勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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瘴気の森へ

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 焚き火の残り香が、朝霧に溶けていく。

 東回廊の入口近くに設営した野営地は、まだ薄暗い靄に包まれていた。湿った空気が肌に纏わりつく。レイドは荷を背負い直し、仲間たちに向き直った。

「東回廊の先に集落がある。物資の補充に行ってくる」

 ガレスが焚き火の傍で大きく伸びをした。

「一人でか? 俺も行くぜ」

「いや、目立つ。一人の方が早い」

「ふうん」

 ミラが木の幹に背を預けたまま、猫のように目を細めた。その視線には、いつもの軽さがない。

「物資調達ねえ。まあ、リーダーがそう言うなら止めないけどさ」

 何か言いたげな間があった。だが、ミラはそれ以上踏み込まなかった。レイドは内心で息を吐いた。ミラの勘の鋭さは、時に厄介だ。

「——レイドさん」

 リーシャの声が、背中を射抜いた。振り返ると、銀髪の魔法使いが真っ直ぐにこちらを見つめていた。碧い瞳の奥に、昨夜の会話の残響がある。

「気をつけて。……必ず、戻ってきてくださいね」

 その言葉には、単なる挨拶以上の重さが乗っていた。真実を知ったリーシャだからこそ、レイドがどこへ向かおうとしているのか——薄々感じ取っているのかもしれない。

「ああ。日が沈む前には戻る」

 嘘だった。日が沈む前に戻れる保証など、どこにもない。

 レイドは踵を返した。リーシャの視線が背中に突き刺さる。肩甲骨の間が焼けるように熱い。

 ——すまない。

 声にはしなかった。振り返れば、きっと足が止まる。


  ◇


 東回廊は、山岳地帯を貫く古い街道だ。かつて交易路として栄えたが、魔王領の拡大とともに放棄された。苔むした石壁が左右に聳え、頭上を覆う岩盤が日光を遮っている。

 レイドは壁面を指でなぞりながら歩いた。冷たい石の感触。湿った苔の匂いが鼻腔を満たす。

 一周目の記憶が、手を導いた。

 三つ目の曲がり角を過ぎた先。壁面に刻まれた、風化しかけた紋様。一見すれば単なる装飾に見えるそれに、レイドは掌を押し当てた。

 微かな振動。石壁の一部が音もなく後退し、人一人が通れる隙間が現れる。

 ——ここだ。一周目で偶然見つけた隠し通路。

 あの時は、魔王討伐の近道になるかもしれないと浮かれていた。仲間と笑い合いながら、この先に何が待つかも知らずに。

 レイドは暗い通路に足を踏み入れた。松明は使わない。光は魔族に居場所を知らせる。代わりに壁に手を当て、一歩ずつ慎重に進んだ。

 通路は緩やかに下っていく。石壁の隙間から、かすかに甘い腐臭が漂い始めた。瘴気の匂いだ。一周目でも嗅いだことがある。だが——。

 レイドは足を止めた。

 濃い。明らかに、一周目の時よりも瘴気が濃くなっている。

 喉の奥がひりつく。呼吸が浅くなる。肌の表面を、見えない針が刺すような感覚。これは普通の人間なら意識を保つのも難しい濃度だ。

 ——やはり、ヴェルディアの力が弱まっている。

 魔王が世界の均衡を保つ柱であるなら、その力の衰えは瘴気の制御の綻びとして現れる。一周目より早い段階で、これほどの変化が起きている。

 時間がない。その確信が、胸の中で冷たく凝固した。


  ◇


 隠し通路を抜けた先は、紫がかった霧に覆われた森だった。

 瘴気の森。魔王領の外縁に広がる、人間族にとっての禁域。木々は黒ずみ、幹は捩じれ、枝の間から差す光すら歪んで見える。地面を覆う苔は仄かに発光し、足を踏み出すたびに淡い紫の光が散った。

