勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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嘘の痕跡

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 レイドの寝台は、もう二日も冷たいままだった。

 朝の光が宿の窓から差し込み、街道沿いの宿場町が目覚める音が薄い壁越しに聞こえてくる。荷馬車の車輪が石畳を転がる音、商人たちの値切り交渉、子供の笑い声。日常の喧噪が、この部屋の静けさをかえって際立たせていた。

 リーシャ・フォルトナは、空になった寝台の枕に手を置いた。残り香すら消えている。

「薬草の採集地を確認してくる、だったかしら」

 誰に言うでもなく呟いた声が、自分の耳に届いて初めて、胸の奥がきしむのを感じた。

 レイドが出て行く朝、彼の目は真っ直ぐこちらを見ていた。嘘をつく人間は視線を逸らす——それが通説だが、リーシャは知っている。本当に巧い嘘は、逸らさない目で語られる。

 問題は、レイドが以前はそんな器用な人間ではなかったということだ。

「リーシャ、朝飯だぜ」

 扉を開けたガレスが、盆に載せたパンとスープを差し出した。

「ありがとうございます。……ガレス、レイドが出発前に何か言っていませんでしたか?」

「ん? 薬草がどうとか言ってたな。三日で戻るってよ」

「三日、ですか」

 リーシャはスープに口をつけた。生姜の辛みが舌に広がる。温かいはずの液体が、妙に味気なく喉を落ちていった。

「気にしすぎだぜ、リーシャ。あいつは約束を破る男じゃねえ」

「……そうですね」

 ガレスの言葉に嘘はない。彼は純粋にレイドを信じている。その信頼の厚さが、今のリーシャには少し眩しかった。

 ——でも、違う。

 薬草の採集地ならば、この宿場町から半日圏内にいくつもある。三日も必要な場所は、魔物の出没域を超えた先にしかない。そしてレイドは、単独行動に必要な回復薬を一つも持ち出していなかった。ミラが管理している備品箱を、リーシャは昨夜確認済みだった。

 つまり、薬草採集は嘘だ。

 スプーンを置く音が、静かな部屋に小さく響いた。


  ◇


 宿場町の裏通りを三本入った先に、看板のない酒場がある。

 ミラが「情報屋」と呼ぶその場所は、煙草の煙が天井に澱み、昼前だというのに薄暗い。カウンターの奥で痩せた男が羊皮紙の束を広げていた。インクと古い紙の匂いが、煙草の臭気と混じり合っている。

