勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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裏通りの猫と、勇者の嘘

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 香辛料と腐った果物の匂いが混じり合い、鼻の奥を刺す。王都の裏通りは、表の大通りとは別の生き物だった。日の光が建物の隙間からわずかに差し込むだけで、昼間だというのに路地裏は薄暗い。

 レイドは壁に背を預け、通りの奥を見つめていた。

 ——あいつは確か、この辺りにいたはずだ。

 一周目の記憶をたどる。半エルフの弓使い。猫のような目をした、口の減らない少女。冒険者ギルドに登録もせず、裏通りで情報を売り買いして日銭を稼いでいた。レイドのパーティーに入ったのは、もっと後のことだ。出会いの場所は——。

「あんた、さっきから何見てんの」

 声は上から降ってきた。

 視線を持ち上げる。二階の窓枠に、褐色の肌の少女が猫のように座っていた。銀色がかった髪を無造作に束ね、尖った耳が前髪の間から覗いている。碧い瞳が、値踏みするようにレイドを見下ろしていた。

「ミラ・セイレーンだな」

 少女の目が一瞬だけ細まった。

「あー、知らない人に名前呼ばれるの、あたし的にはかなり気持ち悪いんだけど」

「悪い。人を探していた」

「で、見つけたと。へえ」

 ミラは窓枠から身を翻し、壁を蹴って地面に着地した。音もなく。身のこなしは一周目と変わらない。

「何の用? 情報なら一件銀貨五枚。先払い」

「斥候を探している。腕の立つやつを」

「冒険者ギルドに行けば? あたし、登録してないし」

「だからここに来た」

 ミラが片眉を上げる。面白がるような、警戒するような、どちらともつかない表情だった。

「勇者パーティーの勧誘ってわけ?」

「よく知ってるな」

「情報屋なめんなっての。勇者認定式の翌日からパーティー編成の話でもちきりだし。で、C組の勇者さん——レイド・アシュフォードでしょ、あんた」

 レイドは否定しなかった。ミラは腕を組み、壁にもたれかかる。

「はいはい、了解。用件はわかった。で、答えは——無理っしょ」

「理由を聞いていいか」

「胡散臭いから」

 飾りのない言葉だった。ミラの碧い目が、まっすぐにレイドを射抜いている。


  ◇


 ミラは屋根の上に跳び上がると、ついてこいとも言わずに走り出した。レイドが追いかけると、三軒先の建物の屋根で足を止め、瓦の上にあぐらをかく。

 王都が一望できた。夕暮れが近づき、西の空が茜色に染まり始めている。大聖堂の尖塔が逆光でシルエットになり、その足元に広がる市街が金色の光を浴びていた。瓦にはまだ昼間の熱が残っており、座ると腿の裏が温かい。

「あんたさ、なんであたしなわけ」

 ミラは王都の景色を眺めたまま言った。風が銀髪を揺らしている。

「腕が立つ。耳が良い。情報の扱い方を知っている」

「そんなの、他にもいるでしょ」

「お前でなければ駄目だ」

 ミラが横目でレイドを見た。その目には、からかいの色はなかった。

「理由は」

「俺たちの旅には、ただ強いだけの斥候じゃ足りない。戦闘だけじゃなく、情報を集め、嘘を見抜き、裏の動きを読める人間が必要だ。冒険者ギルドにいるような、命令に従うだけの斥候じゃない。自分の頭で判断できるやつが」

 ミラは沈黙した。風が吹いて、遠くの鐘楼から鐘の音がかすかに聞こえる。

「……あたし、半エルフだよ」

 その声は、さっきまでの軽さとは違っていた。

「知ってる」

「じゃあわかるでしょ。人間にも、エルフにも、どっちにも居場所がないやつだよ、あたしは。パーティーに入れたって、面倒しか起きないっての」

 レイドは答える前に、一つ息を吸った。

 一周目のミラを思い出す。裏通りで一人、情報を売って生きていた少女。仲間に入った後も、最初の数日は誰にも背中を見せなかった。信頼を得るまでに、どれだけの時間がかかったか。

