勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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東回廊の異変

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 最初に気づいたのは、ミラだった。

「ねえ。この辺、おかしくない?」

 東回廊を進んで三日目。街道沿いの小さな農村に差しかかった時、ミラが立ち止まって鼻をひくつかせた。半エルフの鋭い嗅覚が、空気の異変を捉えている。

「何が見える?」レイドが尋ねた。

「見えるっていうか——匂いが変。土が腐ってる匂い。でも、腐敗じゃない。もっと根っこのところが歪んでる感じ」

 村に入ると、異変は目に見える形で現れていた。

 畑の作物が不自然に枯れている。青々としているべき麦の穂先が茶色く萎び、土は乾いているのに作物だけが水を吸えないかのように脱力していた。家畜の囲いでは牛が隅に固まり、怯えたように低く唸っている。

 レイドの指先が冷たくなった。

 ——一周目と同じだ。世界崩壊の前兆。

 あの時もこうだった。魔王が倒される前から、世界は少しずつ壊れ始めていた。ヴェルディアの力が衰え、均衡が崩れ、大地が悲鳴を上げる。

 ガレスが眉を顰めた。

「天候のせいか? こんな枯れ方は見たことがねえが」

「天候じゃありません」リーシャが畑の土を一掴み取り、指の間で崩した。「土の魔素が乱れています。通常、土壌には微量の魔力が循環していて、それが植物の生育を助けているんですが……この土は、魔力の流れが止まっています」

「止まってる?」

「正確には、流れの方向が狂っている。本来は南から北へ流れるべき地脈のエネルギーが、不規則に脈動しています」

 リーシャが碧眼を細め、地面に手を当てた。微かな光が掌から漏れる。魔法的な分析だ。

「……地脈自体が不安定になっている。原因は分かりませんが、かなり広範囲に影響が及んでいるはずです」

 レイドは黙って聞いていた。原因は分かっている。魔王ヴェルディアの力の衰弱だ。均衡の柱が揺らげば、世界中の魔力循環が乱れる。だがそれを今ここで言えるはずがない。

「土地の魔素が乱れているのかもしれない。進みながら観察しよう」

 それだけ言って、レイドは歩き出した。


  ◇


 村の長老の家は、石造りの質素な建物だった。

 暖炉の火が部屋を薄暗い橙色に染め、乾いた薬草の匂いが漂っている。背中の曲がった老人が、椅子に深く腰を下ろしてレイドたちを見つめていた。

「勇者様方が来てくだすったか。ありがたいことだ」

「作物の異変について聞きたい」レイドが単刀直入に言った。「いつから始まった?」

「ひと月ほど前からじゃな。最初は裏山の泉が濁り始めた。それから畑の作物が弱り出し、家畜も落ち着かんようになった」

 ——裏山の泉の濁り。アッシュベリー村でルカが言っていたのと同じだ。

 レイドの喉が乾いた。同じ現象が広域で起きている。魔王の衰弱が、大陸規模で世界を蝕み始めている。

「長老。古い言い伝えに、こういった異変について何か残っていないか」

 老人の目が一瞬だけ鋭くなった。しわだらけの顔に、記憶を辿る表情が浮かぶ。

「……昔、このあたりに賢者がおったそうじゃ。百年以上も前の話だが。その賢者が、こう言い残したと聞いておる」

 長老は暖炉の火を見つめながら、乾いた声で言った。

「『魔王が弱れば世界も弱る。天地を支える柱を折れば、天は落ち地は沈む』と」

 レイドの血の気が引いた。

 リーシャが息を呑む音が、隣から聞こえた。リーシャの碧眼が鋭く輝いている。学院で読んだ異端の論文と、長老の言い伝えが——重なった。

「……ありがとう。参考になった」

 レイドは立ち上がった。これ以上この話題を掘り下げると、リーシャの勘が動く。だがそれも時間の問題だとわかっていた。

 家を出る時、長老が小さく付け加えた。

「勇者様。賢者は聖教会に連れて行かれたきり、戻らなかったそうじゃ」

 扉が閉まった。冷たい外気が頬を撫でた。

 リーシャが黙ってレイドの隣を歩いている。その沈黙の中に、膨大な思考が渦巻いていることが分かった。


  ◇


 その夜。

 村の外れの丘に、レイドは一人で立っていた。

 地脈の乱れを自分の目で確認したかった。一周目の記憶では、この時期の地脈の乱れはまだ軽微だったはずだ。だが今回は——村の作物が枯れるほどの影響が出ている。ヴェルディアの衰弱が、一周目より早く進行している可能性がある。

