魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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拳と障壁

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 石畳を蹴る足音が、自分の鼓動と重なる。

 鉄心は人混みを掻き分けながら広場へ走った。鍛冶場から広場まで、大通りを抜けて二百歩もない。それでも間に合わないかもしれない——そんな焦りが、脚に力を込めさせた。

 昼下がりの広場は、本来なら市場の喧騒で満ちている時間帯だ。だが今、露店を覆う日除け布がばたばたと風に煽られ、果物が石畳の上を転がっていた。風に混じって、焦げた空気の匂いが鼻をつく。雷撃魔法の残り香だ。

 人垣の隙間から見えた光景に、鉄心の足が止まった。

 若い男が、倒れた老商人に向かって杖を突きつけている。金糸の刺繍が施されたローブ。その胸元に縫い取られた紋章を、鉄心は知らない。だが一目でわかる——貴族だ。

「聞こえなかったか? 通行税だと言っている」

 男の声は、鷹揚に笑っていた。杖の先端から青白い火花が散る。

「も、もう払える金は……」

 老商人が震える手で空の財布を見せた。散乱した布地や食器が、彼の商品だったのだろう。風魔法で吹き散らされたらしく、広場の隅まで飛んでいる。

 周囲の衛兵は、柱の陰に身を隠していた。視線を逸らし、見て見ぬふりを決め込んでいる。

 鉄心は人垣を割って、広場に踏み出した。


  ◇


「大丈夫か、じいちゃん!」

 鉄心は老商人の傍にしゃがみ込み、背中に手を当てた。薄い身体が小刻みに震えている。額に擦り傷があり、石畳にぶつけたのだろう、血が滲んでいた。

「あ、あんた、逃げなさい……あの方はグラナート家縁の——」

「動くな、ノーマジック」

 頭上から降ってきた声に、鉄心は顔を上げた。

 若い貴族——レクスと名乗る男が、杖を鉄心に向けていた。整った顔立ちだが、口元に浮かぶ笑みは嗜虐的だ。翡翠色の瞳が、鉄心の鍛え上げられた肉体を値踏みするように見下ろす。

