魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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砕拳——魔法障壁を超えた男

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 広場を覆う空気が、凍てついたように動かない。

 レクスの絶対防御障壁が、透明な壁となって鉄心の前に立ちはだかっている。淡い青白い光が幾重にも重なり合い、まるでこの世界そのものが「ここから先は通さない」と宣言しているかのようだった。

 石畳に倒れた商人たちのうめき声が、やけに遠くに聞こえる。

「やめておけ……」

 群衆の誰かが、かすれた声で言った。

「あれはA級防御魔法だ。王都の城壁にも使われる障壁だぞ。物理じゃ絶対に——」

「砲撃魔法ですら三発は耐える代物だ。素手でどうにかなるわけがない」

 囁きが波紋のように広がっていく。諦めの空気。仕方がないという空気。あの横暴な貴族に逆らっても無駄だという、この世界に染みついた常識が、広場全体を支配していた。

「…………」

 鉄心は、黙ってその障壁を見つめていた。

 拳を握り、開く。握り、開く。指の関節がぽきりと鳴った。

「おい、ノーマジック。わかっただろう?」

 障壁の向こうで、レクスが嘲笑う。腰を抜かしかけた足を何とか踏ん張り、余裕を取り繕った笑みを浮かべている。唇の端が引きつっていた。

「貴様がいくら腕力を振り回したところで、魔法の前には無力なのだ。それが——この世界の道理だ」

 鉄心は答えなかった。

 代わりに、深く、長く、息を吸い込んだ。

 広場の埃っぽい空気が肺を満たす。焼けた石畳の熱気。遠くから漂う屋台の焦げた油の匂い。そして——倒れた商人たちの血の匂い。

 その瞬間、脳裏にフラッシュバックが走った。


  ◇


 ——体育祭の日だった。

 リレーの最終走者。前の走者が転倒して、チームは最下位に沈んでいた。バトンを受け取った生徒の目に、諦めの色が浮かんでいる。

 体育教師の剛田鉄心は、トラックの脇から叫んだ。

「壁を前にして立ち止まるな!」

 腹の底から絞り出した声が、秋空に突き抜けた。

「追いつけるかなんて考えるな! 足を動かせ! 腕を振れ! お前の体は、お前が思ってる百倍すげえんだ!」

 生徒は走った。目を見開いて、歯を食いしばって、がむしゃらに走った。

 結果は——三位だった。奇跡なんかじゃない。ただ、全力を出しただけだ。

 あの時の生徒の顔を、鉄心は忘れていない。泣きながら笑った、あの顔を。


  ◇


 目を開けた。

 視界に映る青白い障壁が、あの日の「壁」と重なった。

「なあ」

 鉄心が口を開いた。静かな声だった。

「そっちの道理はよく知らねえけどさ」

 腰を深く落とす。左足を半歩引き、重心を後方に預ける。右拳を腰の横に構えた。

 全身の筋繊維が、一本一本目を覚ますように収縮していく。ふくらはぎから太腿、腰、背中、肩、腕——連動する筋肉の波が、下から上へと駆け上がっていく。

「壁があったら——」

 石畳が、鉄心の足元から放射状にひび割れた。

 群衆が息を呑む。

「ぶち破るのが、俺の道理だ」

 踏み込み。

 石畳が爆ぜた。

 腰の回転が爆発的な運動エネルギーを生み、背筋がそれを加速させ、肩から腕へ、腕から拳へと力の奔流が集束する。

 渾身の——正拳突き。

 拳が障壁に触れた。

 その瞬間——世界が、歪んだ。

 空間そのものがたわむような感覚。障壁の表面に同心円状の波紋が広がり、青白い光が悲鳴を上げるように明滅する。

 ——そして、鉄心の拳に、微かな光が宿った。

 第5話で拳甲が完成した時と同じ、淡い、しかし確かな光。鉄心本人は気づいていない。だが、広場の二階テラスから見下ろしていた人物の目は、それを見逃さなかった。

 亀裂が走る。

 蜘蛛の巣のように、障壁全体にヒビが広がっていく。

「ば……馬鹿な!?」

 レクスの顔から血の気が引いた。

「A級障壁が——ありえない——!」

 次の瞬間。

 魔法障壁が、砕けた。

 音はなかった。青白い光の破片が宙に溶けるように散り、広場に静かに降り注いでいく。爆発でも崩壊でもない。あれほど堅牢だった壁が、ただ——消えた。まるで最初からそこに何もなかったかのように。

