勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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深淵の底で

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 海底の石室。礎石の前に、四人が立っていた。

 レイド。リーシャ。フェリクス。ヴァレリウス。

 ヴェルディアが礎石の横に座り、術式の指揮を執る。ガレスとジークが階段の入口に立ち、万が一の事態に備えた。

「始める前に——もう一度確認する」ヴェルディアが四人を見回した。「礎石に触れた瞬間から——引き返せない。魂の断片は自動的に吸い出される。痛みがある。意識が薄れる瞬間がある。だが——手を離すな。途中で途切れたら、封印全体が崩壊する」

 四人が頷いた。

「配置につけ」

 四人が礎石を囲んだ。石柱の四方に一人ずつ。五つ目の力——ヴェルディアの三千年前の刻印は、すでに石柱の中にある。

 レイドが北。リーシャが東。フェリクスが南。ヴァレリウスが西。

「手を——石柱に」

 四つの手が——同時に石柱に触れた。

 衝撃が走った。

 石柱の紋様が一斉に光り、石室全体が白い光に包まれた。足元の石が振動し、空気が震えた。

 レイドの手から——何かが引き出される感覚。痛みではない。だが——喪失の感覚。自分の中から、何かが流れ出していく。温かい。切ない。——懐かしい。

 視界が白くなった。そして——映像が浮かんだ。

 一周目の記憶。冒険者ギルドで名前を呼ばれた朝。「勇者レイド・アシュフォード」。仲間たちの笑顔。酒場での乾杯。街道を歩く足音。篝火を囲んで語り合った夜——。

 記憶が——一つずつ、石柱に吸い込まれていく。映像が薄くなり、輪郭が消え、色が抜けていく。

 リーシャの横で——碧の光が揺れていた。リーシャも何かを失っている。守り手の力の一部。幼い頃に地脈の声を聞いた記憶。学院で初めて魔法陣を描いた日の興奮——。

 フェリクスの南で——淡い光が点滅していた。フェリクスの計測魔力の精密さ。数字を読む時の鋭さ。ジークと出会った日の——金勘定の記憶——。

 ヴァレリウスの西で——白い光が燃えていた。信仰の炎。マルティウスの説教を初めて聞いた日。聖印が掌に宿った瞬間の感動——。

 四つの力が石柱に注がれていく。紋様の亀裂が——埋まっていく。新しい光が亀裂を満たし、五つの書体が再び交差点で結合する。

 石室が揺れた。

 ヴェルディアが叫んだ。

「耐えろ! あと少しで——」

 そのとき——石柱の下から、声が響いた。

 イルヴァーンの声。だが——これまでとは次元が違った。結晶球を通じた微かな囁きではない。石柱の直下——深淵の底から、直接響いてくる咆哮。

「『——やめろ! その石を——新しくするな! ヴェルディア——! 三千年の——三千年の計画が——!』」

 石室の床が割れた。

 石柱の直下に——亀裂が走った。石室の床を貫き、その下の岩盤に達する亀裂。亀裂の底から——赤い光が噴き出した。

「イルヴァーンが——礎石の下から直接干渉している!」ヴェルディアが叫んだ。

「手を離すな!」レイドが叫んだ。

 赤い光が石室を満たした。床の亀裂が広がり、赤い霧が噴き出す。霧の中から——形が現れた。

 手だ。巨大な手。人間の手のように五本の指を持つが——三倍の大きさで、黒い鱗に覆われている。山の眷属より遥かに大きい。その手が——亀裂の縁を掴み、引き裂こうとしている。