「居場所なら、俺が用意する」

 ミラの目が見開かれる。

「——一緒に来いよ」

 言ってから、レイドは自分の口調に気づいた。今のは、二周目の「俺」の言葉ではない。一周目の——まだ何も知らなかった頃の、真っ直ぐな勇者の言葉だ。

 慌てて表情を引き締める。

「……お前の力が必要だ。条件は悪くしない」

 取り繕った声は、自分でも不自然だと思った。ミラは数秒、じっとレイドの顔を見つめていた。

「今、口調変わったよね」

「……風のせいだ」

「はあ? 意味わかんないし」

 ミラが呆れたように肩をすくめた。だが、その口元がわずかに緩んでいるのをレイドは見逃さなかった。

「……まあ、いいけど。面白そうだし」

 それが、ミラの承諾だった。

「ただし、条件。あたしのやり方に口出さないこと。あと、ご飯は三食ちゃんと出して。裏通りの飯、まずいのよ」

「了解した」

「あとね」

 ミラが立ち上がり、夕焼けを背にしてレイドを見下ろした。逆光で表情は読めない。

「あんた、何か企んでるでしょ。あたしの目はごまかせないよ」

 心臓が跳ねた。だが顔には出さない。

「企むことなんてない。魔王を討伐する——それだけだ」

「ふうん」

 ミラは信じていない目で笑い、屋根の端から飛び降りた。


  ◇


 銀の猪亭の扉を開けると、炙り肉の匂いと喧噪が押し寄せてきた。

「おう、レイド! 遅かったじゃねえか!」

 ガレスの声が酒場中に響き渡る。奥のテーブルにはすでにリーシャも座っており、湯気の立つシチューの皿が並んでいた。

「新しい仲間を連れてきた」

 レイドが横に立つミラを示すと、ガレスが目を丸くした。

「ほう、嬢ちゃんか。弓使いか?」

「嬢ちゃんじゃないし。ミラ・セイレーン。斥候兼弓使い。で、おっさんは?」

「おっさ——! 俺はまだ二十五だぜ! ガレス・ブロンドだ、よろしくな!」

 ガレスが豪快に笑い、テーブルを叩いた。食器がガチャガチャと揺れる。リーシャがシチューの皿を素早く押さえた。

「リーシャ・フォルトナです。魔法使いを担当しています。よろしくお願いしますね」

「リーシャね。了解。……あー、あんたが学院首席の? 噂は聞いてるよ」

「噂、ですか?」

「情報屋だもん、あたし。王都で名の知れた人の情報は大体押さえてるし」

 リーシャが困ったように微笑む。ミラはすでに席に座り、テーブルの上のシチューに手を伸ばしていた。

「あっつ。でもうまい。裏通りの飯と天と地の差だし」

「ガハハ! 気に入った! 遠慮のない嬢ちゃんは嫌いじゃねえ!」

「だから嬢ちゃんじゃないって」

 ミラの軽口にガレスの笑い声が重なる。リーシャがくすくすと笑い、ミラに水の入った杯を差し出した。

「ミラさん、お水もどうぞ」

「ありがと。……ってか、さん付けやめてよ。ミラでいいし」

「では、ミラ。わたしのこともリーシャで構いませんよ」

「了解、リーシャ」

 あっという間に打ち解けていく三人を見ながら、レイドは椅子の背にもたれた。

 ——一周目と同じだ。

 ミラはいつだって、こうやって人の懐に入るのがうまかった。警戒心の強さと裏腹に、一度受け入れた相手には驚くほど素直になる。ガレスの豪快さとミラの軽さは相性がいい。リーシャの穏やかさが、その間をうまく繋いでいる。

 シチューの湯気が天井に向かって立ち昇る。木のテーブルには傷が多く、長い年月を経た酒場の歴史が刻まれている。笑い声と食器の音。温かい空気。

 これが——守りたいものだった。

 レイドはシチューを一口すくい、口に運んだ。じゃがいもが舌の上で崩れ、塩味のスープが喉を温める。

「ねえ、レイド」

 ミラが不意に呼んだ。

「なんだ」

「あたしのこと、なんで知ってたの? 名前も、半エルフってことも、裏通りにいるってことも。初対面のはずなのに」

 テーブルが一瞬、静かになった。リーシャの目が、わずかに鋭くなるのが見えた。

「……情報屋に情報屋がいると聞いた。お前の評判は裏通りでも有名だ」

「ふうん。まあ、いいけど」

 ミラはシチューをすすりながら、碧い目でレイドを見つめていた。信じていない。だが追及もしない。猫のように距離を取りながら、観察している。

 ガレスがエールを注文し、話題が明日の出発準備に移った。リーシャが荷物の一覧を読み上げ、ガレスが「そんなに持てるか!」と笑い、ミラが「体力ないおっさんだし」と追い打ちをかける。

 束の間の温もりだった。


  ◇


 夜風が頬を撫でた。

 酒場の扉を閉めると、中の喧噪が厚い木の板一枚を隔てて遠のく。星が出ていた。王都の夜空は街の灯りに負けて星が薄いが、それでも冬の星座がいくつか瞬いている。

 リーシャとガレスはまだ中にいる。レイドは冷たい空気を吸い込み、酒で火照った頭を冷ました。

「ちょっといい?」

 背後から声がした。振り返ると、ミラが扉の横に立っていた。腕を組み、壁にもたれて。

「いつからいた」

「あんたが出てきた時から。気配消すの、得意なんだよね」

 レイドは内心で舌を巻いた。一周目でも、ミラの隠密能力は群を抜いていた。

「一つ、土産話があるのよ」

 ミラの声のトーンが変わった。軽い調子はそのままだが、目が笑っていない。

「あたしの情報網って、裏通りだけじゃなくてね。教会の下働きとか、貴族の使用人とか、まあ色んなところに耳があるわけ」

「それで?」

「聖教会が動いてる。各勇者パーティーに『監視役』を送り込む計画があるみたい」

 レイドの背筋に冷たいものが走った。

 ——昨日、窓の外で見た密書の受け渡し。聖教会の従者と傭兵ギルドの密通。あれは、その布石だったのか。

「ソースは確かなのか」

「大聖堂の洗濯女の孫娘が、偶然書類を見たって。まあ信憑性は七割ってとこだけど——あんたのところにも、もうすぐ来るよ」

 ミラが肩をすくめた。

「あたしが言えるのはここまで。あ、あとね」

 ミラが壁から背を離し、レイドの目を真正面から覗き込んだ。

「あんた、聖教会のこと聞いた時、驚いてなかったよね。まるで、知ってたみたいな顔してた」

 夜風が二人の間を吹き抜ける。酒場の灯りがミラの尖った耳を照らし、碧い瞳に小さな炎を映していた。

「——面白いパーティーに入っちゃったみたいだし」

 ミラは猫のように身を翻し、裏通りの闇に溶けるように消えた。足音は聞こえなかった。

 レイドは一人、夜空を仰いだ。星が遠い。

 監視役。聖教会が勇者パーティーの中に目を送り込む。一周目にはなかった動きだ。何かが変わり始めている。レイドの行動が、すでに波紋を広げているのか。

 拳を握った。爪が掌に食い込む。

 酒場の扉の向こうから、ガレスの笑い声が聞こえた。
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