の動きを見ていた。椅子に腰掛けるでもなく、床に膝をつくでもなく、紫苑はただ立ったまま、少しだけ距離を取ってそこにいた。
「いやあ、本当に何もしないよ? ただ様子を見に来ただけ。君が無理に暴れたりしてないか、体調に問題はないかってね。ん、まー、どうやら、暴れる元気もなさそうだ」
桜歌の喉が、かすかに動いた。けれど声にはならない。紫苑の言葉がどこまで本気で、どこまでが『商人としての演技』なのか、見極めることができない。ただその存在すべてが信じられず、体の奥がぎゅっと縮むようだった。
「さて、ではお世話といこう! はい、使用人の皆~、手伝ってね!」
「!?」
驚く桜歌をよそに、あれよあれよという間に、栄養のある食事が運ばれ、腕の包帯を取り替えられ、髪を丁寧に梳かれ、背中まで蒸し布で拭かれ、夕方になれば再び風呂に入れられていた。
「……?」
ぽかん、とする彼女の皮膚に、湯の熱が染みる。香りの立ちのぼる湯気の中で、彼女はただ何が起きたか現状を理解できないまま、丁寧な世話をされていた。浴室の外で、その様子を見届けていた紫苑は、耐えきれないというように笑った。
「あっははっは。捨て猫みたいだ。突然拾われて、なにが起きてるかもわからず目を丸くしてる」
その声はからかい半分、だが、どこか静かにしみじみとしていた。
「……ま、でも……そういうの、嫌いじゃないんだよね、僕。一度壊れたものって、どこか純粋だ。無駄がない。信じる余裕も、疑う余裕もない。ただ、今を受け入れるしかない。その姿は案外、美しい」
風呂場からは、桜歌が湯の中で動くかすかな音だけが返ってくる。紫苑はそのまま、わずかに漏れる湯の香りが鼻をくすぐるのを感じて目を細めてから、使用人に向けて小さく頷いた。
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