勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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忠臣の矜持

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 魔力の鎖が手首に食い込んでいた。

 冷たいというより、痛い。骨の髄から体温を吸い出されるような感覚が、手首から肘へ、肘から肩へと這い上がってくる。指先の感覚は、とうに失われていた。

 レイドは黙って歩いた。前を行くのは三体の魔族の兵士。背後にも二体。そして——先ほどの声の主は、姿を見せないまま気配だけを周囲に漂わせている。

 瘴気の森を抜けると、景色が一変した。

 枯れた大地。灰色の空。地平線まで広がる荒野に、黒い城が聳えている。一周目でも見た光景だ。だが、あの時とは違う。あの時は仲間がいた。剣があった。勇者としての使命が、足を前に進ませていた。

 今は一人で、丸腰で、囚われの身だ。

 ——それでいい。

 乾いた風が頬を叩く。埃っぽい空気が喉の奥にまとわりつく。魔王領の大気には微かな硫黄の匂いが混じっていた。一周目より、濃い。瘴気の密度が増している。それが意味するところを、レイドは知っていた。

 魔王ヴェルディアの力が、さらに衰えている。

 城門が近づくにつれ、兵士たちの足取りが速くなった。早くこの「勇者」を処理してしまいたいのだろう。レイドは引きずられるように歩きながら、城壁の石組みに視線を走らせた。

 ——東壁の第三稜堡。あそこに隠し通路がある。

 一周目の記憶が、自動的に城の構造を照合する。門の位置、塔の数、城壁の角度。すべてが記憶通りだった。


  ◇


 地下牢の空気は、冷たく、湿っていた。

 松明の炎が壁を舐めるように揺れている。その光が、石壁に刻まれた古い文字列を浮かび上がらせていた。見覚えのある文字体系。均衡の柱について記された古文書と、同じ言語だ。

 ——やはり、この城自体が「柱」の一部なのか。

 考察を巡らせる余裕は、すぐに奪われた。

「座りなさい」

 声が降ってきた。冷たく、鋭く、一切の温度がない。

 視線を上げると、小柄な影が松明の前に立っていた。白い肌に尖った耳。深紅の瞳がレイドを見下ろしている。メイド服のような黒い衣装。だがその佇まいは使用人のそれではなかった。

 ナージャ。魔王城のメイド長にして、魔王ヴェルディアの最も古い従者。

 一周目では、最終戦の前にすれ違っただけだった。小柄な体で廊下の隅に立ち、こちらを睨んでいた赤い瞳。あの時は気にも留めなかった。

 今は違う。

「——勇者が一人で魔王領に踏み込むなんて、正気を疑うわ」

 ナージャの声には侮蔑と共に、隠しきれない警戒が滲んでいた。

「殺しに来たのなら、手間が省けた。この場で首を落とす」

「殺しに来たんじゃない」

 レイドは静かに言った。鎖に繋がれた手首が軋む。

「魔王ヴェルディアに会いに来た」

 ナージャの眉が、僅かに動いた。

「笑わせないで。勇者が魔王に会いに来る? どんな策略かしら」

「策略じゃない。対話だ」

「対話」

 ナージャが、その言葉を噛み砕くように繰り返した。唇の端が歪む。

「何千年もの間、勇者は魔王を殺しに来た。例外はない。お前たちはそういう存在よ。紋章がそうさせる。使命がそうさせる。そして——」

 一歩、距離を詰められた。小柄な体から放たれる圧が、松明の炎を揺らす。

「お前たちの正義が、主を殺してきた」

 その声の底に、何千年分の怨嗟が凝縮されていた。

 レイドは口を開いた。

「この城の地下三層、東翼の奥に、魔力炉がある」

 ナージャの瞳が、一瞬だけ見開かれた。

「炉の手前に二重の封印扉。左の扉には古代語で『均衡』と刻まれていて、右には『回帰』。炉の中心には青い結晶が浮かんでいる。あれが世界の魔力循環の核だ」

 沈黙が落ちた。松明の爆ぜる音だけが、地下の冷気の中で響く。

「……なぜ、それを知っている」

 ナージャの声から、侮蔑が消えていた。代わりに浮かんだのは、恐怖に近い動揺だった。

「城の構造を知る人間は存在しない。主ですら、限られた者にしか——」

「俺は一度、この城を攻略した」

 言葉が、石壁に反響した。

「勇者として。仲間と共に。魔王ヴェルディアを討ち、そして——世界が終わるのを見た」

 ナージャの右手が微かに震えた。その手の甲に、薄い光が走る。紋章だ。淡い紫の光を放つ、複雑な幾何学模様。魔王ヴェルディアとの契約の証。

 ——あの紋章は一周目では見えなかった。いや、見る余裕がなかっただけか。

「嘘よ」

 ナージャの声は固かった。だが、その固さは確信ではなく、認めたくないという拒絶の固さだった。

「世界が終わったなら、お前がここにいるはずがない」

「死に戻りだ。時間が巻き戻った。理由も仕組みも、まだ全部はわからない。だが俺はもう一度ここにいる。今度は——魔王ヴェルディアを殺さないために」

 長い沈黙が降りた。地下の冷気が肌を刺す。松明の炎が壁の古い文字を照らし、その影が揺れていた。

 ナージャの紅い瞳が、レイドの目を覗き込んでいた。嘘を見抜こうとする、数千年を生きた従者の眼光。

「……動くな」

 短く告げて、ナージャは踵を返した。


  ◇


 回廊にナージャの足音が響いていた。

 規則正しく、硬い靴底が石畳を叩く。だが、その歩調は僅かに乱れていた。壁に掛けられた古い肖像画が、松明の光の中で無言の視線を投げかけている。歴代の魔王に仕えた者たちの肖像。埃の匂いが鼻腔に染みた。

