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ラトリアの夜
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ラトリアは東回廊と南街道の交差点に栄えた交易町だった。
石畳の通りに露店が並び、商人たちの掛け声が飛び交っている。香辛料の匂い。鍛冶屋の槌の音。酒場から溢れる笑い声。世界が終わりかけていたことなど嘘のような、活気のある町だ。
だが三人が宿屋を探す間に、レイドは町の空気の裏側に気づいていた。
聖教会の紋章が、至るところに掲げられている。酒場の壁。門番の詰所。市場の入口。王都では聖教会の権威が揺らいだが、地方ではまだ健在だ。
「宿を取ろう。三人部屋はあるか」
最初の宿屋は満室だった。二軒目は空室があったが、宿主がヴェルディアを見て顔を曇らせた。
「あんた——見ない顔だね。この辺りの人間じゃないだろう」
「旅の途中だ」
「聖教会が変な通達を出してるんだよ。黒髪の女に気をつけろってな。魔族の残党がいるらしい。——あんたの連れ、黒髪じゃないか」
「ただの旅人だ」
宿主は渋い顔をしたが、金貨を見て態度を変えた。三人は二階の部屋に通された。
窓を閉め、レイドが溜息をついた。
「聖教会の通達か。——マルティウスは捕らえたが、地方の聖教会は別だ。組織が大きすぎて、王都の変化が末端まで届いていない」
「あるいは——届いていても、認めたくないのでしょう」リーシャがベッドに腰を下ろした。「千年の教義が嘘だったと受け入れるのは、信者にとって自分の人生を否定されることに等しい。反発は当然です」
ヴェルディアが窓際に立ち、町の灯りを見下ろしていた。
「私が——この町に混乱をもたらしているのか」
「お前のせいじゃない」
「だが事実だ。魔王だった女が人間として歩いている。それが許されない場所がある」
「許されない場所を——許される場所に変えるのが、この旅の目的の一つだ」
レイドの言葉に、ヴェルディアが振り返った。琥珀色の瞳が、少し驚いている。
「旅の目的? 景色を見に行くのではなかったか」
「それもある。だが——世界を見れば、世界の問題が見える。問題が見えれば、できることがある」
「……お前は結局、何かを救わずにはいられない性分だな」
「うるさい」
リーシャが小さく笑った。
◇
夜。レイドは一人で町を歩いた。
リーシャとヴェルディアは部屋で休んでいる。レイドは情報を集めるために、酒場に向かった。
カウンターに座り、安い麦酒を頼んだ。隣の席で商人たちが話している。
「王都で大変なことがあったらしいぞ。聖教会のマルティウスが捕まったとか」
「嘘だろ。マルティウス様は千年の秩序を守る聖者だぜ」
「嘘じゃねえよ。勇者アルヴィンが自ら捕らえたって話だ。教義に嘘があったとか何とか」
「信じらんねえな。俺は五歳の時から聖教会の教えで育ってきたんだ。それが全部嘘だって? 冗談じゃねえ」
「俺だってそう思うよ。だが——確かに最近、世界がおかしかったのは事実だろ。地震に魔物の暴走に、井戸水の濁り。あれが聖教会のせいだって言われたら——」
「聖教会のせいじゃなくて、魔王のせいだろ。魔王が世界を壊そうとしてたんだ」
レイドは麦酒を飲みながら、黙って聞いていた。
真実は公表された。だが——真実を受け入れるのには時間がかかる。一つの嘘が千年続けば、それは人々の生活の一部になる。信仰は嘘だと言われても、その信仰で救われた日々は本物だ。
「難しいな」レイドは呟いた。
「何がだ」隣の商人が聞いた。
「——何でもない」
酒場を出ると、夜の通りに人影があった。聖教会の法衣を着た若い男。二十歳前後。丸い眼鏡をかけ、手に書物を抱えている。
「あの——失礼ですが、旅の方ですか」
「ああ」
「聖教会ラトリア支部の司祭見習い、ルーカスと申します。少しお話を聞かせていただけませんか」
レイドは警戒した。聖教会の人間。だが——この若者の目に敵意はない。好奇心と、少しの不安がある。
「何が聞きたい」
「王都で起きたこと——本当ですか。教義が嘘だったと。マルティウス枢機卿が捕らえられたと」
「本当だ」
