勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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五つの柱、千年の孤独

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 玉座の間に続く回廊を、レイドは足早に進んでいた。

 石壁を伝う魔導灯の青白い光が、影を長く引き伸ばす。靴底が石畳を叩く音が反響し、空気は乾いて冷たかった。喉の奥に微かな硫黄の匂いが張りつく。魔王城の深部に近づくほど、大気に含まれる魔素が濃くなる証だった。

 ——柱は五つあった。

 図書室で見つけた羊皮紙の記述が、頭の中で何度も反芻される。四つは砕かれ、最後の一つだけが世界を支え続けている。

 重い扉に手をかけた。冷たい鉄の感触が、指先から腕へと伝わる。

 押し開けた先に広がる玉座の間は、以前と同じ薄闇に満ちていた。だが今は違うものが見える。床一面に刻まれた魔法陣——その中心に、魔王ヴェルディアが静かに立っていた。

「来たか」

 抑揚のない声が、広い空間に溶けた。漆黒の髪が魔法陣の淡い光に照らされ、紅い瞳がレイドを見据えている。

「ああ。確認したいことがある」

 レイドは足を踏み出した。魔法陣の縁を越えた瞬間、足裏に微かな振動が伝わった。まるで心臓の鼓動のように、一定のリズムで脈打っている。

「柱のことだ」

 魔王ヴェルディアの表情は変わらなかった。だが、その紅い瞳の奥で何かが揺れたのを、レイドは見逃さなかった。

「図書室の古文書を見つけたか」

「ああ。だが文書だけでは足りない。お前の口から聞きたい」

 沈黙が落ちた。玉座の間の空気が、数度下がったように感じた。

 魔王ヴェルディアは瞳を伏せ、足元の魔法陣に視線を落とした。

「……この魔法陣を見ろ」

 その言葉と同時に、床の紋様が変化した。これまで淡い蒼色だけだった光が、五つの色に分かれて明滅を始める。蒼、紅、翠、金、銀——五色の光が同心円状に広がり、玉座の間を幻想的に照らし上げた。

 レイドは息を呑んだ。

「五つの色。五つの——」

「五つの柱だ」

 魔王ヴェルディアの声が、僅かに低くなった。

「かつてこの世界には、五人の管理者が存在した。私を含めて」

 蒼の光がひときわ強く脈動した。魔王ヴェルディア自身の色だろう。そして——紅が一度だけ強く瞬いた後、音もなく消えた。

「北の柱、氷嶺のイグナティア。紅き炎の管理者」

 続いて翠が消える。

「東の柱、森精のセリアン。翠緑の命脈の守護者」

 金の光が薄れ、霧散した。

「南の柱、砂漠のアルハーディ。金色の陽光の担い手」

 銀が揺らぎ、最後の残照を放って消滅する。

「西の柱、海淵のラーシャ。銀の潮流の番人」

 五色のうち四つが失われ、蒼の光だけが残った。玉座の間は再び薄暗い蒼一色に戻る。

 だがその光は、五つあった頃と比べて明らかに弱い。たった一つで支えるには、あまりにも広すぎる世界だった。


  ◇


「千年前のことだ」

 魔王ヴェルディアは玉座に腰を下ろした。いつもの物憂げな姿勢だったが、今はその肩に目に見えぬ重荷が圧し掛かっているように見えた。

「五つの柱は各地に根を下ろし、世界の均衡を分担していた。魔力の循環、魔物の制御、封印の維持。一人では到底背負えぬものを、五人で分かち合っていた」

 レイドは魔法陣の端に膝をつき、魔王ヴェルディアの言葉に耳を傾けた。石の床が膝を通して体温を奪っていく。

「私たちは仲間だった。千年に一度、この城に集まり、互いの領域の状況を報告し合った。イグナティアは笑い声の大きな男で、セリアンは口数の少ない女だった。アルハーディは詩を詠み、ラーシャは——」

 言葉が途切れた。

 魔王ヴェルディアの声に、微かな震えが混じった。レイドが初めて聞く音だった。数千年を生きた存在の、封じていた痛みが滲み出すような震え。

「……ラーシャは、よく私を笑わせた」

 玉座の間の温度が、さらに下がった気がした。吐く息が白く見えるほどではないが、肌を刺す冷たさが増している。魔王ヴェルディアの感情が、周囲の魔素に影響を与えているのだろう。

「何が起きた」

 レイドは静かに問うた。

「人間の中に、力を求める者たちが現れた」

 魔王ヴェルディアの紅い瞳が、遠い過去を見つめていた。

「彼らは気づいたのだ。柱を砕けば、その管理者が蓄えていた莫大な魔力が解放されることに。そしてその力を吸収すれば、人間の域を超えた存在になれることに」

 レイドの喉が干上がった。

「彼らは最初に北のイグナティアを襲った。『魔王を倒す聖戦』——その言葉を旗印にして」

「……それが、聖教会の前身か」

「そうだ。『光の使徒団』と名乗っていた。彼らは柱を一つ砕くごとに力を増し、民衆の支持を集めた。世界を脅かす『魔王』を討つ英雄として」

 認定式で見たマルティウスの顔が脳裏をよぎった。あの老人が神託を読み上げた時、レイドだけに目を合わせなかった理由。

 ——あの男は、知っている。

 この歴史の真実を。少なくともその一端を。

「四つの柱が砕かれた時、世界は大きく揺れた。だが、完全には崩壊しなかった」

 魔王ヴェルディアが自分の胸に手を当てた。蒼白い指が、心臓の上で止まる。

「私が——残る四つ分の負荷を、すべて引き受けたからだ」

 レイドは言葉を失った。

 一人で五人分の世界を支える。それがどれほどの重荷か、想像すらつかない。数千年もの間、休むことなく、代わりもなく。

 ——だから、あんなにも疲弊していたのか。

 前夜祭でセレナが呟いた言葉が蘇った。「神の声が遠い」——聖教会の信仰の根幹は、四つの柱を砕いた罪の上に建てられている。セレナの祈りが届かないのは当然だった。届く先の「神」そのものが、虚構の上に祀られた偶像なのだから。

