勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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魔王の使い

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 ナージャが再び現れたのは、農村を出て二日後の夜だった。

 パーティーが街道沿いの廃屋で野営していた時のことだ。ガレスとミラは焚き火の前で眠り、リーシャは毛布にくるまって寝息を立てている。

 レイドだけが起きていた。剣を膝に置き、廃屋の入口から外を眺めている。月が半分だけ雲から顔を出し、街道を青白い光で照らしていた。虫の声が遠く近く揺れている。夜気は湿り気を帯び、朝露の予兆を含んでいた。

 見張りの名目で外に出ると、廃屋の裏手——月明かりが届かない暗がりに、黒いローブの小さな影が立っていた。

「来たか」

「主が場所を指定した。ここから東に半日。渓谷の底に古い祠がある。明後日の夜明けに」

 ナージャの声は低く、感情を押し殺している。だがその紅い瞳の奥に、主への深い心配が滲んでいた。

「一つ聞きたい」レイドが言った。「ヴェルディアは……どれほど弱っている」

 ナージャの表情が歪んだ。唇を噛み、それから乾いた声で答えた。

「主は数千年間、独りで世界を支えてきた。五つあった柱が一つになった時から、負担は五倍になった。身体が持つはずがない」

 五つの柱。レイドは息を呑んだ。一周目で知ったのは「魔王が世界の柱である」という事実だけだった。他にも柱がいたという話は——

「驚いているな。知らないのか。かつて五人の柱が世界を支えていた。千年前、人間どもが四つを壊した。主だけが残った」

 ナージャの声に怒りが混じった。紅い瞳が月光を受けて燃える。

「主は独りで全てを背負った。魔力の循環、魔物の制御、古代封印の維持、自然法則の安定——一人の身体に全てを負わせて、それで千年だ。壊れないほうがおかしい」

 レイドは黙った。ヴェルディアの孤独の深さが、ナージャの言葉を通して胸に突き刺さる。千年の孤独。それを支え続けたメイド長の忠誠もまた、想像を絶するものだった。

「ナージャ。お前は——ヴェルディアにどれほど仕えている」

「千五百年」

 短い答えだった。そこに込められた重みは、言葉では測れない。

「主が柱として選ばれた時から、私はお側にいる。主が苦しむ時も。柱が壊される度に、主が泣く時も。ずっと——ずっと、側にいた」

 ナージャの声が微かに震えた。だがすぐに表情を引き締め、冷たい目に戻る。

「だから言っておく。お前が主を利用するつもりなら、殺す。主を傷つけるなら、殺す。お前が信用できるかどうかは、主が直接確かめる。私の判断ではない」

「分かっている」

「分かっていない」ナージャが一歩踏み出した。小柄な身体から発せられる威圧感が、夜気を震わせた。

 その右手が月光に照らされた時、レイドは見た。ナージャの手の甲に、薄く光る紋章がある。複雑な文様が皮膚の下から浮かび上がるように輝いていた。

「その紋章は——」

「主との契約の証だ。余計なことを聞くな」

 ナージャは手を引っ込めた。だが紋章の光が、一瞬だけ心臓の鼓動に合わせて脈打ったのをレイドは見逃さなかった。あの紋章はヴェルディアの生命力と連動している。メイド長の命は、魔王の命と繋がっているのだ。

「お前たち人間は、いつも分かっていると言う。そして裏切る。千年前もそうだった。『柱を守る』と言って、結局壊した」

 レイドは言い返さなかった。その怒りは正当なものだ。人間は魔王を悪と決めつけ、世界の柱を壊し続けてきた。自分自身が一周目でそうした。

「……俺は裏切らない」

「証明しろ」

「するつもりだ。だから——ヴェルディアに会わせてくれ」

 長い沈黙。夜風がナージャのローブを揺らした。遠くで梟が鳴いている。

「……明後日の夜明け。渓谷の祠。一人で来い」

 ナージャは踵を返した。数歩進んで、立ち止まる。

「勇者。一つだけ教えてやる」

 振り返らずに、ナージャは言った。

「主の衰弱は加速している。魔物の制御が崩れ始めたのは、お前も見ただろう。あの農村の枯れた畑、凶暴化した魔物——全て主の力が衰えている証拠だ」

「……どれくらいの猶予がある」

「分からない。だが——主が倒れれば、世界は一周目と同じ終わりを迎える。お前が止めなくても、自然に崩壊する。時間がないのは、お前だけじゃない」

 ナージャの声が掠れた。千五百年仕え続けた主の死を、この小さな従者は既に覚悟し始めているのだ。

 ナージャは闇に溶けるように消えた。最後に残ったのは、微かな魔力の残り香だけだった。


  ◇


 廃屋に戻ると、焚き火の向こうでリーシャが身体を起こしていた。

 毛布を肩に掛けたまま、碧い瞳がレイドを見つめている。

「……起きていたのか」

「ええ。あなたが外に出た音で」

 リーシャは焚き火の傍に歩み寄り、レイドの隣に座った。炎の光が銀髪を赤く染めている。

「昨夜、誰かと会ってましたよね」

 心臓が跳ねた。だがリーシャの声は責めるものではなく、確認するような冷静さだった。

「……魔族の気配がしました」

 レイドの呼吸が止まった。リーシャの魔力感知能力は学院首席に相応しい精度を持っている。ナージャの残した魔力の痕跡を、嗅ぎ取ったのだ。

「レイド」リーシャが静かに言った。「私に隠し事をしているのは分かっています。でも、今は追及しません」

「……なぜだ」

「あなたの行動には一貫性があるからです。矛盾だらけですが、その矛盾自体に方向性がある。あなたは何か——大きな目的のために動いている。それだけは、私にも分かります」

 焚き火が爆ぜた。火の粉が宙に舞い、すぐに闇に消えた。

「だから待ちます。あなたが話す時まで」リーシャが目を伏せた。「でも、ずっとは待てません。そのことは、覚えておいてください」

 リーシャは毛布を引き直し、元の寝場所に戻った。

 レイドは焚き火を見つめていた。炎の中心部が青く燃え、その周囲をオレンジの光が包んでいる。仲間を信じたい。だが真実を話せば、全てが崩れるかもしれない。

 嘘を重ねるたびに、仲間との距離が開いていく。

 だがヴェルディアとの対話は、何としても実現させなければならない。世界を救う方法は、魔王と共に探すしかない。

 焚き火が小さくなっていく。ガレスの寝息と、遠くの虫の声だけが夜を満たしていた。

 明後日の夜明け。渓谷の祠。

 レイドは一人で、魔王の元へ向かう。仲間に嘘をついて。

 その嘘の重さが、焚き火の残り火のように胸の中でくすぶり続けていた。

 毛布を引き上げ、目を閉じた。瞼の裏に、ナージャの紅い瞳が浮かぶ。千五百年の忠誠。五つの柱が壊され、主が独りで世界を支え続けた千年。

 人間が壊したのだ。「正義」の名の下に。

 自分もかつて、その正義を信じていた。魔王は倒すべき存在だと疑わなかった。聖教会の教えを鵜呑みにし、英雄になれると信じて剣を振るった。

 その結果が——世界の崩壊だった。

 レイドは寝返りを打った。リーシャの碧い瞳が、闇の中でもまだ自分を見ている気がした。「ずっとは待てません」。その言葉が、胸に刺さったまま抜けない。

 いつか全てを話す。そう決めている。

 だが「いつか」は、いつだ。

 焚き火の最後の熾火が、静かに灰に変わっていった。
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