 音が違う。鳥の声がない。風の音すら、どこか水底で聞くように籠もっている。世界から切り離された場所。人間が来るべきではない領域。

 レイドは腰の聖剣に手を伸ばした。

 ——だが、抜かない。

 ここでは勇者であってはならない。聖剣の気配は魔族にとって最大の脅威だ。抜けば、魔王領全体に警報が伝わる。

 レイドは鞘ごと聖剣を外し、布で包んだ。その瞬間——刀身が微かに震えた。布越しに伝わる、拒絶するような振動。まるで剣自身が、封じられることに抗議しているかのように。

 ——おとなしくしてくれ。

 手のひらで鞘を押さえつけると、振動はやがて収まった。だが、指先にはまだ残響が感じられる。聖剣は生きている。勇者の使命を果たせと、無言で訴えている。

 その訴えを、レイドは無視した。

 布に包んだ剣を背中に括りつける。勇者の紋章が刻まれた右手を、手袋で覆い隠す。

 ——俺は勇者じゃない。少なくとも今この瞬間は。

 自分に言い聞かせた言葉は、思った以上に重かった。勇者であることを否定する行為は、一周目の自分——仲間と笑い、正義を信じ、世界を救うと誓った自分を殺すことに等しい。

 奥歯を噛みしめた。歯の軋む音が、静寂の中でやけに大きく響いた。

 木々の隙間を縫って、さらに奥へ進む。瘴気は歩を進めるごとに濃くなった。視界は数歩先までしか届かない。方向感覚が揺らぐ。一周目の記憶と照合しながら、レイドは慎重にルートを選んだ。

 ——そこで、気配を感じた。

 右斜め前方。木の影に、何かがいる。

 レイドは足を止めた。息を殺す。

 霧の向こうに、二つの赤い光が浮かんだ。目だ。人間ではない、魔族の瞳。

 魔族の斥候。やはり、この辺りまで警戒網が張られている。

 相手もこちらに気づいた。赤い瞳が鋭く細まり、低い唸り声が空気を振わせた。殺気。紫の霧がざわめく。

 レイドの体が、反射的に戦闘態勢を取ろうとした。一周目で叩き込まれた勇者の本能が、剣を抜けと叫ぶ。

 ——違う。戦うんじゃない。

 レイドは両手を広げ、掌を相手に見せた。そして——片膝をつき、首を垂れた。

 魔族の降伏の作法。右手を左肩に当て、視線を落とす。これは一周目で魔王城に攻め込んだ際、捕虜にした魔族から学んだものだ。あの時は敵の文化を知るための情報収集に過ぎなかった。まさか自分が使う日が来るとは。

 唸り声が止んだ。

 沈黙が降りる。霧の中で、斥候が困惑しているのが伝わった。当然だろう。勇者の匂いを纏った人間が、魔族に対して降伏の作法を示す。前例のない光景だ。

 張り詰めた静寂が続いた。一秒が引き伸ばされるように長い。首筋を汗が伝う。

 斥候が動いた。霧の中を素早く後退する気配。報告に行くのだろう。レイドは姿勢を崩さず、待った。

 ——来い。誰でもいい。対話できる相手が来てくれ。

 それが何分続いたのか、わからない。膝の下の苔が冷たく湿って、布越しに体温を奪っていく。霧は相変わらず紫に煙り、音という音を飲み込んでいた。

 背筋に、冷気が走った。

 後方。いつの間にか、誰かがいる。気配を感じ取れなかった。一周目の経験を持つ自分が、接近に気づけなかった。

 それだけで、相手の実力が知れる。

「——勇者が一人で魔王領に?」

 冷たい声が、木々に反響した。方向が掴めない。右からも左からも、頭上からも聞こえるような錯覚。

「死にに来たのかしら」

 声音に含まれた侮蔑と警戒。レイドは首を垂れたまま、唇の端が僅かに動くのを感じた。

 ——来た。

 対話の扉が、今開こうとしている。
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