勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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海を渡る

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 港町カレンの桟橋から、商船「銀波号」に乗り込んだ。

 船は二本マストの中型帆船で、甲板には木箱と樽が積み上げられている。乗客は三人の他に、商人が五人と船乗りが十二人。南大陸のヴェスタ港まで五日の航海だ。

 ヴェルディアが船縁に立ち、海を見つめていた。

「海に出るのは——初めてだ」

「柱の管理者だった時は」

「海も管理していた。だが——船の上から見るのとは違う。頭で知っていることと、肌で感じることは別のものだな」

 船が港を離れた。帆が風をはらみ、船体が揺れ始める。ヴェルディアの顔色が変わった。

「……揺れる」

「船酔いか」レイドが駆け寄った。

「違う。——いや、違わないかもしれない。胃が——」

 ヴェルディアが船縁に掴まり、海に向かって吐いた。三千年間、世界を支えた存在が——船酔いに負けている。

 リーシャが水と布を持ってきた。

「横になった方がいいですよ。船室に——」

「……すまない」

 ヴェルディアを船室に寝かせた後、レイドとリーシャは甲板に残った。海風が心地よい。カレンの町が遠ざかり、水平線だけが広がっていく。

「ヴェルディアさん、大丈夫でしょうか」

「慣れるだろう。——人間の体は、何にでも慣れる」

「レイドは平気なんですね」

「船には一周目で何度か乗った。——あの時も酔ったが」

 リーシャが微笑んだ。二人は甲板のロープに寄りかかり、海を眺めた。

 碧い海。白い波。空と海の境界が溶け合うような、広大な景色。

「リーシャ。守り手の力を失って——後悔しているか」

「していません。力は泉に還すべきものでした。世界のために。——ただ」

「ただ?」

「地脈を感じる感覚が、少しだけ——名残惜しいです。世界の呼吸が聞こえるのは、不思議で、美しい体験でした」

「また聞こえるかもしれない」

「どういう意味ですか」

「分からない。だが——お前の血には守り手の力がある。泉に還したのは残滓の力だ。血に刻まれたものは——消えないんじゃないか」

 リーシャが目を丸くした。

「それは——考えたことがありませんでした。研究の価値がありますね」

「学者の血が騒ぐか」

「騒ぎます。——とても」

 碧眼が輝いた。知的好奇心に火がついた時のリーシャの顔だ。レイドはその顔が好きだった。

 航海は穏やかに進んだ。二日目にはヴェルディアも船酔いから回復し、甲板で海を眺めるようになった。三日目の夕暮れ、船長が甲板に出てきた。

「乗客の皆さんに報告だ。——南方の海域で、正体不明の生物が目撃されている。念のため、夜間は甲板に出ないでほしい」

 レイドの目が鋭くなった。

「正体不明の生物?」

「海底から浮上してくる巨大な影だ。漁船が何隻か被害に遭っている。この商船なら大丈夫だと思うが——用心に越したことはない」

 船長が去った後、三人は顔を見合わせた。

「深淵の眷属——ですか」リーシャが言った。

「まだ分からない。だが——備えは必要だ」

 レイドは剣の柄に手を触れた。紋様の力はもうない。ただの剣士として——どこまで戦えるか。

 夜が来た。甲板には見張りの船乗りだけが残り、レイドは船室の窓から海を見つめていた。月光が波に反射し、銀色の道が水平線まで続いている。

 穏やかな夜だった。だが——

 真夜中。船が大きく揺れた。

 船乗りの叫び声。甲板を駆ける足音。そして——船底から響く、鈍い衝撃音。

「何かが——船にぶつかった!」