「で、二日前にこの宿場町を出た黒髪の剣士。覚えてる?」

 ミラがカウンターに銀貨を三枚滑らせた。猫のように細められた目が、情報屋の顔色を読んでいる。

「ああ、覚えてるよ。夜明け前に東門から出て行った。馬も借りずにな」

「徒歩? 東門から?」

 リーシャは思わず声を上げた。東——それは街道とは反対方向だ。薬草の自生地がある南西とも違う。

「東には何があるんだし」

 ミラが地図を広げた。情報屋が脂じみた指で一点を指す。

「東回廊だな。昔の交易路だが、今は魔物が出るんで誰も使わねえ。その先は——」

「魔王領、ですね」

 リーシャの声は平坦だった。だが、地図を見つめる瞳の奥で、歯車が回り始めていた。

 ミラが横目でリーシャを見た。

「……リーシャ、顔色悪いっしょ」

「大丈夫です。つまり、レイドは東回廊を通って魔王領の方角に向かった。一人で」

「はいはい、大丈夫じゃない顔で大丈夫って言う人ね、了解」

 ミラの軽口に、リーシャは小さく息を吐いた。唇が微かに持ち上がったが、目は笑っていなかった。

「ミラ、もう少し調べてほしいことがあります」

「何?」

「レイドが学院にいた頃に読んでいた文献の履歴です。学院の図書館は貸出記録を保管しているはずですから」

 ミラが片眉を上げた。

「学院の記録ってさ、部外者には開示しないっしょ」

「正規のルートでは、確かに。でもミラの情報網なら——」

「あー、そういうこと」

 ミラは小さく笑い、情報屋にもう二枚銀貨を滑らせた。

 リーシャは地図に視線を戻した。東回廊。魔王領。そしてレイドが最近、不自然なほど熱心に調べていた魔力の根源に関する文献——点と点が、一本の線になりかけている。

 ただ、その線が指し示す結論を、まだ口にする勇気がなかった。

「ねえリーシャ」

「何ですか」

「レイドのこと、怒ってる? それとも心配してる?」

 ミラの声は珍しく真剣だった。煙草の煙が、二人の間をゆっくり漂っている。

「……両方、でしょうね」

 リーシャは地図から目を上げなかった。指先が、東回廊の線をなぞっている。爪が羊皮紙に白い跡を残した。

「嘘をつかれたことが悔しいのか、嘘をつかなければならないほど追い詰められているレイドが心配なのか——自分でも、よく分からないんです」

 その正直さに、ミラは何も返さなかった。ただ、情報屋にもう一枚銀貨を足して、東回廊周辺の最新情報を求めた。


  ◇


 東回廊は、かつて人間族と魔族の交易に使われた古い街道だ。

 今は苔と蔦に覆われた石畳が続くだけの廃道。エドモン・グレイシアは、先遣隊の三人を率いて無言で歩を進めていた。鎧の金属音が、湿った空気の中に硬く響く。周囲は鬱蒼とした森に囲まれ、木漏れ日が地面にまだらな模様を描いている。

 アルヴィンの命令は明確だった。魔王領への最短ルートを偵察し、進軍の障害を報告せよ。

 エドモンは命令に忠実な男だ。感情を挟まず、任務を遂行する。それが騎士としての在り方だと信じている。

 だが——足元の石畳に、違和感があった。

「止まれ」

 低い声で命じ、膝をつく。苔生した石の表面に、新しい擦過痕が走っていた。何かが石を動かした跡だ。そしてその脇に——靴跡。

 二人分。

 エドモンは眉を寄せた。一つは革のブーツ。もう一つは、もっと軽い——布靴か、あるいは素足に近い何かの痕跡。

 擦過痕を辿ると、壁面の蔦の奥に隙間が見えた。石壁の一部がわずかにずれている。隠し通路の入り口が、最近開けられた形跡だった。

 通路の奥から、冷たく湿った空気が流れ出ている。石と土の匂い。そして、微かに——瘴気の残滓。

「隊長、これは」

 部下が声を潜めた。

「誰かがこの隠し通路を使って魔王領に入っている。それも、ごく最近だ」

 エドモンは鎧の手甲で蔦を払い、通路の入口を観察した。石の動かし方に迷いがない。初見では見つけられない場所だ。ここを知っている者が、確信を持って開けている。

 足跡が二人分あることが気にかかった。レイドという男が単独で動いているはずだとすれば——もう一人は誰だ。

「帰還する。アルヴィン殿に報告が必要だ」

 エドモンは立ち上がり、通路の位置を記憶に刻んだ。任務の範囲を超える判断は、主に委ねる。それが騎士だ。


  ◇


 焚き火の炎が、夜の闇を小さく切り取っていた。

 薪が爆ぜる音が、静寂を裂いて消える。ジーク・ヴァンガードは火を挟んだ向かい側に座るフェリクスの報告を、無言で聞いていた。

「——というわけだ。東回廊の隠し通路を、最近誰かが使った形跡がある。エドモンの先遣隊が見つけたらしい」

 フェリクスが枝で灰を突きながら続けた。

「で、タイミングを考えろよ。レイドが自分のパーティーを置いて消えたのが二日前。東門から出て行ったって情報もある。重なるだろ?」

「へえ」

 ジークは眼帯の下で口角を吊り上げた。焚き火の光が、その表情に不穏な陰影を刻んでいる。

「つまり、あの勇者サマが魔王領に単独潜入したってわけだ」

「可能性としてはな。ただ、足跡は二人分あったらしい」

「二人?」

 ジークの目が細くなった。片手で無精髭を撫でながら、何かを計算している顔だ。

「レイド・アシュフォードか。あの男、前からきな臭えとは思ってたが——勇者が魔王領に一人で乗り込むってのは、普通じゃねえな」

「英雄気取りの単独行動か、あるいは——」

「あるいは、か」

 ジークはフェリクスの言葉を遮り、立ち上がった。焚き火の火の粉が、夜空に舞い上がる。

「アルヴィンには?」

「エドモンが報告するだろうな。あっちはあっちで動くだろ」

「だろうな。あの聖騎士サマは正面から行くだろうが——俺はそんな面倒なことはしねえ」

 フェリクスが目を細めた。

「何を考えてる、ジーク」

「金にならねえことはしねえ主義だが——」

 ジークは焚き火に背を向けた。眼帯越しの横顔に、薄い笑みが貼りついている。

「魔王領に単独潜入?——あいつ、裏切り者か、それとも馬鹿か。どっちにしても面白えな」

 夜風が焚き火を揺らし、ジークの影が大きく伸びた。その影は、まるで暗闇そのものに溶け込むように、揺らめいていた。
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