「ガレス!」

 ガレスが階段から駆け降りてきた。大盾を構え、亀裂の前に立ちはだかった。巨大な手が盾に触れた。ガレスの足が石床にめり込んだ。

「重い——が——止まる!」

 ジークが剣を抜いた。だが——剣では斬れない。物理攻撃は通じない。

「ヴェルディア! 何かできないのか!」ジークが叫んだ。

「私には——もう柱の力はない! だが——」

 ヴェルディアが石柱に手を当てた。三千年前の刻印が——ヴェルディアの手を通じて光った。

「私の分の紋様を——増幅する。時間稼ぎにしかならないが——」

 碧の光がヴェルディアの手から石柱に流れた。石柱の紋様が強く輝き、床の亀裂から噴き出す赤い光を押し戻した。巨大な手が——僅かに後退した。

「今だ! 残りの刻印を——完成させろ!」

 レイドが力を込めた。失われていく記憶に——手を伸ばすのをやめた。失っていい。ここで封印を完成させるなら——何を失ってもいい。

 リーシャが碧の光を最大出力で注いだ。額から血が流れているが——止まらない。

 フェリクスが歯を食いしばり、精密な魔力を石に刻んだ。

 ヴァレリウスが聖印の光を全開にした。白い法衣が風もないのにはためき、聖なる光が石室を照らした。

 四つの力が——石柱に刻まれた。紋様が完成した。

 五つの書体が——交差し、結合し、新たな封印の土台が形成された。

 石柱が——白い光を放った。

 床の亀裂が——塞がった。赤い光が後退し、巨大な手が引きずり込まれるように亀裂に戻っていく。

「『——ヴェルディア——覚えて——おけ——次は——必ず——』」

 イルヴァーンの声が——遠のいた。石室の床が修復され、赤い霧が消えた。

 石柱の光が収まった。新しい紋様が——石の表面に輝いている。三千年前の古い書体と、新しい四つの力の痕跡が調和している。

 全員が——膝をついた。

 レイドの視界が暗くなった。体中の力が抜けている。記憶の一部が——薄くなっている。何を失ったか——まだ分からない。だが——何かが消えた。

 リーシャが隣で荒い息をついていた。碧眼が霞んでいる。

「終わった——のですか」

「終わった」ヴェルディアが掠れた声で言った。「礎石は——新しくなった。五つの封印の土台が——」

 ヴェルディアの声が途切れた。琥珀色の瞳が——石柱の下を見ている。

「ヴェルディア?」

「……おかしい」

「何が」

「礎石の下——さっきの亀裂が走った場所。封印は塞いだ。だが——その下に。感じる。岩盤の奥に——空間がある」

「空間——」

「三千年前にはなかった空間だ。イルヴァーンが——三千年かけて掘ったのか。封印の下に——別の空間を作っていた」

 石室が静まり返った。

「どういうことだ」レイドが聞いた。

「封印は完全だ。礎石も修復した。五つの神殿の結晶球も正常に機能している。だが——イルヴァーンは、封印の外に出る方法を探していたのではない。封印の下に——別の世界を作ろうとしていた」

「別の——世界」

「深淵の奥に。封印で遮断された空間の中に——三千年かけて、何かを構築していた。それが何かは——分からない。だが——存在する。確実に」

 全員が石柱の下を見つめた。石の床。その下に——岩盤。岩盤の下に——深淵。そして深淵の中に——三千年の知性が構築した、未知の空間。

「今すぐ——確認できるか」

「無理だ。全員が限界だ。今の状態で深淵に降りれば——戻ってこれない」

「では——いつ」

「態勢を立て直してからだ。だが——長くは待てない。イルヴァーンが何を作ったか。それが——次の脅威になる前に」

 一行は石室を後にした。階段を上がり、広間を通り、通路を戻り、地上に出た。

 夕陽が海を照らしていた。碧い海。穏やかな波。港の灯台が光を回している。世界は——美しい。

 だがその底の底に——三千年の知性が作った何かがある。封印では止められない何かが。

 船上でレイドは空を見上げた。星が一つ、西の空に輝いている。

「ヴェルディア」

「何だ」

「世界を救った。柱を修復し、封印を直し、礎石を作り直した。だが——まだ終わらないんだな」

「ああ。——すまない。こんな旅に巻き込んで」

「巻き込まれたんじゃない。選んだんだ。——一緒に行くと」

 ヴェルディアが微かに笑った。

「お前は——いつもそうだ」

 レヴァルスの港が近づいてくる。灯りが並ぶ桟橋。宿の窓に明かりが灯っている。

 リーシャがレイドの隣に来た。銀髪が海風に揺れている。碧眼が——少し曇っている。何かを失った目。だが——光は消えていない。

「レイド。何を——失いましたか」

「まだ分からない。お前は」

「学院で——初めて魔法陣を描いた日の記憶が。輪郭だけ残って——色と感情が消えました。でも——」

「でも?」

「あなたとの記憶は——全部残っています。一つも消えていない」

 レイドは——微笑んだ。

「俺もだ。——お前との記憶は、全部ある」

 船が桟橋に着いた。全員が下船した。

 五つの封印。礎石の修復。ここまでの旅は——終わった。

 だが次の旅が——すでに始まっている。深淵の底に、三千年の知性が構築した未知の空間。それが何なのか。——確かめなければならない。

 レイドは港の灯台を見上げた。光が回り、海を照らしている。闇の中の、一筋の光。

 旅は——まだ終わらない。
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