 静寂。

 広場に集まった百人以上の人間が、誰一人として声を発せなかった。

 鉄心は構えを解いた。右拳をゆっくりと目の前に持ち上げ、じっと見つめる。

「…………」

 拳甲の表面に走った細かなヒビ。微かに痺れる指先。——今の、何だったんだ。

 全力を出しただけだ。いつもと同じように。なのに、拳が光った気がした。この世界に来てから、自分の体に何かが起きている。わからない。わからないが——。

 数秒の沈黙の後、鉄心はふっと息を吐いた。我に返ったように首を振り、右手をぶらぶらと振る。

「……手、痺れたな」

 ——その呟きで、時間が動き出した。

 最前列にいた老商人が、膝から崩れ落ちた。その隣で杖を握った若い魔法使いが、自分の手が震えていることに気づかない。

「魔法障壁を——素手で……?」

 絞り出すようなその一言が、沈黙を破った。だが、それ以上の言葉を継げる者はいなかった。A級魔法障壁。砲撃魔法三発分の耐久力。それを、拳一つで。

「ひっ——」

 レクスの喉から、引きつった悲鳴が漏れた。腰が完全に砕けている。地面に尻をつき、両手で後ずさりしながら、鉄心を見上げていた。その瞳に映っていたのは、もはや怒りでも軽蔑でもない。純粋な、原始的な恐怖だった。

「ま、待て——来るな——」

「ん? 別に何もしねえよ」

 鉄心は首を傾げた。本気で不思議そうな顔だった。

「もう障壁ないんだし、大人しくしてくれりゃそれで——」

「うわああああっ!」

 レクスは立ち上がるなり、群衆を押しのけて走り出した。マントの裾が翻り、石畳に派手に躓きながらも、一度も振り返ることなく広場から消えていった。

「……行っちまったな」

 鉄心は数秒ほど走り去るレクスの背中を見送ってから、倒れたままの商人たちに向き直った。

「おう、大丈夫か? 立てるか?」

 膝をつき、大きな手で商人の背を支える。もう片方の手で散らばった商品を拾い集めながら、鉄心は屈託のない笑顔を浮かべた。

「もう大丈夫だ。怪我はないか?」

「あ……ああ……」

 商人は目を丸くしたまま、鉄心の顔と、砕け散った障壁の残滓を交互に見ていた。

「あんた……いったい、何者なんだ……?」

「ん? ただの——まあ、筋トレが好きなだけの男っすよ」

 鉄心は頭の後ろを掻いた。何でもないことをしただけだという顔で。

 群衆の視線が変わっていた。恐怖と驚嘆が入り混じった、複雑な目。「すごい」と言いたいのに、「怖い」が先に来てしまう——そんな矛盾した視線が、鉄心に集中していた。

 だが、その中を縫うようにして駆け寄ってくる小さな影があった。

「鉄心のおっちゃん、すげーーー!」

 ノーマジック区画の子供たちだ。三人、四人、五人——次々と鉄心の周りに集まってくる。目を輝かせ、口を大きく開けて、興奮で頬を紅潮させながら。

「障壁バーンって! バリバリバリって!」

「おっちゃんの拳、光ってた! 見た見た!」

「俺もあんなパンチ打ちてえ!」

「おいおい、そんな近づくと危ねえだろ」

 鉄心はしゃがみ込んで、子供たちと目線を合わせた。大きな手で一番小さな子の頭をくしゃりと撫でる。

「怪我はしてねえか? さっきの衝撃、けっこうあったろ」

「平気平気! ねえおっちゃん、今のどうやったの? 教えて!」

「ん? ああ、あれな——腰をこうグッと入れて、全身の力を拳に集中させるんだ。腕だけで打つんじゃなくて、足の裏から——」

 鉄心が真剣な顔で正拳突きのフォームを教え始める。子供たちは目をきらきらさせながら、小さな拳を握って真似をした。

 群衆の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 恐怖の中に、別の何かが芽生え始めている。


  ◇


 広場を見下ろす二階テラス。

 柱の影に立つ人物が、静かに身を翻した。グランドール魔法学院の紋章が、ローブの胸元で鈍く光っている。教務主任——レヴィン・アッシュフォード。

 彼は最初からここにいた。

 レクスの横暴も。ノーマジックの商人たちが蹴り飛ばされる様も。全てを、あの冷徹な灰色の瞳で観察していた。介入する気は、最初からなかった。

 ——見たかったのだ。あの男が、何をするのかを。

 テラスの奥で、通信魔法の術式が淡い光を灯す。レヴィンの指先が紋様を描き、空中に浮かぶ光の円が学院長室へと繋がった。

「——閣下。ご報告があります」

 しばしの沈黙。やがて、通信の向こうから重厚な声が響いた。

「何だ」

「ノーマジックが、A級魔法障壁を素手で破壊しました。——現時点で、この事実を把握しているのは私のみです。街の群衆は目にしたでしょうが、何が起きたか正確に理解できた者はほぼおりません」

 長い、長い沈黙が落ちた。

 通信魔法の光が微かに揺らめく。レヴィンは表情を変えずに、返答を待った。

 やがて——ヴァルター・グリムハルトの声が、静かに、しかし底知れぬ重みを伴って響いた。

「……面白い」

 レヴィンの眉が、かすかに動いた。予想していた「排除せよ」という命令は、来なかった。

「そのノーマジックを——泳がせろ。まだ、手を出すな。この件、学院の記録には残すな。公にはまだ早い」

 通信が切れた。

 レヴィンは眼下の広場に目を戻した。子供たちに囲まれて正拳突きを教えている大男の姿が、夕陽に照らされている。

 ——あの拳に宿った光。あれは、何だ。

 灰色の瞳が、鋭く細められた。
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