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告白の夜と、闇への一歩
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蝋燭の芯が焦げる匂いが、部屋の空気に溶けていた。
レイドは自分の声が、まるで他人のもののように聞こえていた。
「一度、世界が終わるのを見た。魔王が死んで——全てが崩壊した」
リーシャは瞬きすらしなかった。膝の上に広げた紙束を握る指先だけが、微かに白くなっている。
「魔王は世界の均衡を保つ柱だった。それを俺たちが——勇者が壊した」
窓の外で風が鳴った。遠い犬の遠吠えが、夜の底を掠めて消える。
「大地が割れた。海が逆流した。魔物が暴走して、街が——人が——」
言葉が詰まった。喉の奥に、あの日の粉塵の味が蘇る。瓦礫に埋もれた手。助けを求める声。そして——沈黙。
「ガレスが俺を庇って死んだ。ミラは魔物に囲まれて。お前は——」
そこで、レイドは口を閉じた。リーシャの最期を、言葉にすることができなかった。
沈黙が降りた。蝋燭の炎が、二人の影を壁に刻んでいる。
「……死に戻り」
リーシャの声は、驚くほど静かだった。
「勇者の紋章に秘められた機能、ですか」
「ああ。世界の均衡が致命的に崩壊した時に発動する——最終安全装置だ。だが、一度きりしか使えない」
リーシャが紙束をめくった。指先はもう震えていなかった。
「地脈のデータと照合させてください」
学者の顔だった。感情を理性の檻に閉じ込めて、まず事実を確認する。それがリーシャという人間だと、レイドは一周目から知っていた。
「私が観測した地脈の乱れは、魔王領を中心とした放射状パターンを示しています。もし魔王が均衡の柱なら——柱が弱まれば、放射状に崩壊が広がる」
紙束の上を指が走る。数式と観測記録が、レイドの言葉を裏づけていく。
「矛盾がない……いえ、むしろ私の研究で説明できなかった異常値が、全て説明できてしまう」
リーシャが顔を上げた。蝋燭の光が、その瞳に揺れる水面を映し出していた。
「あなたは——」
声が途切れた。一度だけ唇を噛み、それからリーシャは言った。
「一人で、この重さを抱えていたんですね」
その一言が、レイドの中の何かを砕いた。
——泣くな。泣いている場合じゃない。
そう思っているのに、視界が滲んだ。拳を握っても、歯を食いしばっても、止められなかった。誰にも言えなかった。信じてもらえなかった。一周目では裏切り者と呼ばれ、殺された。あの孤独の全てが、リーシャのたった一言で決壊した。
「……すまない」
「謝らないでください」
リーシャの手が、レイドの拳の上に重なった。小さくて、冷たくて——けれど確かに、そこにある温もりだった。
「私はあなたの側に立ちます。研究者として、そしてあなたの仲間として」
蝋燭が一つ、燃え尽きた。暗くなった部屋の中で、レイドはリーシャの手を握り返した。
◇
それから二人は、残りの蝋燭が半分になるまで話し続けた。
「最も急務なのは、魔王ヴェルディアとの直接対話です」
リーシャが指で机を叩く。学院時代の癖だ。
「均衡を維持する方法があるのか、柱の代替手段はないのか——それを知らなければ、誰も説得できません」
「ああ。ナージャから会合場所は聞いている」
「ですが」リーシャが眉を寄せた。「パーティー全員で魔王領に向かえば、ジークの目をごまかせません。フェリクスが監視しているなら尚更です」
「わかっている」
レイドは窓の外に目を向けた。東の空はまだ暗い。夜明けまで、あと数時間。
「俺一人で行く」
「——それは」
「リーシャ。お前にはパーティーをまとめていてほしい。ガレスとミラに、俺が戻るまで持ちこたえてくれ」
リーシャの唇が引き結ばれた。反論の言葉が、喉元まで来ているのが見えた。だが彼女はそれを飲み込み、代わりに問うた。
「……どのくらいで戻れますか」
「三日。長くて五日だ」
「五日を過ぎたら、迎えに行きます」