 ——嘘、であってほしかった。

 ナージャの右手が、無意識に左肩を掴んでいた。指先に力が入る。

 地下三層、東翼、魔力炉。二重の封印扉の古代語。あの情報は、城に侵入した程度では得られない。炉の存在を知る魔族すら、片手で足りるほどだ。

 つまり、あの勇者は——本当に、一度ここを攻略している。

 足が止まった。

 目の前に、黒檀の扉がそびえている。主の私室への扉。この扉の向こうに、数千年間仕えてきた存在がいる。

 ナージャは主を守るために生きてきた。それだけが、自分という存在の理由だった。主が世界の均衡を支える柱であるならば、自分はその柱を守る壁。勇者が来れば殺す。侵入者が来れば排除する。そうやって、何千年も。

 だが今、目の前にいるのは「魔王を殺さないために来た」と言う勇者だ。

 ——主を危険に晒すことになる。

 右手の紋章が、微かに脈打った。温かい。主の生命力と連動するこの紋章は、魔王ヴェルディアの状態を常にナージャに伝えていた。近年、その鼓動が弱くなっている。衰えが、確実に進んでいる。

 ——あの勇者を殺すのは簡単だ。鎖に繋がれた丸腰の人間一人、首を落とすのに三秒もかからない。

 だが。

 もし、あの言葉が真実なら。

 主を救える可能性が、万に一つでもあるのなら。

 ナージャは拳を握り、扉を叩いた。

「——主。ご報告がございます」

 扉の向こうから、静かな声が返った。

「入りなさい」

 扉を開ける。薄暗い室内に、紅い瞳の光だけが浮かんでいた。

「勇者を一人、捕らえました。ですが——」

 言葉を選ぶ。数千年仕えてきた従者が、初めて迷っていた。

「——異常な勇者です。魔王領に一人で踏み込み、降伏の作法を示し、主への面会を求めています。そして、城の構造を——魔力炉の存在まで知っていました」

 沈黙が落ちた。

 魔王ヴェルディアは何も言わなかった。紅い瞳が、暗闇の中でゆっくりと瞬く。

「……会いましょう」

「主! 危険です。勇者の言葉を——」

「ナージャ」

 静かな、しかし有無を言わさぬ声だった。

「私には、わかる。あの者が来ることは——知っていた」

 ナージャの思考が、一瞬止まった。


  ◇


 足音が近づいてくる。

 地下牢の闇の中で、レイドは目を閉じていた。冷たい石の床に背を預け、鎖の重みに慣れようとしていた。だが体が慣れても、胸の奥の緊張は消えない。

 ——ここからが、本当の勝負だ。

 足音が止まった。錠前の軋む音。鉄格子の向こうに、ナージャの小さな影が立っていた。

「立ちなさい。主がお会いになる」

 その声には、先ほどの敵意とは異なる色があった。困惑と、警戒と、そしてごく微かな——期待。

 レイドは立ち上がった。膝が軋む。長時間の拘束で体が強張っていた。

 ナージャに促され、地下牢の奥へと進む。通常の牢とは異なる区画。壁の古代文字が密度を増し、空気が重くなっていく。魔力の濃度が上がっている。ナージャの右手の紋章が、先ほどより強く光っていた。

 回廊の突き当たりに、重厚な扉がそびえていた。黒い石で出来た、一枚岩を繰り抜いたような扉。その表面にも、あの古代文字が刻まれている。

 ナージャが扉に手を触れた。紋章が呼応するように脈打ち、扉がゆっくりと開く。

 風圧が、レイドの前髪を揺らした。

 扉の奥は、闇だった。松明の光すら届かない、純粋な暗闇。だがその中に——紅い光が、二つ、浮かんでいた。

 瞳だ。

 漆黒の長髪が闇に溶け、蒼白い肌だけが仄かに浮かび上がる。人間離れした美貌。だがその表情には、疲弊と、諦観と——そして微かな、驚きのようなものが滲んでいた。

 魔王ヴェルディア。

 一周目では、剣を突き立てた相手。その胸に聖剣を沈めた時の感触を、レイドの右手はまだ覚えている。

 視線が交差した。紅い瞳が、灰色の瞳を射抜く。

 時間が、止まったような静寂。

 魔王ヴェルディアの唇が、ゆっくりと動いた。

「……二度目、か」

 レイドの呼吸が、止まった。

 知っている。この存在は——俺の死に戻りを、知っている。

 ナージャが息を飲む気配が、背後で聞こえた。だがレイドの意識は、目の前の紅い瞳に縫い止められていた。

 魔王ヴェルディアは、初めて感情らしいものを瞳に浮かべた。

「……なぜ、お前は——戻ってきた」

 その声が微かに震えていたことに、この場で気づいたのは、レイドだけだった。
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