 レイドが剣を手に甲板に飛び出した。月光の下で、海面が不自然に盛り上がっている。黒い影。巨大な——何か。

 海面を割って、触手が伸びてきた。灰色の、鱗に覆われた太い触手。船縁を掴み、木材が軋む音を立てた。

「全員起きろ! 戦闘だ!」

 船が危険に傾いた。リーシャが船室から飛び出し、ヴェルディアが後に続いた。

 月光の下で——深海の生物が、その姿を現し始めていた。


  ◇


 触手は三本だった。

 船の左舷に二本、右舷に一本。太さは人の胴ほど。灰色の鱗が月光を反射し、吸盤のような突起が船縁の木材に食い込んでいる。

 海面の下に、さらに巨大な本体がいる。船底を押し上げるような圧力が、甲板の木板を通して足裏に伝わってきた。

「化け物だ!」船乗りが叫んだ。「こんなものは見たことがない!」

 レイドは剣を抜き、左舷の触手に斬りつけた。刃が鱗に当たり、火花が散る。硬い。通常の魔物の甲殻とは質が違う。

「リーシャ! 火の魔法で!」

 リーシャが詠唱し、火球を触手に叩きつけた。鱗が焦げ、触手が痙攣する。だがすぐに回復し、再び船縁を締め上げた。木材が割れる音がした。

「魔法が効きにくい。——この生物の鱗には、魔力を遮断する性質があります」

「なら物理で行く。——ヴェルディア、何か知恵は」

 ヴェルディアが触手を見つめていた。琥珀色の瞳に、記憶を辿る光がある。

「触手の付け根。鱗のない柔らかい部分がある。そこを斬れば——切断できる」

「付け根は海の中だ」

「私が引き上げる」

 ヴェルディアが船縁に駆け寄った。触手に——素手で触れた。

「何をする!」

「三千年間、魔力を管理してきた。この生物の魔力回路が——分かる。ここを押せば——」

 ヴェルディアが触手の特定の鱗を押した。触手が大きく震え、海中の本体が反応して触手を持ち上げた。付け根の、鱗のない灰白色の肉が——海面から現れた。

「今だ!」

 レイドの剣が弧を描いた。鱗のない肉に刃が沈み、触手が切断された。灰色の体液が甲板に散り、切れた触手がのたうちながら海に落ちた。

 リーシャが二本目の触手に集中的な魔法攻撃を浴びせ、ヴェルディアが再び付け根を露出させた。レイドが斬る。船乗りたちが右舷の触手をロープで縛り上げ、レイドが駆けつけて三本目も切断した。

 海面が大きく泡立ち——巨大な影が、ゆっくりと沈んでいった。

 甲板に沈黙が戻った。船乗りたちが呆然と海面を見つめている。

「……終わったのか」

「退いただけだ。殺してはいない」レイドが剣の血を拭った。

「ですが——触手を三本失えば、しばらくは戻ってこないでしょう」リーシャが言った。

 ヴェルディアが甲板に座り込んだ。息が荒い。顔が蒼白で、手が震えている。

「ヴェルディア」

「大丈夫だ。——ただ、力を使いすぎた。人間の体は——想像以上に脆い」

「力? 柱の力は手放したんじゃないのか」

「柱の力ではない。知識だ。三千年分の知識で——魔力回路を読んだだけだ。だが、それだけで体が——」

 ヴェルディアの瞼が落ちた。レイドが抱きかかえ、船室に運んだ。

 リーシャが簡易的な回復魔法をかけた。

「肉体的な消耗です。魔力の使用ではなく、神経の酷使。三千年間の知識を人間の脳で処理しようとしたから——脳が限界を超えたのでしょう」

「危険なのか」

「今は休めば大丈夫です。ですが——ヴェルディアさんの三千年分の知識は、人間の体には重すぎるのかもしれません」

 レイドはヴェルディアの寝顔を見つめた。琥珀色の瞳は閉じられ、穏やかな寝息が聞こえる。

 三千年の知識を持つ人間。それは——祝福なのか、呪いなのか。

 船は南に向かって進み続けた。海面は再び穏やかになったが——その下に、何が潜んでいるのか。三人は知らない。

 知らないまま、南の大陸に向かっていた。
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