「五つの柱が存在した場所は、今はどうなっている」

「知りたいか」

 魔王ヴェルディアの声に、苦い皮肉が混じった。

「五大聖堂だ。聖教会が各地に建てた、最も格の高い五つの神殿。あれは柱の跡地に建てられている。残された魔力の残滓を利用するために」

 レイドの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。

 五大聖堂。聖ランヴァル王国の大聖堂、氷嶺帝国の氷晶聖堂、砂漠都市連合の陽光聖堂、森精郷の翠風聖堂、そして——西の、かつて魔王領との境に建てられた暁光聖堂。

 奪った力の上に神殿を建て、その歴史を消し去り、最後に残った柱を「絶対悪」と呼ぶ。千年にわたる壮大な隠蔽。

「聖教会は——その力を今も使っているのか」

「残滓に過ぎない。だが、聖職者たちの『奇跡』の源泉だ。彼らが振るう光の魔法は、砕かれた柱から漏れ出す力に他ならない」

 セレナの癒しの光。あの温かな輝きの源が、殺された管理者の残骸だとしたら。

 レイドは拳を握りしめた。


  ◇


「もう一つ、聞かなければならないことがある」

 レイドは立ち上がった。腰に佩いた聖剣の柄に、無意識に手が触れる。

 その瞬間——聖剣が脈動した。

 微かな、だが確かな振動。心臓の鼓動に似たリズムで、柄を通して掌に伝わってくる。まるで主人の動揺に呼応するかのように。

 魔王ヴェルディアの視線が、レイドの腰の聖剣に固定された。

「その剣だ」

「……何だと」

「勇者の聖剣。お前たちはそれを、魔王を討つための武器だと信じているだろう」

 レイドの手が、聖剣の柄を強く握った。

「違うのか」

「本質的には正しい。だが、用途が違う」

 魔王ヴェルディアが玉座から立ち上がった。その動作はゆっくりで、まるで水底を歩くように重かった。

「あの剣は、柱を砕くために鍛えられた。千年前の『光の使徒団』が、世界の管理者を殺すためだけに創り上げた兵器だ」

 聖剣の脈動が強まった。掌が痺れるほどの振動が、レイドの腕を駆け上がる。

 ——俺が持っているこの剣は、柱を壊すための道具だった。

 アルヴィンも同じ聖剣を持っている。あの男が魔王ヴェルディアに刃を向けた時、斬られるのは一人の存在だけではない。世界の最後の支えが断たれる。

「一周目で——俺たちが魔王を討った時」

「聖剣が柱の核を砕いた。その瞬間から、世界の崩壊が始まったはずだ」

 レイドの記憶が蘇る。魔王ヴェルディアが倒れた後、空が裂け、大地が割れ、制御を失った魔物が溢れ出し——すべてが終わった。

 聖剣が、また脈動した。今度はさらに強く。

 ——こいつは、柱を感知しているのか。

「お前の問いに答えよう、勇者」

 魔王ヴェルディアがレイドの前に立った。手を伸ばせば届く距離。紅い瞳が、真っ直ぐにレイドを見つめている。

「私の寿命が削られ続ける理由。それは、五人分の負荷を一人で背負い続けているからだ。千年前から、一日も休むことなく」

 その声には、もう震えはなかった。ただ、底の見えない静けさがあった。千年の孤独を経て、痛みすら摩耗した者の声。

「あとどれくらい保つ」

「……百年。いや、世界の歪みが加速している。数十年かもしれない」

 数十年。人間の一生にも満たない時間で、世界の最後の柱が折れる。

 レイドは唇を噛んだ。血の味が舌に広がった。

「方法はないのか。柱を増やす方法は」

「あるかもしれない。だが、千年探して見つからなかった」

 魔王ヴェルディアの瞳が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。そこに浮かんだのは諦めではなく、もっと深い——長すぎる時間の果てに磨り減った、希望の残骸のようなものだった。

「最後に一つだけ」

 魔王ヴェルディアが背を向け、玉座へ戻ろうとした。その足が止まる。

「光の使徒団——四つの柱を砕いた者たち」

 振り返らないまま、声だけが玉座の間に響いた。

「彼らもまた、紋章を宿していた。世界がこの身体に刻んだものと、同じ紋章を」

 レイドの思考が凍りついた。

「そして——五つの柱を壊した者たちもまた、『勇者』と呼ばれていた」

 蒼い魔法陣の光が、一度だけ激しく明滅した。

 聖剣が腰で脈打っている。柱を砕くために鍛えられた刃が、その役目を果たせと囁くように。

 ——俺は、勇者だ。

 世界を救うために選ばれた存在。そう信じていた。一周目も、死に戻りした後も。

 だが千年前にも「勇者」はいた。そしてその勇者たちは——世界を壊した。

 自分の手を見下ろした。紋章が刻まれた右手。光を宿すはずのその印が、今は鉛のように重かった。
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