「では——魔王は悪ではなかったと」
「ああ」
ルーカスの眼鏡の奥の目が揺れた。信仰が揺らぐ恐怖と、真実を知りたい渇望が混在している。
「私は——信じたいのです。聖教会の教えを。でも——最近の世界の異変を見ると、何かが間違っていたのではないかと。皆が目を逸らしていることに——答えが欲しいのです」
レイドはルーカスを見つめた。かつてのセレナと同じ目だ。信仰と真実の間で引き裂かれる者の目。
「答えは——自分で見つけるものだ。だが一つだけ言える。嘘の上に建てた安心は、いつか崩れる。真実の上に建て直した方が、時間はかかるが——長く持つ」
ルーカスが深く頷いた。
「ありがとうございます。——もう一つ。聖教会のラトリア支部で、強硬派が集会を開いています。王都の決定を認めず、独自に魔王の残党を狩ると。明日の朝——」
「何をする」
「大聖堂広場で、魔族排斥の演説を行うと。町の人々を煽って——」
レイドの表情が硬くなった。
「教えてくれて助かる。——ルーカス。お前は聖教会の人間だが、真実を知ろうとしている。それは——正しい」
ルーカスは頭を下げ、夜の闇に消えた。
レイドは宿に戻り、リーシャとヴェルディアに伝えた。
「明日の朝、早く出よう。——この町は、まだ準備ができていない」
「逃げるのか」ヴェルディアが言った。
「今は——逃げる。だが逃げ続けるわけじゃない。まず南に行く。ジークのいる場所なら——少なくとも安全だ」
ヴェルディアは窓の外を見つめた。ラトリアの灯りが瞬いている。
「三千年守った世界が——私を拒んでいる」
「拒んでいない。知らないだけだ。——知れば、変わる」
「お前は——楽観的だな」
「楽観じゃない。経験だ。アルヴィンも最初は俺を裏切り者と呼んだ。今は握手している」
ヴェルディアは暫く黙り、それから小さく笑った。
「……そうだな。時間が必要なのは、私も同じか」
夜が更けた。明日の朝、三人は南に向かう。聖教会の影を避けながら。世界の傷を一つずつ、確かめながら。
窓の外で、夜風がラトリアの旗を揺らしていた。聖教会の十字架と、商業ギルドの天秤の紋章。二つの旗が風の中で絡み合い、やがて離れていく。
世界は変わり始めている。だが変化は——いつも痛みを伴う。
石畳の通りに露店が並び、商人たちの掛け声が飛び交っている。香辛料の匂い。鍛冶屋の槌の音。酒場から溢れる笑い声。世界が終わりかけていたことなど嘘のような、活気のある町だ。
だが三人が宿屋を探す間に、レイドは町の空気の裏側に気づいていた。
聖教会の紋章が、至るところに掲げられている。酒場の壁。門番の詰所。市場の入口。王都では聖教会の権威が揺らいだが、地方ではまだ健在だ。
「宿を取ろう。三人部屋はあるか」
最初の宿屋は満室だった。二軒目は空室があったが、宿主がヴェルディアを見て顔を曇らせた。
「あんた——見ない顔だね。この辺りの人間じゃないだろう」
「旅の途中だ」
「聖教会が変な通達を出してるんだよ。黒髪の女に気をつけろってな。魔族の残党がいるらしい。——あんたの連れ、黒髪じゃないか」
「ただの旅人だ」
宿主は渋い顔をしたが、金貨を見て態度を変えた。三人は二階の部屋に通された。
窓を閉め、レイドが溜息をついた。
「聖教会の通達か。——マルティウスは捕らえたが、地方の聖教会は別だ。組織が大きすぎて、王都の変化が末端まで届いていない」
「あるいは——届いていても、認めたくないのでしょう」リーシャがベッドに腰を下ろした。「千年の教義が嘘だったと受け入れるのは、信者にとって自分の人生を否定されることに等しい。反発は当然です」
ヴェルディアが窓際に立ち、町の灯りを見下ろしていた。
「私が——この町に混乱をもたらしているのか」
「お前のせいじゃない」
「だが事実だ。魔王だった女が人間として歩いている。それが許されない場所がある」
「許されない場所を——許される場所に変えるのが、この旅の目的の一つだ」
レイドの言葉に、ヴェルディアが振り返った。琥珀色の瞳が、少し驚いている。
「旅の目的? 景色を見に行くのではなかったか」
「それもある。だが——世界を見れば、世界の問題が見える。問題が見えれば、できることがある」