交渉の余地のない声だった。レイドは苦笑した。
「わかった」
「約束ですよ」
リーシャが立ち上がり、紙束を胸に抱えた。扉に向かいかけて、足を止める。
「レイドさん」
振り返った横顔に、蝋燭の最後の光が当たっていた。
「話してくれて——ありがとうございます」
扉が静かに閉まった。レイドは暫く、その扉を見つめていた。
◇
翌朝の食堂は、焼きたてのパンと干し肉のスープの匂いで満ちていた。
木の椀から立ち上る湯気が、朝の光に白く輝いている。ガレスが豪快にパンをちぎり、スープに浸して頬張っていた。
「で、先行偵察ってのはどういうことだ?」
「東回廊の先に気になる場所がある。一人で動いた方が足が速い」
「ふうん」
ミラがスプーンを咥えたまま、猫のような目をレイドに向けた。
「一人で。また」
「……偵察だ。大した距離じゃない」
「はいはい、了解」
ミラの声は軽かったが、その目は笑っていなかった。スプーンを皿に戻し、椅子の背に凭れる。
「三日で戻るっしょ?」
「ああ」
「五日経っても戻らなかったら、あたしが追いかけるからね。蹴り飛ばしてでも連れ戻す」
ガレスが椀を置いた。大きな手で口元を拭い、レイドをまっすぐに見る。
「レイド」
「なんだ」
「気をつけろよ」
それだけだった。それだけで十分だった。ガレスは問い詰めない。信じると決めた相手に対して、この男はいつもそうだ。
——一周目でもそうだった。最後まで俺を信じて、俺を庇って死んだ。
レイドは椀に残ったスープを飲み干した。温かさが喉を通り、胸の奥に沁みる。
「行ってくる」
立ち上がり、剣帯を締め直す。背嚢はすでに部屋から持ってきていた。
「すぐ戻る」
嘘にならないように。約束にするために。レイドはそう言って、食堂を出た。
背後で、ガレスの声が聞こえた。
「……なあ、リーシャ」
「はい?」
「あいつ、帰ってくるよな?」
リーシャの返事は聞こえなかった。レイドは振り返らず、宿の扉を押し開けた。朝の冷たい風が頬を打つ。
——帰る。必ず。
◇
東回廊の果ては、人間の領域が終わる場所だった。
街道の石畳はとうに途絶え、踏み固められた土の道が、やがて灰色の荒野に溶けていく。空は紫がかった曇天で、太陽の位置さえ曖昧だった。
レイドは境界の標石の前で足を止めた。風化した石柱に刻まれた古い文字——「此処より先、人の法及ばず」。一周目では読めなかった古代語が、今は読める。ナージャが教えてくれた知識だ。
風が乾いていた。草の匂いも、土の匂いもない。ただ砂と石と、微かに甘い腐敗の気配だけが鼻を突く。
——一周目では、ここをパーティー全員で越えた。
あの時は怖くなかった。仲間がいた。アルヴィンの背中が前にあった。正義を信じていた。魔王を倒せば世界が救われると、疑いもしなかった。
今は一人だ。そして、あの頃の無知な自分はもういない。
レイドは一歩、踏み出した。
空気が変わった。肌を撫でる風に、重く湿った瘴気が混じる。一周目より、明らかに濃い。ナージャの言葉が脳裏をよぎった——魔王ヴェルディアの衰弱は加速している。柱が軋んでいる。世界の終わりが、刻一刻と近づいている。
荒野を歩いた。一時間、二時間。太陽が見えないせいで、時間の感覚が曖昧になる。足元の土が次第に黒ずみ、岩の表面に紫色の苔のようなものが這っていた。
そして——空気が、止まった。
風が凪いだ。瘴気すら動かない。世界が息を殺したような静寂の中で、レイドは自分の心臓の音だけを聞いていた。
遥か前方、闇の帳が大地を覆う境界線。その向こうに、魔王領が広がっている。
そしてその闇の中で——紅い光が、二つ、瞬いた。
レイドの足が止まった。全身の毛が逆立つ。勇者の紋章が、左手の甲で微かに熱を持った。
あの光を知っている。一周目で、剣を向けた相手の瞳。世界の全てを背負い、それでも壊れずに立ち続けた存在。
——魔王ヴェルディアが、待っている。
レイドは剣の柄に手を置いた。そして、その手を離した。
今度は、剣を抜くために来たのではない。
紅い双眸が、闇の向こうでレイドを見つめていた。数千年の孤独を湛えた、物憂げな光。