 月明かりの下で、レイドは地面に手を置いた。勇者の紋章が微かに反応し、地脈の流れを感じ取る。不規則な脈動。本来は穏やかな川のように流れるべきエネルギーが、痙攣するように揺れている。

 背筋が寒くなった。

 ——時間がない。思っていたより、ずっと。

「……勇者よ」

 闇の中から、声がした。

 低く、冷たく、だが敵意は感じない声。レイドは振り返った。

 月光の中に、小柄な人影が立っている。漆黒のローブに覆われた身体。フードの下から覗く鋭い瞳。そして——人間にはない、尖った耳。

「お前は、知っているのだろう」

 ローブのフードが風に揺れ、月明かりが顔を照らした。漆黒の短い髪。毒舌そうに引き結ばれた唇。小柄な体躯に不釣り合いな、圧倒的な威圧感。

 魔王城のメイド長——ナージャ。

 レイドの全身に緊張が走った。一周目では、ナージャとの接触はもっと後だった。魔王城に踏み込んだ時に初めて対面したはずだ。

「お前が……ヴェルディアの使いか」

「主の名を気安く呼ぶな、人間」ナージャの声に怒気が滲んだ。「だが、主がお前に伝えたいことがあると仰せだ」

 紅い瞳が月光を受けて燃える。

「——『世界の均衡が崩れ始めている。話がしたい』」

 魔王ヴェルディアからの伝言。

 レイドの心臓が、強く打った。ヴェルディアが自分の死に戻りを知っている。そして——助けを求めている。

「いつ、どこで」

「性急な男だ。主が日時と場所を指定する。お前はただ待て」

 ナージャは踵を返し、闇の中に消えかけた。だが最後に振り返り、紅い瞳でレイドを射抜いた。

「一つだけ言っておく。主を裏切るなら——お前を殺す。勇者だろうが何だろうが、関係ない」

 風が吹いた。ナージャの姿は、闇に溶けるように消えた。

 レイドは丘の上に立ち尽くしていた。夜風が冷たい。手が震えている。だが——

 ヴェルディアが、話を望んでいる。

 一周目では叶わなかった対話が、今度は実現するかもしれない。

 宿に戻った時、リーシャがまだ灯りを点けた部屋にいることに気づいた。彼女は窓辺に座り、レイドが宿に入るのを見ていた。

 ——気づかれている。深夜に一人で外に出たことを。

 だが今夜は、その視線を受け流すしかなかった。

 部屋に戻り、ベッドに横たわった。天井の木目を見つめながら、ナージャの言葉を反芻する。

 ヴェルディアが話を望んでいる。均衡が崩れ始めている。つまり、魔王自身も事態の深刻さを認識しているのだ。一周目では、こんな接触はなかった。あの時のヴェルディアは、人間の側から攻め込まれるまで沈黙を貫いていた。

 今回は違う。死に戻りしたレイドの存在を、ヴェルディアは感知している。時間に関わる力——それは柱の力そのものだ。

 窓の外で、梟が一声鳴いた。静寂が部屋を満たす。

 隣の部屋から、リーシャがまだ何か書き物をしている気配が伝わってきた。紙にペンが走る微かな音。彼女は今頃、長老の言い伝えと自分の研究を突き合わせているのだろう。

 ——いつか、全てを話す日が来る。

 だが今は、まだ。

 レイドは目を閉じた。明日からの旅路は、さらに険しくなる。魔王の使者との接触。仲間への嘘。そして刻一刻と迫る、世界の終わり。

 どれだけの嘘を重ねれば、真実に辿り着けるのか。その答えは、まだ見えなかった。
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