勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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北嶺の死闘

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 崖下に飛び降りた。

 三メートルの落差。着地の衝撃が膝を突き抜ける。だがレイドは立ち止まらなかった。剣を構え、最も近い魔物の首筋に斬りかかる。

 黒い鱗に覆われた獣——岩狼と呼ばれる北嶺の魔物だ。通常は群れを作らない単独行動の種。だが暴走状態では違う。制御を失った魔物は本能のまま群れ、獲物に群がる。

 一撃。岩狼の首が裂け、黒い血が飛散した。返す刀で二体目の腹を薙ぐ。一周目で何百回と斬った魔物だ。弱点も動きも知り尽くしている。

「レイド!」

 カイルの掠れた声が闇に響いた。崩れた岩壁に背を預け、折れた剣を握ったまま。碧い目が大きく見開かれている。驚愕と、安堵と、信じられないという色が混ざった目。

「喋るな。動くな」

 ガレスが崖から飛び降りた。大盾を地面に叩きつけ、金属の轟音が谷間に反響する。魔物の群れが一瞬たじろいだ。

「来い、化け物ども!」

 ガレスが大盾を構えて前に出た。三体の岩狼が同時に飛びかかる。鋭い牙が盾の表面を削り、火花が散った。ガレスは一歩も退かない。盾で弾き、隙間から拳を叩き込む。岩狼の顎が砕ける鈍い音。

 上空から矢が降り注いだ。ミラが崖の上から援護射撃している。矢の一本一本が正確に魔物の眼を射抜いている。暗闇の中で、半エルフの夜目が真価を発揮していた。

「リーダー! 左から五体、回り込んでくる!」

 ミラの声。レイドは反射的に左を向いた。岩陰から五体の岩狼が這い出てくる。通常より二回りも大きい。暴走によって魔力が肥大化した個体だ。

 一周目の記憶が蘇る。この大型個体は、通常の三倍の速度で突進する。二秒後。右前方から。

 レイドは半歩下がり、突進の軌道を読んで横に跳んだ。巨体が風圧を伴って通過する。すれ違いざまに剣を振り下ろし、後ろ脚の腱を断つ。大型個体がバランスを崩して転がった。

「ガレス! 仕留めろ!」

「おう!」

 ガレスの大盾が、転がった大型個体の頭蓋に叩きつけられた。骨が砕ける音。魔物が痙攣し、動かなくなった。

 残りの四体がレイドを囲む。赤い目が暗闇の中で光っている。痛みを知らない、恐怖を忘れた獣の目。

 レイドは呼吸を整えた。剣を構え直す。一周目の戦闘経験が、体に刻まれた記憶として蘇る。

 ——二体が同時に跳ぶ。左の一体は囮。本命は右。

 読み通りだった。左の岩狼の突進を身を捩って躱し、右から飛びかかる本命を迎え撃つ。剣が魔物の喉を貫いた。返す動作で左の岩狼にも切り返す。二体が同時に地面に崩れた。

 残り二体。ミラの矢が一体の眼窩を射抜き、最後の一体はガレスの盾で叩き潰された。


  ◇


 戦闘が終わった。

 静寂が、血の匂いと共に山間に沈んだ。月が雲の切れ間から顔を出し、崖下の惨状を青白く照らしている。

 カイルの傍に駆け寄った。若い勇者は岩壁にもたれたまま、荒い息を吐いていた。右腕は骨折している。鎧の胸当ては魔物の爪で引き裂かれ、その下の肌に深い裂傷が走っていた。血が乾いて黒くなっている。

「レイド……なんで、ここに」

「お前の伝書を受け取った。それだけだ」

「馬鹿だな……来なくていいのに」

 カイルが笑おうとして、咳き込んだ。血が口の端から零れる。

 レイドはカイルの傍に膝をつき、傷口を確認した。深いが、致命傷ではない。だが治療が遅れれば危険だ。

「ミラ。応急処置の道具を」

「了解」

 ミラが崖を降りてきた。背嚢から包帯と薬草を取り出す。水筒の水で傷口を洗い、薬草を噛み砕いて裂傷に塗り込む。カイルが歯を食いしばった。痛みに耐える若い顔が、松明の光に浮かんでいる。