「……お前は結局、何かを救わずにはいられない性分だな」
「うるさい」
リーシャが小さく笑った。
◇
夜。レイドは一人で町を歩いた。
リーシャとヴェルディアは部屋で休んでいる。レイドは情報を集めるために、酒場に向かった。
カウンターに座り、安い麦酒を頼んだ。隣の席で商人たちが話している。
「王都で大変なことがあったらしいぞ。聖教会のマルティウスが捕まったとか」
「嘘だろ。マルティウス様は千年の秩序を守る聖者だぜ」
「嘘じゃねえよ。勇者アルヴィンが自ら捕らえたって話だ。教義に嘘があったとか何とか」
「信じらんねえな。俺は五歳の時から聖教会の教えで育ってきたんだ。それが全部嘘だって? 冗談じゃねえ」
「俺だってそう思うよ。だが——確かに最近、世界がおかしかったのは事実だろ。地震に魔物の暴走に、井戸水の濁り。あれが聖教会のせいだって言われたら——」
「聖教会のせいじゃなくて、魔王のせいだろ。魔王が世界を壊そうとしてたんだ」
レイドは麦酒を飲みながら、黙って聞いていた。
真実は公表された。だが——真実を受け入れるのには時間がかかる。一つの嘘が千年続けば、それは人々の生活の一部になる。信仰は嘘だと言われても、その信仰で救われた日々は本物だ。
「難しいな」レイドは呟いた。
「何がだ」隣の商人が聞いた。
「——何でもない」
酒場を出ると、夜の通りに人影があった。聖教会の法衣を着た若い男。二十歳前後。丸い眼鏡をかけ、手に書物を抱えている。
「あの——失礼ですが、旅の方ですか」
「ああ」
「聖教会ラトリア支部の司祭見習い、ルーカスと申します。少しお話を聞かせていただけませんか」
レイドは警戒した。聖教会の人間。だが——この若者の目に敵意はない。好奇心と、少しの不安がある。
「何が聞きたい」
「王都で起きたこと——本当ですか。教義が嘘だったと。マルティウス枢機卿が捕らえられたと」
「本当だ」
「では——魔王は悪ではなかったと」
「ああ」
ルーカスの眼鏡の奥の目が揺れた。信仰が揺らぐ恐怖と、真実を知りたい渇望が混在している。
「私は——信じたいのです。聖教会の教えを。でも——最近の世界の異変を見ると、何かが間違っていたのではないかと。皆が目を逸らしていることに——答えが欲しいのです」
レイドはルーカスを見つめた。かつてのセレナと同じ目だ。信仰と真実の間で引き裂かれる者の目。
「答えは——自分で見つけるものだ。だが一つだけ言える。嘘の上に建てた安心は、いつか崩れる。真実の上に建て直した方が、時間はかかるが——長く持つ」
ルーカスが深く頷いた。
「ありがとうございます。——もう一つ。聖教会のラトリア支部で、強硬派が集会を開いています。王都の決定を認めず、独自に魔王の残党を狩ると。明日の朝——」
「何をする」
「大聖堂広場で、魔族排斥の演説を行うと。町の人々を煽って——」
レイドの表情が硬くなった。
「教えてくれて助かる。——ルーカス。お前は聖教会の人間だが、真実を知ろうとしている。それは——正しい」
ルーカスは頭を下げ、夜の闇に消えた。
レイドは宿に戻り、リーシャとヴェルディアに伝えた。
「明日の朝、早く出よう。——この町は、まだ準備ができていない」
「逃げるのか」ヴェルディアが言った。
「今は——逃げる。だが逃げ続けるわけじゃない。まず南に行く。ジークのいる場所なら——少なくとも安全だ」
ヴェルディアは窓の外を見つめた。ラトリアの灯りが瞬いている。
「三千年守った世界が——私を拒んでいる」
「拒んでいない。知らないだけだ。——知れば、変わる」
「お前は——楽観的だな」
「楽観じゃない。経験だ。アルヴィンも最初は俺を裏切り者と呼んだ。今は握手している」
ヴェルディアは暫く黙り、それから小さく笑った。
「……そうだな。時間が必要なのは、私も同じか」
夜が更けた。明日の朝、三人は南に向かう。聖教会の影を避けながら。世界の傷を一つずつ、確かめながら。
窓の外で、夜風がラトリアの旗を揺らしていた。聖教会の十字架と、商業ギルドの天秤の紋章。二つの旗が風の中で絡み合い、やがて離れていく。
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