「——会いに来た」
レイドは呟き、闇の中へ足を踏み入れた。
レイドは自分の声が、まるで他人のもののように聞こえていた。
「一度、世界が終わるのを見た。魔王が死んで——全てが崩壊した」
リーシャは瞬きすらしなかった。膝の上に広げた紙束を握る指先だけが、微かに白くなっている。
「魔王は世界の均衡を保つ柱だった。それを俺たちが——勇者が壊した」
窓の外で風が鳴った。遠い犬の遠吠えが、夜の底を掠めて消える。
「大地が割れた。海が逆流した。魔物が暴走して、街が——人が——」
言葉が詰まった。喉の奥に、あの日の粉塵の味が蘇る。瓦礫に埋もれた手。助けを求める声。そして——沈黙。
「ガレスが俺を庇って死んだ。ミラは魔物に囲まれて。お前は——」
そこで、レイドは口を閉じた。リーシャの最期を、言葉にすることができなかった。
沈黙が降りた。蝋燭の炎が、二人の影を壁に刻んでいる。
「……死に戻り」
リーシャの声は、驚くほど静かだった。
「勇者の紋章に秘められた機能、ですか」
「ああ。世界の均衡が致命的に崩壊した時に発動する——最終安全装置だ。だが、一度きりしか使えない」
リーシャが紙束をめくった。指先はもう震えていなかった。
「地脈のデータと照合させてください」
学者の顔だった。感情を理性の檻に閉じ込めて、まず事実を確認する。それがリーシャという人間だと、レイドは一周目から知っていた。
「私が観測した地脈の乱れは、魔王領を中心とした放射状パターンを示しています。もし魔王が均衡の柱なら——柱が弱まれば、放射状に崩壊が広がる」
紙束の上を指が走る。数式と観測記録が、レイドの言葉を裏づけていく。
「矛盾がない……いえ、むしろ私の研究で説明できなかった異常値が、全て説明できてしまう」
リーシャが顔を上げた。蝋燭の光が、その瞳に揺れる水面を映し出していた。
「あなたは——」
声が途切れた。一度だけ唇を噛み、それからリーシャは言った。
「一人で、この重さを抱えていたんですね」
その一言が、レイドの中の何かを砕いた。
——泣くな。泣いている場合じゃない。
そう思っているのに、視界が滲んだ。拳を握っても、歯を食いしばっても、止められなかった。誰にも言えなかった。信じてもらえなかった。一周目では裏切り者と呼ばれ、殺された。あの孤独の全てが、リーシャのたった一言で決壊した。
「……すまない」
「謝らないでください」
リーシャの手が、レイドの拳の上に重なった。小さくて、冷たくて——けれど確かに、そこにある温もりだった。
「私はあなたの側に立ちます。研究者として、そしてあなたの仲間として」
蝋燭が一つ、燃え尽きた。暗くなった部屋の中で、レイドはリーシャの手を握り返した。
◇
それから二人は、残りの蝋燭が半分になるまで話し続けた。
「最も急務なのは、魔王ヴェルディアとの直接対話です」
リーシャが指で机を叩く。学院時代の癖だ。
「均衡を維持する方法があるのか、柱の代替手段はないのか——それを知らなければ、誰も説得できません」
「ああ。ナージャから会合場所は聞いている」
「ですが」リーシャが眉を寄せた。「パーティー全員で魔王領に向かえば、ジークの目をごまかせません。フェリクスが監視しているなら尚更です」
「わかっている」
レイドは窓の外に目を向けた。東の空はまだ暗い。夜明けまで、あと数時間。
「俺一人で行く」
「——それは」
「リーシャ。お前にはパーティーをまとめていてほしい。ガレスとミラに、俺が戻るまで持ちこたえてくれ」
リーシャの唇が引き結ばれた。反論の言葉が、喉元まで来ているのが見えた。だが彼女はそれを飲み込み、代わりに問うた。
「……どのくらいで戻れますか」
「三日。長くて五日だ」
「五日を過ぎたら、迎えに行きます」
交渉の余地のない声だった。レイドは苦笑した。
「わかった」
「約束ですよ」
リーシャが立ち上がり、紙束を胸に抱えた。扉に向かいかけて、足を止める。
「レイドさん」
振り返った横顔に、蝋燭の最後の光が当たっていた。