「動かないで。骨は——折れてるね。腕と肋骨が二本。内臓はたぶん大丈夫。運がいいよ」

 ミラの手が素早く包帯を巻いていく。その手つきは慣れていた。裏社会で生きてきた半エルフは、戦場の応急処置を何度もこなしてきたのだろう。

「他の仲間は」

 カイルの表情が歪んだ。

「……三人いた。一人は——死んだ。二人は意識がない。魔物に追われて、ここまで逃げてきた。もう、三日になる」

 三日間。この崖下で、魔物の群れに囲まれながら。折れた剣一本で仲間を守り続けていた。

 ガレスが倒れている二人の仲間を確認した。

「生きてる。だが衰弱がひどい。早く山を下ろさねえと」

「明け方まで待つ」レイドが言った。「暗闇の中での移動は危険だ。魔物の群れがまだ近くにいる可能性がある」

「……レイド」

 カイルが掠れた声で呼んだ。碧い目に、涙が浮かんでいた。

「俺は——勇者失格だ。仲間を守れなかった。一人、死なせた」

「お前は三日間、二人の仲間を守り抜いた。折れた剣で。——それは勇者にしかできないことだ」

 カイルの唇が震えた。涙が頬を伝い、乾いた血の上を流れていく。

「なんで……お前は、そんなに強いんだ。初めて会った時から思ってた。お前は——俺たちと違う」

 レイドは答えなかった。カイルの肩に手を置き、静かに力を込めた。

 ——お前も十分強い。一周目のカイルは、ここで心が折れた。勇者を辞めようとした。だが今のカイルは、折れた剣を握ったまま三日間戦い続けた。

 二周目のカイルは、一周目より強い。

「休め。朝になったら山を下りる」

 カイルが目を閉じた。緊張の糸が切れたように、若い勇者の体から力が抜けていく。

 レイドは崖の縁に腰を下ろし、北嶺の闘を見上げた。山頂の方角で、まだ魔物の気配が蠢いている。暴走は終わっていない。むしろ拡大している。

 ミラが見張りに立ち、レイドとガレスが交互に仮眠を取ることにした。だがレイドは眠れなかった。岩壁に背を預け、目を閉じるたびに一周目の記憶が蘇る。

 一周目の北嶺。カイルのパーティーが半壊した後、生き残った者たちの顔。希望を失った目。勇者という肩書が重荷にしかならなくなった者たちの姿。あの時レイドは、援軍を待つのが正しいと判断した。そして待っている間に、二人が死んだ。

 正しい判断が、人を殺す。

 目を開けた。カイルが眠っている。苦しそうに眉を寄せ、時折うなされている。だが生きている。今度は間に合った。

 ガレスが隣に座った。

「なあ、リーダー」

「何だ」

「あの魔物ども——目がおかしかった。赤いのは暴走だって分かる。だが、あの赤の奥に——空っぽの色があった。まるで魂が抜けたみたいだ」

「ヴェルディアの制御が外れた魔物は、本能だけで動く。思考も感情もない。ただ動いて、ただ襲う」

「それが世界中に広がるってのか」

「ああ。一周目では、最後にはそうなった」

 ガレスが黙った。太い腕を膝に乗せ、暗闇を見つめている。傭兵として数え切れない戦場を渡ってきた男が、初めて見る種類の恐怖を噛み締めている顔だった。

「……止めるぞ。絶対に」

「ああ」

 風が吹いた。山の冷気が汗に濡れた肌を刺す。岩の匂い、血の匂い、夜露の匂いが混ざり合っている。遠くで魔物の遠吠えが聞こえた。一匹ではない。複数の声が重なり、山間に木霊している。

 レイドの左手が、また脈動した。遠い魔王城で、ヴェルディアが世界を支え続けている。その力が衰えるたびに、こうして魔物が暴走し、人が死ぬ。

 ——もう少しだけ、持ってくれ。

 月が雲に隠れた。北嶺の闇が、深さを増した。
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