「ほう。この街にもまだこんな化け物じみた体をした野蛮人がいたとはな」

「化け物は余計だろ。俺はこれでも——」

「黙れ。グラナート家の名において命じている。ノーマジックは道を空けろ」

 グラナート。その名前に、群衆の中から息を呑む音が聞こえた。この街でも名の知れた貴族らしい。だが今はそれどころじゃない。

「なあ」

 鉄心は立ち上がった。レクスより頭一つ分高い視線から、静かに見下ろす。

「やめてくれないか。じいちゃん、怪我してるんだ」

 穏やかな声だった。怒りではなく、ただ純粋な頼み事。しかしレクスの頬が、みるみる紅潮した。

「ノーマジックが——この私に命令するだと?」

 杖が振り上げられた。先端に紫電が凝縮する。群衆が悲鳴を上げて後退した。

「思い知れ。魔法の前に、筋肉など——」

 雷撃。

 紫色の稲妻が鉄心の胸を直撃した。

 バチィッッ、と空気が弾ける轟音。閃光が広場を白く染める。鉄心の周囲の石畳が放射状にひび割れ、焦げた匂いが立ち昇った。

 煙が晴れる。

 鉄心は——そこに立っていた。

 微動だにしていない。胸元の服が焦げて穴が開いている。皮膚が赤く染まっているが、それだけだ。拳甲を嵌めた両手が、ゆっくりと握られた。

「……は?」

 レクスの口が半開きになった。杖を持つ手が、かすかに震えている。

「いってぇ……」鉄心は胸元をさすった。「静電気の親玉みたいなやつだな。冬場の体育館のドアノブ思い出すわ」

「ば、馬鹿な。今のは中級雷撃だぞ! 人間が耐えられるはずが——」

「中級? じゃあ上級はもっと痛いのか。……できればやめてほしいんだけど」

 鉄心は一歩、前に出た。

 レクスの瞳に、初めて動揺の色が走った。


  ◇


「ふざけるな……ふざけるなっ!」

 レクスの杖から、矢継ぎ早に魔法が放たれた。

 風刃。鉄心の頬を掠め、一筋の赤い線を引く。鉄心は首を傾げただけで、歩みを止めない。

 火球。胸に直撃し、衝撃で半歩だけ後退した。だが次の瞬間にはまた前進している。拳甲の表面を炎が舐め、すぐに消えた。

 氷槍。肩に突き刺さる——はずだった。鍛え上げられた僧帽筋の上で、氷の槍が砕け散る。

「痛くないとは言わないけど……」

 鉄心は、また一歩。

「この程度じゃ、体育教師は止まらないぞ」

 群衆がざわめいた。あり得ない光景だった。魔法を何発も受けながら、一歩ずつ、確実に距離を詰めてくる巨体。その目に怒りはない。ただ——揺るがない。

 人垣の後方で、誰かが息を呑んだ。濃紺のローブの胸元に、翼を広げた鷲の紋章——グランドール魔法学院の校章が、午後の日差しを受けて鈍く光っていた。その人物は、鉄心の一挙一動を食い入るように見つめている。

「な、なんだ、お前は……!」

 レクスが後退する。杖を握る手が白くなるほど震えていた。足がもつれ、石畳に尻餅をつきかける。

「来るなっ! 来るな、化け物!」

 鉄心の眉が、わずかに下がった。

 化け物。

 この世界に来てから何度も投げつけられた言葉だ。最初は気にならなかった。だが今、怯えた目で叫ぶレクスを見て、胸の奥が軋んだ。

 ——俺は別に、怖がらせたいわけじゃねえんだけどな。

 ただ、じいちゃんが殴られてるのを見て、黙ってられなかっただけだ。体育教師の性分ってやつかもしれない。教え子が泣いてるのを放っておける人間は、教壇に立つ資格がない。

 それは、前の世界でも、この世界でも変わらない。

「なあ、もうやめにしないか。謝れば——」

「黙れぇっ!」

 レクスの絶叫と共に、空気が変わった。

 杖から放たれたのは、攻撃魔法ではなかった。鉄心の前方二メートルの空間に、半透明の壁が出現する。淡い青色の光を放つそれは、地面から天を突くように伸び、道を完全に塞いだ。

 絶対防御——魔法障壁。

 空気に触れた部分が、低い唸りを上げている。壁の表面を走る魔力の紋様が、脈打つように明滅していた。

「はぁ……はぁ……見たか」

 レクスが障壁の向こうで、荒い息をつきながら笑った。恐怖の裏返しのような、引き攣った笑みだった。

「これが『絶対防御』だ。A級魔法使いの全力攻撃すら弾く、上位防御魔法。どれだけ筋肉を鍛えようが、この壁の前では無意味だ」

 鉄心は障壁の前で足を止めた。手を伸ばし、その表面に指先で触れる。

 硬い。

 冷たいとも熱いとも違う、不思議な感触。指先から微かな痺れが走り、拳甲の表面がかすかに震えた。——あの星鉄鋼の共鳴に似た感覚だった。

「さあ、この壁を破れるものなら破ってみろ、ノーマジック!」

 レクスの声が、障壁の向こうから響く。余裕を取り戻したその口調に、群衆の間から落胆の溜息が漏れた。

 やっぱり無理か。魔法には勝てないのか——。

 そんな空気が広場を覆いかけたとき。

 鉄心が、静かに拳を構えた。

 右足を半歩引く。腰を落とす。拳甲を嵌めた右拳を、ゆっくりと胸の前に引き絞る。

 群衆が、息を止めた。

「壁か」

 鉄心の唇が、小さく動いた。

「体育の授業で壁なんて——ぶち破るためにあるって教えてたんだよな」

 拳甲の表面に、淡い光が灯った。
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