「話してくれて——ありがとうございます」
扉が静かに閉まった。レイドは暫く、その扉を見つめていた。
◇
翌朝の食堂は、焼きたてのパンと干し肉のスープの匂いで満ちていた。
木の椀から立ち上る湯気が、朝の光に白く輝いている。ガレスが豪快にパンをちぎり、スープに浸して頬張っていた。
「で、先行偵察ってのはどういうことだ?」
「東回廊の先に気になる場所がある。一人で動いた方が足が速い」
「ふうん」
ミラがスプーンを咥えたまま、猫のような目をレイドに向けた。
「一人で。また」
「……偵察だ。大した距離じゃない」
「はいはい、了解」
ミラの声は軽かったが、その目は笑っていなかった。スプーンを皿に戻し、椅子の背に凭れる。
「三日で戻るっしょ?」
「ああ」
「五日経っても戻らなかったら、あたしが追いかけるからね。蹴り飛ばしてでも連れ戻す」
ガレスが椀を置いた。大きな手で口元を拭い、レイドをまっすぐに見る。
「レイド」
「なんだ」
「気をつけろよ」
それだけだった。それだけで十分だった。ガレスは問い詰めない。信じると決めた相手に対して、この男はいつもそうだ。
——一周目でもそうだった。最後まで俺を信じて、俺を庇って死んだ。
レイドは椀に残ったスープを飲み干した。温かさが喉を通り、胸の奥に沁みる。
「行ってくる」
立ち上がり、剣帯を締め直す。背嚢はすでに部屋から持ってきていた。
「すぐ戻る」
嘘にならないように。約束にするために。レイドはそう言って、食堂を出た。
背後で、ガレスの声が聞こえた。
「……なあ、リーシャ」
「はい?」
「あいつ、帰ってくるよな?」
リーシャの返事は聞こえなかった。レイドは振り返らず、宿の扉を押し開けた。朝の冷たい風が頬を打つ。
——帰る。必ず。
◇
東回廊の果ては、人間の領域が終わる場所だった。
街道の石畳はとうに途絶え、踏み固められた土の道が、やがて灰色の荒野に溶けていく。空は紫がかった曇天で、太陽の位置さえ曖昧だった。
レイドは境界の標石の前で足を止めた。風化した石柱に刻まれた古い文字——「此処より先、人の法及ばず」。一周目では読めなかった古代語が、今は読める。ナージャが教えてくれた知識だ。
風が乾いていた。草の匂いも、土の匂いもない。ただ砂と石と、微かに甘い腐敗の気配だけが鼻を突く。
——一周目では、ここをパーティー全員で越えた。
あの時は怖くなかった。仲間がいた。アルヴィンの背中が前にあった。正義を信じていた。魔王を倒せば世界が救われると、疑いもしなかった。
今は一人だ。そして、あの頃の無知な自分はもういない。
レイドは一歩、踏み出した。
空気が変わった。肌を撫でる風に、重く湿った瘴気が混じる。一周目より、明らかに濃い。ナージャの言葉が脳裏をよぎった——魔王ヴェルディアの衰弱は加速している。柱が軋んでいる。世界の終わりが、刻一刻と近づいている。
荒野を歩いた。一時間、二時間。太陽が見えないせいで、時間の感覚が曖昧になる。足元の土が次第に黒ずみ、岩の表面に紫色の苔のようなものが這っていた。
そして——空気が、止まった。
風が凪いだ。瘴気すら動かない。世界が息を殺したような静寂の中で、レイドは自分の心臓の音だけを聞いていた。
遥か前方、闇の帳が大地を覆う境界線。その向こうに、魔王領が広がっている。
そしてその闇の中で——紅い光が、二つ、瞬いた。
レイドの足が止まった。全身の毛が逆立つ。勇者の紋章が、左手の甲で微かに熱を持った。
あの光を知っている。一周目で、剣を向けた相手の瞳。世界の全てを背負い、それでも壊れずに立ち続けた存在。
——魔王ヴェルディアが、待っている。
レイドは剣の柄に手を置いた。そして、その手を離した。
今度は、剣を抜くために来たのではない。
紅い双眸が、闇の向こうでレイドを見つめていた。数千年の孤独を湛えた、物憂げな光。
「——会いに来た」
レイドは呟き、闇の中へ足を踏み入れた。
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