勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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南風の街道

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 街道の砂埃が、乾いた風に舞い上がった。

 レイドは左手を翳して日差しを遮った。秋の陽は低く、平原の草を金色に染めている。王都を出て三日。東門から南東へ向かう街道は、荷馬車と旅人で緩やかに賑わっていた。

「暑い」

 ヴェルディアが呟いた。額に汗が浮かんでいる。黒髪が首筋に貼りつき、琥珀色の瞳が不機嫌そうに細められた。

「水を飲め」レイドが水筒を差し出した。

「さっき飲んだ」

「もう一口だ。人間の体は脱水に弱い」

 ヴェルディアは水筒を受け取り、一口含んだ。喉が動くのを確認してから、レイドは前を向き直した。

 三千年間、魔王として世界を支え続けた存在が——今は汗をかき、喉が渇き、足が痛む。人間の体。脆くて、不便で、温かい体。

「リーシャ。次の町まではどのくらいだ」

「地図ではあと半日です。ラトリアという交易町があります」

 リーシャが羊皮紙の地図を広げた。碧眼は穏やかだが、時折足元の草を見つめて何かを感じ取っている。守り手の力は泉に還したが、長く地脈と繋がっていた感覚は体に残っているらしい。

「地脈は——感じるのか」

「微かに。以前のように見えるわけではありませんが——大地が呼吸しているのが分かります。安定しています。泉の柱が、しっかり機能している」

「なら良かった」

 レイドは空を見上げた。青い空。白い雲。穏やかな風。世界が崩壊する気配は——もうない。

 一周目では見られなかった空だ。

 街道の先に、木立の影が見えた。そこに——人だかりができている。

「何かあるな」

「行商人の荷車が止まっています。人が集まって——揉めているようですね」

 三人は歩みを速めた。近づくと声が聞こえてきた。

「だから言ってるだろう! この辺りの井戸水が濁っているんだ! 先月まではこんなことなかった!」

「地震のせいだよ。先月の大きな揺れで、水脈がずれたんだ」

「地震なんか何十年もなかったのに、急に三回も来た。おかしいだろうが」

 農夫たちが行商人を囲んでいた。井戸水の濁り。地震の頻発。——世界の均衡が崩壊しかけていた数ヶ月間の影響が、地方にまで残っている。

 レイドは足を止めた。

「世界は救われた。だが——傷は一日では治らないか」

「三千年の歪みが数ヶ月で戻ることはありません」リーシャが静かに言った。「泉の柱は世界を安定させましたが、既に受けた損傷の回復には時間がかかります。地下水脈の乱れ、土壌の変質——数年はかかるでしょう」

 ヴェルディアが農夫たちを見つめていた。琥珀色の瞳に、複雑な光がある。

「私が——三千年守れなかったものの一部だ」

「お前のせいじゃない」

「分かっている。——だが、見過ごせない」

 ヴェルディアが農夫たちに向かって歩き出した。レイドが止めようとしたが、リーシャが首を振った。

「行かせましょう」

 ヴェルディアが農夫たちの前に立った。黒髪の、華奢な若い女。旅装束は埃にまみれ、特別な力を持っているようには見えない。

「井戸の場所を教えてくれ」

 農夫たちが怪訝な顔をした。

「あんた誰だ?」

「通りすがりだ。——水のことなら、少し分かる」

 農夫の一人が半信半疑で井戸の場所を指さした。ヴェルディアは街道を外れ、畑の中の井戸に向かった。レイドとリーシャが後を追う。

 井戸の傍に立ち、ヴェルディアが地面に手を当てた。目を閉じる。

「……水脈がずれている。地震で断層が動き、地下水の流れが変わった。だが——大きなずれではない。水脈の合流点にある岩を一つ動かせば、元に戻る」

「分かるのか」レイドが驚いた。

「三千年間、世界の地脈を管理していた。水脈も地脈の一部だ。力は失ったが——知識は残っている」

 ヴェルディアが農夫に向き直った。

「井戸の南東二十歩の地点。そこを掘れば、地下水の合流点に当たる岩がある。それを砕けば水が戻る」

 農夫たちは顔を見合わせた。信じていいのか分からない顔だ。

「掘ってみれば分かる」ヴェルディアは淡々と言った。

 レイドが鍬を手に取った。農夫たちが指差した場所を掘り始める。三十分ほど掘ると、石の層に当たった。リーシャが魔法で石を砕くと——泥水が噴き出し、やがて澄んだ水に変わった。

 農夫たちの顔が変わった。

「本当だ……水が出た!」

「お嬢さん、あんた何者だ!」

 ヴェルディアは答えなかった。ただ、澄んだ水が地面を濡らしていくのを見つめていた。琥珀色の瞳が——微かに潤んでいる。

「どうした」レイドが傍に立った。

「三千年間——こういうことがしたかったのかもしれない」

「こういうこと?」

「目の前の人間の、目の前の困りごとを——自分の手で直すこと。柱として世界を支えている間は——個人の苦しみに手を差し伸べることは、できなかった」

 レイドは何も言わなかった。ただ、ヴェルディアの傍に立った。

 リーシャが農夫たちに説明している。地下水脈の仕組み。今後の注意点。旱魃への備え。学者の知識が、ここでは実用になった。

 農夫たちが礼を言い、野菜と干し肉を差し出してくれた。ヴェルディアは戸惑いながら受け取り、小さく頭を下げた。

「……ありがとう」

 まだぎこちない。だが——十日前より、少し上手くなっている。

 三人は街道に戻り、再び南を目指した。

 夕暮れが近づいている。空が橙色に染まり、街道の影が長く伸びた。遠くにラトリアの街並みが見え始めた。煙突から立ち上る煙。灯り始める窓の光。

「レイド」リーシャが歩きながら言った。

「何だ」

「こういう旅が——したかったんですね。世界を救う旅ではなく。ただ——歩く旅」

「ああ。——悪くないだろ」

「悪くありません」

 リーシャが微笑んだ。ヴェルディアが少し遅れて歩いている。足が痛いのだろう。だが止まらない。三千年ぶりの自分の足で、世界を歩いている。

 レイドは振り返って手を差し出した。

「掴まれ。ラトリアまであと少しだ」

 ヴェルディアが手を取った。華奢な指が、レイドの掌を握った。温かい。

 三人は夕暮れの街道を歩いた。世界を救った英雄としてではなく。ただの旅人として。

 ラトリアの門が見えた時、門番が三人を呼び止めた。

「おい。旅人か。——最近、この辺りに黒髪の女を連れた一行が通らなかったか。聖教会の通達で、魔王の手先を名乗る女の捜索令が出ている」

 レイドの足が止まった。

 聖教会の捜索令。マルティウスは捕らえられたはずだ。だが——聖教会そのものが消えたわけではない。

「知らないな」レイドは表情を変えずに答えた。

 門番が三人を値踏みするように見た。ヴェルディアは旅のフードを深く被っている。黒髪は隠れているが——琥珀色の瞳を見られれば、気づく者もいるかもしれない。

「通っていいぞ。——気をつけな」

 三人は門をくぐった。

 穏やかな旅は——もう少し先になりそうだった。
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